第十一話 『静水』 -3
剣呑とした空気になるだろう、そう思っていた。
「宗田、まず野瀬に謝れ」
「好き嫌いで謝るってできません」
「会社に入ったからには社会人だ。お前の言い分が通用すると思っているのなら勉強し直してくるんだな」
「俺は買い得ですよ。気持ち良く働きたいです」
「他の者の神経を逆なでしながらか?」
「……そうですね。そこは謝罪します。野瀬さん。申し訳ありませんでした」
華が真面目に謝罪しているのは伝わったらしい。
野瀬が呆れた顔で言う。
「正直なんだか捻くれてんだか…… 課長、池に預けてください。俺はこういう面倒なの育てる自信無いです」
「仕事辞めろって言わないんですか?」
「おい、お前を雇うまでにすでにコストがかかってるんだ。そう簡単に捨てて堪るか!」
何度か瞬きをする。
「いい人なんですね、野瀬さん」
「俺を何だと思ってるんだ? 言っておく。ここにはパワハラとかそういう下衆なものは無いんだ。仕事優先。例え俺のチームじゃなくたってお前をこき使う」
河野課長が華を真っ直ぐに見た。
「お前の自信を裏打ちするだけの仕事をしろ。口だけのヤツは俺は要らない。池沢、頼む」
「了解です」
呆気なく事が済んだことに驚いた。クビになってもおかしくないはずだ。けれど最初から自分のスタンスを崩すのはイヤだった。
「みんな、今日から俺のチームで預かることにした。頼むな」
「華、お前面白いヤツだなぁ、のっけから野瀬さんにケンカ売るなんて。あの人、凄腕だぜ」
「あなたは誰ですか?」
「あ、俺は宇野哲平。よろしくな、華」
「宇野さん、華って呼ぶのやめてくれませんか」
「なんで? 呼びやすくって俺は気に入ったけど」
「宗田って呼んでください。下の名前で呼ばれたくないです」
その時の哲平の間髪入れぬ返事が爆笑を誘った。
「お前に『そうじゃない』って言う時に『そうだ』って言うのはややこしくて困るんだけどな」
華は心の中でうろたえた。
(この人、絶対に俺は苦手だ!)
「哲平、あんたいいこと言うわ。私も華って呼ぶ。私は三途川ありさ。よろしくね」
(げ! 年増!)
「華、席次表だ。手書きだがお前のを付け加えた。後でちゃんとしたのを渡す。俺のところに来る予定じゃ無かったからな」
見ると哲平と三途川の真ん中。
「さんずのかわ……?」
つかつかと目の前に来た三途川からゲンコツが降った。
「いてぇっ!!」
「み、と、が、わ! 言い直し」
「みとがわさん。覚えましたよ、暴力は嫌いです」
三途川に鼻で笑われた。
「今日は帰り、ぱぁっと行こうぜ」
哲平が明るく言う。
「じゃ、どこに行くか考えとけ」
池沢が答えた。
「俺はっ」
「あ、もう今日の分の我がまま終わりね。それ以上聞く気無いから。チーフ、昨日の資料、データは送ってあります」
「分かった。次をやってくれ、千枝」
(これが俺の上司たちってわけ?)
池沢の雰囲気は遠野に似ていると思った。哲平はまるで未知の生物。三途川という人は…… 千枝って人ははっきりしている人。
初日だというのに、擦り切れるほど使われた。
「新人! コピー用紙が下に届いてる。取って来い」
「コーヒー零した! 新人、モップ!」
「わ、資料ばらまいちゃった。新人くん、悪いけど日付と番号見てファイリングしといて!」
とうとう資料を鷲掴みして叫んだ。
「俺は『新人』って名前じゃないっ!」
「そ、こいつは華。そう呼んでやって」
「それも嫌です!」
途端に哲平にぶん殴られた。
「いい加減にしろよっ! お前の我がままにいつまでも付き合ってらんないんだよ。どうせいい思い出が無いとかそういうんだろ? 名前見りゃ分かるよ、そんなもん。けどな、親が付けたんじゃないか、大事にしてやれよ!」
「あんたに何が分かるんだよっ!」
「分かるかそんなもん、俺は『華』じゃないんだからな!」
そのまま取っ組み合いになるのを誰も止めずに自分の仕事に戻っていった。途中で野次が飛ぶ、どっちが勝つか賭けるか? なんて話が始まる。
そこに入って来た知らないチーフ。いきなり襟首を掴まれた。途端に哲平が清々しい笑顔を浮かべる、腫れている顔で。
「何やってるんだ、お前たちは!」
「おはようございます、田中チーフ! 朝の体操っす!」
「そっちのは!」
「宗田、華と言います、今日から、お世話に、なります」
息が切れている。田中は襟首を掴んだまま河野課長を睨みつけた。
「ここはいつからどっかの組事務所になったんですか。あなたがいながら」
「宗田、彼は性能解析チームの田中チーフだ。見ての通りの堅物だ。きちんとしろよ」
「……はい」
(すんげぇ変わった会社………)
歓迎会でも哲平はそばにいた。
(こいつ、鬱陶しい)
逃げて回るがそれでも笑って肩を組まれる。
「俺、あんた嫌いなんですけど」
「みたいだな」
「分かってんなら」
「だからさ、分かり合おうぜ。お前って放っておけない感じがする」
「言ってること分かんない。放っておいていいです」
「お前、可愛くないとこが可愛いなぁ。楽しいよ、お前といるとさ」
「楽しい? あんたおかしいんじゃないの?」
「面白いだろ? 俺って。仲良くやろーぜ、三途さんいるからさ、おっかないんだよ、あのチーム。俺たちでタッグ組もう」
バカバカしくて、その声を後ろに出ようとした時に声をかけられた。
「華! 新人の出番だ」
何の出番かと聞くと前に出て何かやれという。
(見世物かよ)
俺にそういうのを求めるなと思う。
澤田が先に始めた。関西系だという澤田は即興で漫才を始めた。それが面白い。笑いを取ってさっさと引っ込んだ。
(こいつ、頭いいな)
何も考えていない。会場を見回した。
「哲平さん、出てきてください」
「俺か!?」
呼ばれて喜んで出てきた哲平ににやっと笑った。
「俺の手を掴んでください、どっちの手でもいいから」
「手? こうか?」
次の瞬間哲平の背中は床に。華はお辞儀をして哲平を置き去りにした。みんなには大ウケで、特に三途川はすっかり華を気に入った。
「あんた、今日はあんたの歓迎会だっていうのに飲まなかったわね。お酒、だめなの?」
「いいえ、そこそこ飲めますけど」
「じゃどうして?」
「まだ自分を晒すのは早いかなと思いまして」
「ふぅん。ね、家に送ってくんない? 取って食いやしないから」
(厄介だなぁ、こういう年増)
運転は好きだから上手い方だ。仕方ないから運転手だ。
「メンテ、自分でやってる?」
「メンテ? 車のですか?」
「うんうん。あんたそういうのに凝りそうだから」
「凝りますけど。まだ買ってそうは経たないんで」
「甘いなぁ。普段からやっとかないとしっぺ返し食らうわよ。今度教えてあげようか」
「いいですよ。必要なら覚えるし。それに修理工場とか」
「あんた、金持ちの坊ちゃん? そう見えるわね。私、これでもレーサーなの。修理工場をぱっと言うあたり甘ちゃんだわね」
(レーサー? おばちゃんが? 冗談だろ)
そこに有難くないお誘いが入る。
「ちょっとだけ寄っていきなさい。お茶くらい出すから」
「いえ、これで帰ります」
冗談じゃないと思う。世の中セクハラ、パワハラは男性からだけとは限らない。
「いいから、おいで」
(スッゲー強引!)
恫喝でもされているような気分になるほど据わった声になっている。しょうがないと、車から降りた。
「10分だけ。それなら寄ります」
「好きにしていいわよ」
さっさと歩き出すその後を追った。
門構えが立派な屋敷だ。中に入って引き戸を開ける時に三途川がゴンっ! と下の方を蹴った。それが何やら可笑しくて吹き出しそうになる。
「帰ったわよ」
「おかえんなさい、お嬢!」
「お嬢、お疲れさまです!」
「荷物、持ちます!」
「ありがと。あ、優作。後ろの彼、客人」
「分かりました。どうぞこちらへ」
(なに、これ……)
唖然とした。若いのがぞろぞろと出てくる。通された大きな和室にはまるで映画の世界のような苦み走った60代近い男性が座っていた。それが立ち上がってきて頭を下げた。
「ありさの会社の方ですね。お世話になります。ありさの父の
奥から着物姿の女性が出てきた。
「まぁ、今日は若い男の子! いらっしゃい、ありさの母です」
「初めまして、宗田華と言います。三途さんにいはいつも」
「いつも厄介かけてんだろ、ありさは。あんなヤツだがこれからもよろしく頼むよ。さ、座んな。送ってくれたってことは車かい? 酒はだめかい? 泊まる部屋ならあるよ」
(冗談っ! 本物のヤクザじゃんっ!)
焦った華はついいつもの調子で口走っていた。
「ヤクザに世話になる気、ないので」
「なんだとっ!? 表に出やがれ!」
(わぁ、引く。ホントにヤクザだ)
突っかかってきたのは玄関で自分を案内してくれた優作とか言う男だ。座っている華にありさの父の制止も聞かず掴みかかってきた。咄嗟にその手を引いていた。
「あ! すみません!」
華が叫んだのと、男が畳に背中をつけたのと、三途川やその父が笑ったのと。どれが先か分からない。
「おい、優作。初めてお前が負けるとこ見たよ」
「親父っさん! 俺は負けやしねぇ!」
「やめとき! 相手はありさの客人だよっ!」
(すっげ! このおばさん、迫力ある!)
ありさの母は極道のおっかさんというイメージにピッタリだ。
「気に入った! ヤクザにヤクザって言うのもたいしたもんだが、今のは見てて気持ち良かった。今日は泊まっていけ。おい! 酒!」
「いえ、あの失礼なことをして……また改めて伺います、今日は約束があるのでこれで」
「ウソはいけねぇな。おれぁ嘘つきは嫌ぇだ」
「嘘じゃないです! 俺も嘘は嫌いです。今日は古い友人に会います」
これは本当だ。数少ない友人の一人に借りた本を返すことになっている。
「ふーん……これは失礼なことを言っちまった。あんたはウソが嫌いな人のようだ、確かに。いい目をしている。だから俺たちに真っ向からヤクザと言いなすったんだし。おい、土産の用意だ!」
あれこれ渡されて閉口する。けれどこれは断れない。明らかに善意からのものだ。初めはヤクザだと構えたが、これで三途川の得体のしれない正体が見えたような気もする。
改めて優作に頭を下げた。
「悪かったです、いきなり」
「ああ、悪いよ。こっちは赤っ恥だ」
「すみません」
「優作、男がごちゃごちゃ言ってんじゃないわよ。華、これがウチ。またおいで」
「そうだ、今度は大将と一緒に来るといい」
「大将?」
「河野さんだよ。俺ぁあの人にこの一家を継いでくれって言ってんだが、さっぱりなびいてくれねぇんだ。大将によろしく伝えてくれ」
呆れるというか、もう驚くのを通り越していた。
(ヤクザに見込まれるって、あの人ってなに?)
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