第十五話 笑顔
次の日、ジェロームが嬉しそうに千枝に頭を下げているのを見て哲平の活躍を知った。
(哲平さん、やったじゃん!)
久しぶりのジェロームの心からの笑顔だ。ヤクザ映画を見ているみたいだったというジェロームの言葉に、(こいつ、そんなの見てんのか)と、それはそれで驚いた。
だが哲平の迫力は相当なものだったのだろう、一晩経ってもジェロームの興奮は治まっていない。空手をやってると言ったという哲平に吹き出すし、それが通用したということにも笑える。
「空手ぇ? 哲平が? 歌で倒した方がいいんじゃないか?」
池沢の言葉にみんなで涙が出るほど笑う。華が追うように聞く。
「で、その後こう言わなかったか?『ホントに殴られたらどうしようと思った!』って」
「言ってました、それ! ヤクザみたいだったって言ったら、ちょうど映画見てたからって」
「相変わらず哲平さんの頭、軽やかだなぁ」
呆れるというより感心してしまう。そして舌を巻く。こんなことに限らず、仕事でも何かを自分に取り入れることにかけてはとてもじゃないが太刀打ちできない。初めてプレゼンを一緒にやった時のことを思い出す。
(軽やかだから出来んのかなぁ)
褒めてるんだかけなしているんだか。
「新しい家に遊びにきてほしいです」
初めて言ったのだろう、その言葉を。ジェロームの上気した顔が初々しい。
引っ越しを午前中には終わらせようと、土曜は午前中に集まった。メンバーは課長、池沢、そして自分。とにかく楽しい。
自分が引っ越しした時に新居に移る楽しさを知ったが、それよりこっちが楽しい。
「これどこに置きたい?」
「あの……決めてないです」
「じゃ、この辺りな。これは?」
「えと、悩んでて」
「じゃ、ここに置くぞ」
家主より自分が置き場所の指示をして、ジェロームはその後をくっついて歩いている。
「おい、お前の引っ越しだぞ」
「はい」
「陣頭指揮はお前が立てよ」
「華さんでいいです」
「お前なぁ……」
縋るような目にため息ついて配置は全部華が受け持った。課長が笑って見ている。哲平がいたら哲平に仕切られていただろう。
(だったら俺が決めた方がいいに決まってる)
なんて失礼なことを考える。
だいたい哲平に対してはいつも失礼なことを考えるし、普通にそれを声にも出す。睨まれはするが、哲平には安心して本音を駄々洩れ出来るのだ。
(そうだ!)
「ジェローム、一つ提案なんだけど」
「何ですか?」
「俺、電化製品なんか、リサイクルで金出して引き取ってもらう物がいろいろあるんだよ。新居でダブるんだよね。それ使わないか? 余裕出来たら新しいのと買い替えればいいだろう?」
「本当ですか!?」
「お、食いついたね。あるのはテレビとオーディオだ。チェストとかテーブルとかソファとか。今度、見に来いよ」
「テレビ!」
そこで課長が突っ込んできた。
「華、俺んとこにいる間、ジェロームはずっとテレビを占領してるんだ。お笑いに嵌ってるんだよ」
「お笑いに!?」
意外過ぎてピンとこない。
「隣同士座って見てると面白いぞ。どこでも笑うんだ、ジェロームは。どこがツボなんだか分からない。終いにはテレビよりコイツを見て笑ってる」
笑ってしまった。新鮮な話。それなのに想像できそうな。
けれど真っ赤になっているジェロームにが課長に向ける顔に、ふっと真顔になってしまった。この前感じた違和感がまた顔をもたげる。
ジェロームの視線を感じたのか、課長が目を向けた。慈愛に満ちているような。
(保護者も同然だし。ジェローム、本当に慕ってるんだな)
心の中でそんな形で繋がっているのだろう。
(心で繋がっている……そうだよな)
そう考えることでどこか納得した。
結構片付いて見回すとジェロームがいない。
「あれ? ジェロームは?」
「あいつ、バスルームとトイレ覗いて感動してる最中だ」
課長の言葉で目が点になる。
「マジ? だって課長んとこにいたんでしょ?」
「俺んとこと向きが違うからだとさ」
みんなが笑っている中をそっと覗きに行った。
――バタン バタン ジャーッ
開けたり閉めたり、電気を点けたり消したり。子どもがオモチャをもらったみたいに目を輝かしてバスルームを開けて、今度はシャワーの出る音。
(どんだけ喜んでるんだよ)
可笑しいのに、涙が滲みそうになる。アパートが華の中で蘇る。
(……良かったな……楽しめよ、うんと。お前の風呂、お前のシャワー、お前のトイレだ)
その言葉にしても可笑しいはずなのに、涙腺が開きそうになって慌ててみんなの元に戻った。
しばらくして戻ったジェロームのキョトンとした顔にみんなが笑ったが、華は下を向いて後ろの段ボールを潰した。
買い出しに行っていた三途川と千枝が戻ってきた。物が少ないという千枝の声に『華さんにいろいろもらうんです』とジェロームが答える。
(思いついて良かった!)
中古だが、渡せる物があることが嬉しい。
料理を一緒にやろうという千枝にすかさず課長が突っ込む。
「千枝、止めとけ。腹壊す。こいつが作った茄子の味噌汁は、ダシが砂糖だった」
「うそ! 食えないじゃん!」
女性陣が台所に立っている間のお喋りで華が小さい声でジェロームに聞いた。
「独り暮らしなのにホントに料理しなかったのか?」
自炊した方が経済的に決まっている。
「……勉強してバイトしてたら疲れちゃって。料理してる暇がなくて……」
「…じゃ、何食ってたんだ? コンビニ弁当?」
「それ、高いからバイト先の賄いと……特売になってたカップ麺とか」
理由なんて聞くまでもない。
『パフェを食べたのは初めてだった』
『プリンやゼリーを我慢していた』
深呼吸を何度かして、背中を叩いて笑った。
「チーズケーキ、忘れてないからな! お前に料理任せるの不安そうだから俺が作ってやる」
「華さん、料理作れるの!?」
「目玉焼きなら得意だぞ。少なくとも味噌汁に砂糖は入れない」
ジェロームはぷぅっと膨れた。
聞こえたらしく課長が吹き出して、ジェロームは下を向いてしまった。多分赤くなっているのだろう。
ジェロームのそんなところはだいぶ見慣れたが、課長のジェロームに向けるような笑顔は初めて見る。『微笑む』なんて高等な笑い方が出来るんだ、と妙な感心していた。笑うなら笑う。それが課長だ。
みんなからの引っ越し祝いをもらった時にジェロームがどんな反応をするか。それは買った時からの話題だった。全員が『絶対に泣く!』という結論。
「じゃ、泣くのにどれくらい時間がかかるかコーヒー賭けようか」
言い出したのは三途川。
「私は2分だな。あれこれ眺めて触りまくって、じわじわと」
「私はもっと後だと思う。みんなが他の話題になった時にプレゼント見て泣いちゃうって感じ」
「いや、耐えるだろう。唇噛んで涙を零すのを耐える。そして声を出さずに涙がほろっと流れる」
「チーフはロマンチストだったのね! 私より詩的な感じ」
「お前と一緒にされて堪るか。三途の男らしさには俺も負けるよ」
「俺は1分持たないと思う」
華は言い切った。
「それ、早すぎじゃないの?」
「三途さん、甘く見てる。あいつはソッコー泣く。自信あるから」
そして華の言っていた通り、ジェロームはソッコー泣いた。
(今度はマリエの料理持って来よう!)
今からジェロームの喜ぶ顔が見えるようだ。
(ん? 彼女、ホントに来ないのか?)
それが気になった。
その夜は真理恵が来た。ジェロームのところでかなり食べていた華は真理恵が持ってきてくれた料理を全部冷蔵庫に仕舞った。
「ごめんな、言えば良かった」
「気にしなくていいよ。明日日曜だしって思ってたから」
「それもごめん。明日ジェロームのとこに朝から行ってくる」
「じゃ、朝ごはんで食べて。味噌汁だけ作っとくね」
一緒にいた時間は誰よりも長いのに、自分の気持ちに気がついた今、愛しても愛しても足りない気がする。じっとしている時はつい真理恵に目が行く。
「穴空いたら華くんのせいだからね!」
「どっか穴空くの? なんで?」
「あんまり見てるから私の顔に穴が空くって話」
「顔の真ん中に2つ穴、空いてるだろ」
「言うと思ったぁ! 残念でした、空いてるのは3つ。華くん、口忘れたでしょ」
「残念でした。口が開いたらこうやって」
味噌汁を作っている真理恵の傍に立つ。顎を押し上げて唇を重ねた。ゆっくりと味わって離れる。
「な、俺が塞いじゃうだろ?」
「もう一回、いい?」
柔らかい体を抱き締めてもう一度キスをする。
「華くんのキスって優しいね……すごく好き」
「じゃもう一回」
「だめ。みそ汁沸騰しちゃうから」
味噌汁に負けた と、ぶつぶつ言いながらソファにジャンプする華を見てくすくす笑う。
「今日は泊まる?」
「ううん、アッキがね、明日帰って来るの。だから家で待ってようと思って。母さんたち出かけちゃうから食事作ってあげないと」
「そうか、朗にも会いたいな!」
「言っとく。出張で来ただけだから夜には帰っちゃうんだよ」
朗は電機メーカーの外商を担当している。直接の企業とのやり取りが主だから出張が多いのだ。
「ソファのこと、悩んでるんだ」
「どうして?」
「新しいの買ったろ? あれさ、ジェロームにやってもいいかな」
真理恵と一緒に選んだものだ。だから言い出しにくかった。
「いいよ」
あっさりした返事が返ってくる。
「このソファやろうかと思ったんだけどこれは……」
「華くんにとって特別なソファだよね。分かってる」
「せっかく新品を買ったけど」
「いいと思うよ。華くんの心が大事だと思うの。新しいとか古いとか、そんなこと大事じゃないよ。ジェロームくんだって華くんの思いがこもったものだって知ったら、きっと使うのが心苦しくなるよ」
真理恵の答えに納得出来た。その通りだと思う。
「お前のそういうとこ、好きだよ。お前を愛してるって気づけて本当に良かった! 取り返しのつかない間違いを起こすとこだった」
12月になれば一緒に暮らせる。真理恵を独占できるのだと思うとそれだけで幸せな気持ちになれた。
次の日、華は6時に起きた。
家具や電気製品。リサイクルショップや処分に回す手配をしていたのを全部やめた。裏も天板もきれいに拭く。特にオーディオ機器は新品かと思えるくらいに磨いた。元々がきれいに使っていたから多少の傷は仕方ないにしてもジェロームが買い替えるまでは良さそうな気がする。
8時半に家を出た。早くジェロームに見せてやりたい。昨日のあの嬉しそうな顔が浮かぶ。マンションの下に着いて電話をかけた。驚かそうと思っていた。
「……華さん?」
「そ、俺。今さ、下に来てるんだよ。お前生活にすぐ必要なもんあるだろ? もし良かったら今から俺のマンション、見に来ないか?」
「あ、あの! 少し待っててもらえますか!?」
(しまった、きっと彼女が来てるんだ! 先に電話すれば良かった!)
タイミングが悪かったかと慌てたが、ジェロームはすぐに下に降りてきた。
「すみません、待たせちゃって」
「そんなに待ってないけど。彼女、来ないの?」
「当分忙しいんです」
「そうか……仕方ないよな! 何か手が必要だったら言えよ。何でも手伝うからさ」
マンションに着くまであれこれとまたお喋りをする。けれどいつもと同じ、当たり障りのない話。どこまで踏み込んでいいか分からない。やはり自分の昔を思い出す。人にほじくり返されたくないことだってあるのだと。
家具やオーディオを見せると目が輝いた。
「まだ使えるのに俺がもらっても……」
「いいんだよ。リサイクルショップとかさ、そういうのに売るつもりだったから。それならお前に使ってもらった方がいい。要らないものはこっちで処分するから欲しいものを選べよ」
あれこれと目がさまよう。真剣に見比べているのが可笑しい。
(選ばなくても欲しけりゃ言えばいいのに)
「……全部……もらってもいい?」
「いいよ」
「ホントに!? すごく嬉しいです! ありがとう!」
「良かった」
そこで忘れ物に気づく。
「ごめん、これもだ」
オーディオを見せた。
「これ、新品じゃないですか!」
「違うよ、俺が高校の時に買ったんだからホントはレトロ。でもどこも悪くないんだ。使い方、教えるけどどうする?」
「もらいます! 大事にします!」
「俺も助かった。引っ越しが楽になったよ」
配送日は新居にある新しいソファも一緒に土曜になった。
その後2度ほど遊びに行った。オーディオの使い方を教えたり喋ったり。ジェロームの前なら哲平と一緒の時のようにリラックスが出来た。
(俺の方が息抜きしてる)
そんなことを思った。
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