第十二話 そして出会い

 


「お前が後輩持つようになるなんてなぁ。感慨深いよ、長男としては」

「誰が長男だって?」

「俺さま。お前が次男坊」

「勘弁。とても『おにいさま』には見えない」

「照れるな! ホントに可愛いよなぁ、お前って」

 手を伸ばした哲平が慌てて手を引いた。これまでに2度ほどこんなちょっかいで華から痛い目に遭っている。

 華が入社して一年が経った。こんなに早く馴染んだのも、目の前でバカげたことを言っている哲平のお陰だと思っている。

 そして今日、新入社員が挨拶をする。初めての後輩だ。


「今日からここに配属になったジェローム・シェパードだ。ある程度の前知識は入ってるな? 池沢のチームに入る。頼むぞ。ジェローム、自己紹介だ」

「ジェローム・シェパードです」

(え、終わり? 俺より短い……)

「彼の日本語に不安を持つ者がいるなら安心してくれ。日本生まれの日本育ちだ。以上」


 全く溶け込もうとしないその姿は異様だった。華とは違うタイプの美しいジェローム。茶色の巻き毛と茶色の瞳。ひどく落ち着いていて年齢を間違えそうだ。頭がいいのは一目見て分かった。言葉に無駄がない、動作にも無駄がない。

 けれどさらに無いものがある。感情だ。美しいはずの瞳にはなんの光も見えなかった。冷たい目。冷たい声。周りを切り捨てるような態度。


「あれ、ひどいな」

「何が?」

「上手くやってく自信無いよ。無理だ、俺」

 驚いた。哲平が音を上げるなんて。

「だめ? 哲平さんが?」

「だってあいつ聞く耳持ってない」

「俺も似たようなもんでしょ」

「まるで違う」

「私もなんだか怖い」

「千枝も? 三途さんは?」

「ノーコメント。まだよく知らないし」


 他を寄せ付ける気が無いのがありありと分かる。

 言葉は荒くはない。むしろ丁寧だ。逆らわないしすぐに動く。身を守るということをしない、間違えればみんなの手を止めてでも間違いの修正に手を尽くす。

(働くってことなら申し分ないんだろうな)

 不思議でしょうがない、どうしてこんな人間になったんだろう。けれど自分が考えてもしょうがないと思う。


 それはジェロームの歓迎会で起きた。

『仲良くなるって仕事に必要な事ですか?』

『失うことが分かってる仲間意識とか友情とか』

 人を突き刺すというより、自分を突き刺しているように聞こえた。

「俺、最初っからこいつ気に食わなかったんだ  ママんとこに帰りな!」

 突然のジェロームへの哲平の糾弾。哲平を突き飛ばしたことにも驚いた。そうは見えなかった、激情家には。そしてさらに見えたものは痛いほどの苦痛と悲しみだった。

「ここでも虐めですか」

「構わないですよ」

「慣れてますから」

 淡々とした言葉に息が詰まる。見えない溢れる涙を感じた。そして課長がジェロームのことを話した。

『彼に家族はいない。みんな亡くなったんだ』

 聞いた途端にゾッとした。『空っぽのホテル』を思い出す。

 あの時。父も母も消えてもう誰もいないのだと思ったあの怯え。倒れた時に真理恵が来なかったら、自分はどうなっていてもおかしくなかったのだ。

 だが真理恵がいた。朗が来てくれた。師範と出会い、マスターと出会い。そして父も母も帰ってきた。

 なのにジェロームには帰ってきてくれる人も出迎えてくれる人もいない。

(それは……俺には耐えられない……)

 

 気がつくと言葉が出ていた。

「なんでジェロームだけ認めてやらないんだよ。時間かかるヤツだっているじゃん」


 『お前とは違うんだよ』そう言われたけれど、違わないと思った。自分にはその沼から這い出るためのロープを投げてくれる人がいたのだ。違うのは、そこ。

 それから気になり始めた。ゴールデンウィークを前にして高熱を出して休んだジェロームが心配になった。自分から会社の人間にメールを送るなんて初めてだ。素っ気ないかと思いつつも、たった一言『大丈夫?』

 返信を読んで、なんて不器用なヤツなんだろうと悲しくなった。

『ご心配、かけます。ありがとうございます。大丈夫じゃないけれど大丈夫です。メール、嬉しかったです』

(何かしてやれないのかな……)

 そうは思っても、あの頃の自分は誰かに何かをされること自体が鬱陶しかったのを思い出す。だから距離を取ってずっと見ていた。

 殻が取り払われたジェロームは素直だった。連休中に何かがあったのだろう、雰囲気が変わった。まるでこれまでと違うジェロームはそれでも危うい橋を渡っているように見えた。いつ崩れてもおかしくない橋の縁を掴むものも無く渡っているような。

 日々の中で華にはジェロームの顔はいつも悲しそうに見えた。何も知らない、ガラスケースに閉ざされたようなジェローム。親代わりともいえる河野課長にだけ縋るように本当の顔を見せる。

 そんなに直接話をすることもないのに、彼は自分にとって他人じゃなかった。



「どうしたの?」

 考え込むような華に真理恵が聞いた。このところ、華はこんな顔をする時がある。

「俺さ……幸せだなって思って。ずっと我がまま言ってきて、我がまま通して来て、それが許される中で生きてきた」

「うん」

「気になるヤツがいるんだ。そいつ、ずっと一人なんだ。突っ張ってるってのとも違う。ただ、一人なんだ。最近少し良くなってきたけど、それでも拒むとか落ち込んでるとかそんな生易しいものじゃないって分かる」

「華くん、どうしたいの?」

「そいつともっと仲良くなりたいって、そう思う」

 真理恵がそんな華の顔を覗き込む。

「華くんのいいとこは、思ったことをそのままやるとこだと思うよ。それが時々うんと悪い方に行っちゃう時もあるけど、その人には思った通りやったらいいんじゃないかなぁ。……女の人だったら困るけど」

「男だよ! マリエが心配するような相手じゃない」

「なら、迷うな!」

 華はにっこり笑った。そして突然思い立つ。


「マリエ。結婚しないか? 俺、なんだか待てない気分」

「え? いきなりだね」

「そんなことない。自分がどれくらい忍耐強いか試した。でもマリエのことではもう我慢できない」

 真理恵が東京に戻ってきてから約10ヶ月近く経っている。いつもぽわぽわしている真理恵が真っ赤になった。

「えと、でも、マンション借りて幾らも経ってないし、お母さんやお父さんやアッキや、ゆめさんとか、まさなりさんとか」

「マリエ……外野はどうでもいいんだ。マリエの気持ちを聞きたい。まだ待たなきゃだめかな」

「……ううん。そんなことない。私、華くんのそばにいるとホッとするよ。すごく嬉しくなるし。だって……初恋だから……」

「マリエ! 初めて聞いたよ、それ!」

「聞かれたこと無いし」

「俺は初恋じゃない……」

「いいよ。全部知ってるし」

 そうだ、全部知られている。自分のことで真理恵の知らないことがあるだろうか。

 マリエがソファから下りた。華も下りる。道場のように真理恵が頭を下げた。

「どうぞよろしくお願いいたします。華くんの妻にしてください」

「マリエ……よろしくお願いします。ずっとお前を守っていく。俺の大事な人だから」


 それからは双方の両親に報告し、それぞれの田舎に報告し、慌ただしい日がしばらく続いた。

 分かっていたことだとは言いながら、やはり娘を嫁に出すというのは父親にはショックなのだろう。いやと言うほど華は真理恵の父から頭を下げられた。

「華くん。頼むよ、真理恵を。あの子はあの通り掴みどころがないほどぼんやりしているが華くんを誰よりも思っているんだ。どうか真理恵を頼む」

 終始、『頼む』と言われ、確かに自分は不安定なところばかり見せてきたと思い当たる。

「大丈夫です。俺のことを支えてくれるのはマリエしか考えられないから」


 家を探した。父と母が家は任せてほしいと言うのを断った。二人で新居を探したい、納得の行くまで。

 そして二人は、一目で気に入った家を見つけた。今までより会社から2駅遠くなるが、駅から6分ほどにある住宅街の一軒家。2階は無いが広々とした8畳の和室ばかりの3LDK。安いのは古びて見えて中々借り手が見つからないからだ。実際はそれほど築年数は経っていないのに。

「和室しかないよ。いいの?」

「お前、俺のとこに来た時『和室が無い』って言ってたろ? お前が落ち着く空間にしたい」

「でも華くんは?」

「俺はマリエが落ち着けば落ち着くの」

 赤くなる真理恵が可愛くてつい押し倒しそうになったのを見事に投げられた。

「ごめんね、痛かった?」

「いいけどさ! 抱こうとするたびに投げられんの、イヤだからな!」

「はぁい」


「結婚する」

 そう言った時の課長の顔には思わず笑いそうになった。照れもあるし、説明も面倒くさい。だから成り行きをなんとなく……いや、大きく端折はしょった。

「女性と付き合っていても上手く行かなくって、いろいろ相談してる幼馴染に『あ、こいつでもいっか』なんて思って」

(マリエが聞いたら殺されそう!)


 ジェロームにとっての悪夢が始まる。

 華は相田という横浜から来た上司に、最初からイヤな気配を感じた。

(こいつ、ジェロームにモーションかけてる)

過去に自分に絡んできた碌でもない連中にどこか似ている。

「俺、あいつ何だか気に食わない」

 気づく気配のないジェロームを誘う相田からジェイを遠ざけた。三途川にもそれを告げる。三途川は話が早い。(うるさい年増)と思っていたのが失礼だったとたまに思うほど、頭がキレて行動力がある。協力してくれるのが分かり少しほっとした。


 哲平が横浜支社に出向する壮行会は笑えるほど悲惨だった。それほどにジェロームが泣くとも思っていなかった。

(今日は絶対哲平さんを困らせてやる!)

絡む気満々だったのに、ジェロームに先を越されてしまった。

『行っちゃヤだ、ずっとここにいてよ』

 慰めても宥めても泣き続けるジェロームに、『まだインドに行くわけじゃないんだぞ、3月までは横浜にいるんだから』と何度言ったことか。

『くれぐれもジェロームを頼むぞ。華、お前にあいつを任せるからな』

『分かってるって。心配しないでよ。それより勉強でへこたれないでよ』

 なんだかどっちも面倒を見ているような気になっていた。


(俺のこときれいだとか言うけど、こいつの方がよっぽど……)

 相田の毒牙から守るべく、ランチに連れ出したはいいが、ジェロームの選んだフェアリーは自分なら中を覗くことすら有り得ない店だった。

 そこで見せたジェロームの上目遣いに泡を食った。

(こいつ、ヤバイ!)

 その手の男を煽るような仕草が垣間見える。

(だめだ、あいつを近づけちゃ)

ケンカする覚悟でそう思った。


 その相田が厄介なことを始めた。こともあろうに河野課長に仕事中に絡み始めたのだ。オフィスのメンバーが殺気立つ。ジェロームまで立ち上がった。

 ジェロームの『仕事の邪魔ばかりしている』という言葉に相田が過剰に反応したように感じてすぐに割って入った。

「あんた、まだ何もやってないじゃん」

「名前の割には辛辣なんだね」

 目を細めた。元々華は相田相手にやる気満々だ。

「俺にケンカ売る? いいよ、買うから」

 そこで河野課長がストップをかけた。けれど華は常に相田とジェロームの間に自分を置くようになった。


 相田の歓迎会の日、華はジェロームのそばから離れなかった。やたらジェロームに酒を飲ませに来るメンバーたちに手を焼いた。

 ジェロームも氷だった時期が無かったかのようにオフィスに打ち解け始めていて、勧められる酒を拒まない。酒に弱いことを知っているから何度となく止めるが、「俺の酒が飲めないか?」なんて冗談にあっという間に飲み干してしまう。


「おい、飲み過ぎだ」

 赤い頬、潤むような目、突き出すような唇。どこをとっても艶めかしいとしか言えない。テーブルに頭をついてしまったジェロームを揺さぶったが、唸りはするけど返事にはなっていない。

 いつもなら酔っぱらったジェロームを引き受けて帰るのは課長だ。けれど今日はみんなに囲まれていて、ジェロームを頼みにくい。

(俺のところに連れて行こう!)

 ちょうど家の中は引っ越しのために片付いている。話はついて、三途川は課長に、華はチーフに連絡しに行った。


(あれ? ジェロームは?)

 いるはずの席にその姿が無い。三途川と周りを見渡す。一人でどこかに行けるような状態じゃなかったはずだ。

 思わず三途川に叫んだ。

「相田、いる!?」

「いないわ!」

(やられたっ!!)

 フロアを飛び出す、あちこちをチラッと覗きながら(そうか!)とトイレに向かった。


「やめ……やめろ、やめろ、……さわる、な……」


 頭の中がカッと燃えた。あの日の自分が目の前にいた。落ちかけたズボンの中に相田の手が潜り込んでいる。その蠢きが自分のそこに伝わってきて相田の襟を引っ掴み壁に叩きつけた。

「ジェロームっ! しっかりしろ!」

 ズボンだけでも、と身繕いをしてやる。後ろから呻き声が聞こえた。振り返った途端に馬乗りになって拳を叩きこんでいた。振り向くとジェロームは意識を失っている。

「このヤローーーっ!!!!」

 ブチ殺してやる気だった。

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