第十一話 『静水』 -4

「華! 飯食いに行くぞ!」

「うるさいなぁ、哲平さん一人でも食えるでしょ」

「お前がいると楽しいんだよ」

 最近は名前を呼ばれるのがそれほど苦じゃなくなってきた。どこからでも誰からでも『華!』と声が掛かる。そこには揶揄するような響きは欠片も無く、なぜそんな名前がついたのかと聞く者もいない。


「哲平、華、ちょっと来い」

「ええ、課長! これから飯なんすけど」

「昼休みがずれ込んでも構わない。来い」

 呼ばれてミーティングルームに行った。哲平が小声で言ってくる。

「こういうの珍しいよ。河野課長ってな、仕事と休憩の境界線を大事にする人なんだ」

 入っていくと分厚いファイルが2冊。

「さっき回ってきた案件だ。それ、二人でやってみろ」

「はぁ? 無理っすよ、こんなの!」

「哲平、お前から泣き言を聞くとは思わなかったな」

「やります」

 負けず嫌いの華の脇腹を哲平が小突いた。

「なんですか、やれないことを課長が言う訳ないでしょ? やります」

「プレゼンまでまとめてくれ。進捗は池沢に常に報告すること。事前プレゼンは来月の20日。1ヶ月ちょっとある。二人なら充分だと思っている。以上だ」


 河野課長が出て行ったあと、哲平がボヤいた。

「マジかよー。ド素人とこれやんの?」

「ド素人って、俺のことですか?」

「お前以外にいるか? 仕事ばっかりはお前はぺぇぺぇだよ」

「結果見てから言ってください」

 哲平が肩を叩いて笑ってきた。

「すごいなぁ。華のその自信さ、どっから出てくんのかな。じゃ、頼りにするぞ。しごくからそのつもりでいろ」


 たかが知れているだろうと思った。きっと哲平なんかすぐに追い抜いてやると。そして甘く見ていたのは自分だったと思い知らされた。

 自分も決断は早い方なのに、哲平はたった今まで練り込んでいた案をけろっと捨て去る。いいと思えば自分の案を引っ込めてすぐに取り入れてくれた。

「評価、取り消すよ。お前はぺぇぺぇなんかじゃないな! すげぇよ、これなら期限までに出来上がる。そうだな……3日くらい余りそうだ」

「でもたった今最初から見直しって哲平さん、言ったじゃないですか」

「いいか? そうやって辿り着く結果を俺たちは今絞ってるんだ。的が無かったところに的をいくつか立てた。その隙間に正解がある。最初っから正解を出すのは難しいかもしれないが、すでに避けていい所が分かってるんだ。もう先は見えてきたよ」

 そして哲平の言った通り、残り3日を残して事前プレゼンを受けた。


「華、お前が先にやってみろ」

「プレゼンを、ですか?」

「その仕事を任せたはずだが」

「はい」

 最初から最後まで表情の変わらない腕組みをした課長の前でのプレゼンはやりにくかった。

「以上です」

「言葉が止まらなかったのは良かった。だがお前は客商売だということを分かって無いな。後方の開発部隊と違ってお前たちは直接顧客と向き合う。つまりこの部署の顔なんだ。叩きつけるな。次、哲平」

「はい」

 なんというか……惹きこまれた。中身は自分とそれほど変わらないのに聞く気にさせる。興味を持たせる。相手に提案をし、逆質問をしてみる。お互いに参加している空気の中で知らない間柄ではないような錯覚を起こさせる。


「以上。ご清聴感謝します!」

 河野課長は自分の時と同じように腕を組んで聞いていた。

「ご苦労。じゃ、聞く」

「はいっ」

「哲平、お前はプレゼンする相手の年齢層を確認しているか?」

「あっと、それは」

「ある一定の年齢には今のプレゼンは効果的で、ウケる。いいと思う、このまま出してもな。だが研究が足りない。相手を知ること。最も大事なところだよな。これは池沢も承知のプレゼンか?」

「報告はしています」

 河野課長が立ち上がってドアを開けた。

「池沢、来い!」

「はい!」

「哲平、もう一度やれ」

 池沢と並んで再度最初から聞いた。

「どう思う、池沢」

「すみません、俺のミスです。後を引き継ぎます。明日もう一度チャンス下さい」

「分かった」

 課長は戻り、3人だけが残った。


「何が悪いかもう分かってるか?」

「分かりました」

「待ってください! 良かったですよ! あそこまで言うこと無いです!」

「黙っとけ、華」

「おかしいです。哲平さんのプレゼン、聞きやすいし惹かれます。次を聞きたくなりました」

 池沢は華に丁寧に説明してくれた。

「華、プレゼンってそういう物じゃないんだ。いいか、相手は一人じゃない。今日聞いたのは課長以外にお前だけだったな? だからいい結果に聞こえただけだ。中には他社の製品をすでに頭に置いている顧客もいる。そういう相手は重箱の隅を突いてくる。好意的に聞いてくれる客なんてほんの一欠片だ。安い買い物じゃない。無駄金を払いたくないから最初から警戒して聞いている。それでも覆して他社よりいいとアピールし、仕事をぶん捕る。それが最前線の俺たちの仕事だ。ここで取りっぱぐれると受注ゼロになるんだ」

 池沢の後を引き取るように哲平が話す。

「聞けよ。課長はプレゼンを100%納得するまで叩くんだ。課長が良しと言うから、俺たちは安心して客の前で堂々と自社のものについて語れる。だからここの受注率は高いんだよ。河野課長が最初の顧客だというつもりで俺たちは取り組んでる。課長に認められると武者震いするんだ」

「課長だって間違うことはあるでしょ。そういう狂信的な気持ちで仕事しても」

「お前にも分かるよ、きっと。あの人は横暴でも独裁者でもない。誰よりも仕事に真っ直ぐな人だ。課長が間違えば俺たちは躊躇わず糾弾する。そんな空気を作ってくれたのが河野課長なんだ。ついでに言うとな、俺が最初っから最後までまともにプレゼンしたのはこれが初めてだ。緊張した!」


(ここはみんな大人なんだ、本当の意味で……スタイルは変えたくない。けどガキになるのはやめよう。半端じゃやっていけない、ここじゃ)

 辛辣っぷりは変わらない。気に入らなければ黙る。けれど先を見て素早い行動を起こし、何より仕事に迷いが無く処理速度が速い。それがR&Dでの華の在り方を確立した。



「華くん!」

 鍵を取り落とした。家に入るところに後ろから思わぬ声を掛けられた。

「マリエっ!!」

 抱き上げて振り回した。

「怖い、怖いよ、華くん!」

「いつ? なんで連絡くんなかったのさ!」

「驚かそうと思ったの。元気そう!」

「マリエもね」

「良かったぁ、髪伸びてる」

「お前が切るなって言ったから。入れよ」

「うん」


 ソファに座らせてココアを淹れた。

「ココア?」

「お前がいつ来てもいいようにと思ってさ。大丈夫だよ、それこの前買い替えたヤツだから」

「華くん……」

「俺が寝込んだ時さ、お前飲むかどうか分かんない俺の白湯、ずっと取り換えてくれたよな……今頃だけどありがとう」

「美味しい!」

「こら、ゆっくり飲めよ、猫舌なんだから」

「うん」

 久しぶりの真理恵の髪は背中の真ん中を越えていた。それをゆったりとした三つ編みにしている。眩しいほどの笑顔が溢れ、変わってないと思い、ちょっと不安になる。

「俺、変わった?」

「そうだなぁ、きれいになった!」

「なんだよ、それ。そんなこと言われたって男は嬉しくないよ」

「そう? 私はきれいになったって言われたら嬉しいな」

「きれいだよ、マリエは。だから変わってない」

「それ、褒めてくれてんのかなぁ」

「そうだよ」

「確認しないと分かんないんだもん、華くんの言ってることって」

「俺は嘘つかないだろ?」

「でも冗談言うし」

 このぽわんとした会話がいい。まるで空白の時間なんて無かったようだ。いや、きっと無かったのだろう。


「どうすんの? 大学は向こうで卒業したんだろ?」

「働いてたの、お祖母ちゃんがちゃんと社会を知りなさいって言うから」

「なにやってたの?」

「あのね、おむすび屋さんで働いてたんだよ。おむすびと、煮物とか炒め物とか煮魚とか。そういうお店」

「作る方? 洗う方?」

「なんでも。お料理ね、得意になったよ。頑張ったんだ、華くんに美味しいの食べてもらいたいから」

「作ってくれんの!?」

「もちろんだよー。今日も材料買ってきた」

「わっ! 寄り道しないで良かった!」

 早速台所に立つ真理恵の後ろでそわそわと覗き込む華に真理恵が笑う。

「座っててよ、落ち着かない」

「無理だよ、マリエがここにいるって興奮しちゃって」

「普段猫みたいなのに、今日の華くん、ワンコみたい」


 ソファに寝転がった。家具が結構増えたと思う。

 あれからもう一度引っ越した。恐怖の感覚は薄れ、2階の2LDKだ。広いところを選んだのはちょっとマイナーな駅のそばで家賃が安かったからだ。

 びっしりと専門書が並んだ書棚。テレビとテレビ台。クローゼットの中にロッカーを置き、衣類はそこに全部片付いている。

 書棚とカーペットと遮光カーテンが落ち着いたブラウン系。レースのカーテンやテーブル、食器棚はライトブラウン。ほとんどがその2色で統一されている。

「華くん、白と黒はやめたんだね」

「この方が俺はしっくりくるんだ」

「私もこれがいいな。私ね、この近くに家を探そうと思って」

「そうなの!?」

「あのね、もう仕事の面接受かってるんだよ。駅の向こう側の雑貨の会社の事務員さん」

「え! いつこっちに戻ってたのさ!」

「うんとね、3月の始めっ頃。全部決めてから華くんに会いにこようって思ってたんだけど、住むとこは相談しながら決めたいって思って」

「マジ?」

「うん、マジ。空いてる時間に物件、一緒に見てくれるかな」

「……ここに」

「言うと思ったぁ! だめだよぉ。デートから始めよ。ね。私デートしたこと無いんだから」

 疑問が湧く。

「だってあの時……パワーストーン買った時に彼氏と別れたんだって言ってたじゃん!」

「あれ、嘘だもん。華くんの彼女さんにちょっと焼きもち妬いちゃったの」

 立ち上がった華を感じてお玉を置いた。

「今近づいたら投げるからね。お料理ちゃんと作らせて」

「はい」

 またソファに座る。

「じゃ、『おつき合い』をするとこからなんだ」

「そ。よろしく、華くん」

 照れくさくて返事が出来ない。

「華くん?」

「あ、よろしく」

「イヤそう」

「そんなこと無いよ!」

 嬉しくて仕方がない。


「美味いっ!」

「良かったぁ。合格だね。華くん、食べ物の好みうるさいから頑張ったの」

「サンキュー。マリエの味付け、俺は好きだよ」

「ありがとう」

 華はきちんと座った。真理恵が箸を置く。

「まだちゃんと言ってない。お帰り、マリエ」

「ただいま、華くん」

「おつき合いしてください。結婚を前提として。俺は浮気は絶対にしない。マリエを悲しませない。こんなに長いこと一緒にいたのに俺はマリエのことが分かってなかった。だから今日をスタートにしたい。俺の恋人になって、マリエ」

「はい。私、ずっとずっと華くんが好きだったよ。そして今も好き。そう考えると私ってしつこいよね」

 笑っている真理恵が愛おしい。

「良かった、マリエがしつこくて。やった、今日から俺とマリエは恋人だ! やったーっ!!!!」


 マリエは大通りを2つ挟んだマンションに住むことになった。土曜は待ち合せて家具や雑貨を一緒に買った。お互いに泊ることはせずに、ちゃんと予定を聞き合ってデートを楽しむ。久々に一緒に道場にも行った。

「今の君にはどう見える?」


[静水]


「はい。いろいろあったけど、やっと気持ちが落ち着いてきました。『静か』というのは、いろんな心の争いを乗り越えてやっと掴むものだと思います。だからただの水じゃなくて、それは勝ち得た澄んだ水だと思っています」

 遠野師範はにっこりと笑った。

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