第十六話 意地 -1
11月の半ば過ぎ。会社で課長に呼ばれた。
「夕べ、ジェロームと何かあったか?」
「夕べって?」
「ジェロームと一緒に帰ったろう?」
「いえ。昨日は会社で別れてそれきりです」
「下であいつを待ってたんじゃなくて?」
「……何かあったんですね?」
「お前が待ってるから先に帰ると言っていた。けれどえらく元気無いからお前と何かあったのかと思ったんだ。呼び出して悪かったな」
嘘をつくこと自体がおかしい。ジェロームはそんなことをしない。自席に戻るともう昼だった。
「ジェローム、飯!」
ビクリ! とするジェロームにピンと来るものを感じた。
「フェアリー、行くぞ」
「え、いいんですか?」
「俺、今太っ腹。だから奢ってやる」
向かう途中、黙り込みがちなジェロームに一緒にパフェを食べると言うとやっと反応が出た。
「華さんがデザート食べるんですか!?」
「あんまりいつも美味しそうな顔してるからさ、ちょっと食ってみる」
多少、好奇心もあった。真理恵もきっと食べたがるだろうし。そして後悔した。
「これ、無理だ……」
「なんででふか?」
「スプーン咥えずに喋れ」
「なんでですか?」
「上から下まで甘い」
「当たり前じゃないですか、デザートなんだから」
「お前に騙された。これ、お前払えよ、あとやるから」
「そんな……」
いつの間にか不安な顔が消えている。そこを突いた。
「お前さ、昨日帰りなんかあった?」
「帰り?」
顔が強張るのが分かった。
「別に何も」
「そ、ならいいけど」
そして口調は変えずにストレートに言った。
「で、相田、相変わらずだった?」
華を見上げたジェロームの動きが完全に止まった。
聞くとぽつぽつと話し出す。用があったから華と一緒だと言って一人で帰ったのだと。
「あんまり言いたくなかったけど。ああいうのって病気だ。お前は厄介なウィルスにひっ捕まったんだ。そこ自覚した方がいい。甘く見たらだめだ、一人になるな」
「はい」
「あいつ、お前にしがみつく気なんだよ。アパートに来た時に分かったろ? 車買えば外でも安心だからさ、そこまでは我慢しろ。きついだろうけど」
「……はい」
食べ終わって外に出た。すぐそばの自販機を見る。
「ちょっと待ってろ、そこの自販のコーヒーが好きなんだ」
ほんの数歩だ。ガタンと落ちた缶を取って振り返った。自分を見ているジェロームの向こう側に目がいった。缶を落として叫んだ。
「ジェロームっ! 逃げろっ!」
コマ送りのような、あっという間のような。相田の手に光るものが見えてジェロームに飛びついて突き飛ばした。左腕に激痛が走る。周りの音が反響するように聞こえた。
『華さん! 華さん!』
ジェロームの叫び声が遠くから聞こえる。狂ったような笑いを浮かべた相田が血に塗れた包丁を向けて覆いかぶさってくるのが見えた。
(これ以上刺されて堪るかっ!)
胸を狙って突き出してきた腕を掴んだ。体を沈ませながらその手をぐっと引き寄せる。左腕が利かない。そのまま右腕と肩を使って容赦なく相田の体をコンクリートに叩きつけた。
「華さん、華さん……」
左腕を掴んで座り込んだ横にジェロームが膝を突く。唇を震わせて泣いているジェロームが血の滴る腕を見つめていた。
「血が……」
「うん、ちょっとやられた。お前は? どこか刺されてないか?」
刺されたばかり。まだ興奮しているから痛みを実感していない。
「俺はたいしたことないです、華さんが……助けてくれたから」
「泣くなって! 大丈夫だから。コート着て来れば良かった。でもスーツがクッションになったんだ」
相田の方に目を向けると身動きもせずに転がっている。
(チクショー、蹴り、入れたい!)
でもさすがに立ち上がれそうにない。ジェロームがいるから痩せ我慢をしているが、そろそろ歯を食いしばっていないと呻き声が漏れそうだ。
ジェロームが電話をかけるのを見ていた。まともに喋れずにいる。
(こいつが刺されたんじゃなくてよかった……)
それだけが救いだ。これで相田も刑務所行きだろう。
警官が走ってくるのと課長たちが走ってくるのはほぼ同時だった。何も羽織っていない課長にジェロームが飛びついた。課長はしっかりとジェロームを抱きとめたまま、華に怒鳴った。
「華、大丈夫か!?」
「はい、大丈夫です」
ジェロームに聞こえる。だから大丈夫で通した。相田のことは放っておいても警官がなんとかするだろう。そこに救急車のサイレンが聞こえた。
(救急車? 誰だ、そんなの呼んだ間抜けは!)
この人だかりとサイレンの音が思い出させる、柿本から逃げ出したあの夜を。
課長がそばに来た。
「何があったんだ?」
「そいつがジェロームの真後ろにいてチラッと光るもんが見えたんですよ。で俺が投げ飛ばしたんです」
「腕……」
労わるような目つきだ。
「強がり言いません。痛いです、マジで。でも救急車はごめんです」
「そう言うな。ちゃんと手当てしてもらって来い」
あの記憶が蘇りそうになるのを気力で封じ込めた。真理恵が戻ってきてからやっと悪夢を見なくなったのに。今あの顔が鮮明に浮かぶ。思い出したくもないあの声と一緒に。
ジェロームの方を見て警官が指を差すのを見た。
(あいつ……くそっ! もっと早く跳び出せば!)
自分の血よりジェロームの血を流したことが許せない。
池沢がそばにやってきた。
「さ、華。救急車に乗るんだ」
「チーフ、こんなの乗りたくないです」
「そう言うな、向こうだって怪我人を目の前にして手ぶらで帰るわけにはいかないだろう」
「そうですけど」
「それよりジェロームのそばにいてやってくれないか。あいつ、まだガタガタ震えが止まってない。俺は後ろから自分の車でついてくから」
それを言われると弱い。相田が捕まったとはいえ、今のジェロームを一人になどしたくはない。青い顔のジェロームを見てため息をついた。
「いいですよ、任せてください」
救急車に乗ってきたジェロームの膝に手を載せた。
「お互い、いい迷惑だよな。大丈夫か? 傷、痛いだろう」
「俺なんか……華さんをこんなことに巻き込んで……」
「逆だよ、俺が一緒で良かった! お前一人ならどうなってたことか」
「華さんにこんなケガをさせるくらいなら俺一人の方が良かった!」
思わず右手で引っ叩いていた。救急隊員が慌てて止める。
「バカヤローッ! 何を言ってんだ、お前は。誰がそんなことで喜ぶんだよ、俺か? 俺が、『自分は刺されなくて良かった』なんて言う男に見えんのか!? ホッとしたんだよ、お前が無事で。でもその血を見てカッとなった。今相田がここにいたら何度でも投げ飛ばしてやる! なぜか分かるか? お前を守りたいからだ!」
怒鳴ったせいで頭がくらくらする。出血で冷や汗が出ているのが分かる。救急隊員に横になるように言われた。
「いいですか、出血がひどいですからね、もう興奮しないように。落ち着いてください」
袖で目を拭ったまま腕を当てて泣いているジェロームが小さい子どものように見えた。
「怒鳴ってごめん。でもな、そんなこと考えるなよ。相田も捕まった。いいこともあったってことさ。そう思えよ。俺は思ってるから」
顔に腕を押し当てたままジェロームは小さく頷いた。
日曜日には結婚式だ。夢見ていた真理恵との生活が始まる。本当なら今頃、うきうきとジェロームにのろけ話でも聞かせていたはずだった。その状況が一変した。
(マリエになんて言おう……)
心配をかけるに決まっている。電話をすべきなのだがどうしても携帯を手に出来ない。
病院では華はイライラしっ放しだった。
(手当てだけしてくれりゃいいんだ、今あれこれ聞くなよっ!)
前後の事情を聞かれる。最初はきちんと答えていた華も、そのしつこさに嫌気がさしてきた。ジェロームは混乱しきっていたようで、「ほとんど何も聞けないからあなたに聞きたいんです」と言われた。
「こっちは今傷を縫われたばっかりなんだ、ちょっと勘弁してもらえませんか? それよりあのヤローをしっかり取り調べてください!」
担当している刑事に言っても仕方ないことだろうが、じゃ、誰に言えばいいのか。元々そんなに忍耐強い方じゃない。だんだん辛辣な言葉が飛び出しそうになる。
(だめだ、これ以上……)
何より、ジェロームと話をしたい。あのままの状態でいいわけがない。様子を見に来た池沢に逆にジェロームの様子を聞いた。
「厳しい状況だな……ショックが強すぎたんだよ。病院に着いた時は多少マシだったんだがな」
当然だろう、ストーカーまがいのことを散々されて挙句に刺されそうになったのだから。
(いや…… 俺の胸を真っ直ぐ狙ってきた。あいつに『殺す』ってことに迷い無かったってことか? じゃ、ジェロームを襲ったのは……)
ゾッとした、真昼の街中で刃物を持った男に襲われる恐怖。今、その恐怖に鷲掴みされているジェロームから離れるわけには行かない。
廊下に出ると長椅子にジェロームが座っていた。どこを見ているのか分からないような目。
(俺も病院のベッドや自分の部屋でこんな顔をしていたんだろうな……)
「お前は帰れ。明日も無理しなくていい」
「チーフ、会社に戻ります。ジェロームはきっと課長が連れて帰りますよね。俺もそれまで帰る気無いですから」
「華!」
「なんです?」
「軽傷だとは医者は言ってなかったぞ」
「じゃ、藪医者ってことです。俺はたいしたことない。けどあいつは……」
振り返る池沢の表情は硬かった。
「だからと言ってお前を会社に戻していいってことにはならない。安静にしろって言われただろう」
「このまま帰って安静になんかしてられるわけ無いでしょう! 頭に血が上ってんだから! 俺を帰すってんならこの足で警察に殴り込みに行きます。相田のヤロー、あのまま放っておいて堪るか!」
「おい! キレるな!」
「キレるな? 切ってきたのは向こうじゃん!」
池沢が考え込んだ。
「分かった、会社に戻ろう。だからそれ以上興奮するな。お前に何かあればあいつはもっと苦しむぞ」
それを聞いて華は怒鳴るのを我慢した。確かに今のジェロームを自分が刺激するわけには行かない。
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