第十話 歩き出す
弁護士が帰った後。
華は呆けたようにベッドに座っていた。気づかずに手首のパワーストーンを一粒ずつ指先で転がすように撫でている。あれから入浴以外でこのブレスレットを離したことが無い。どんなに真理恵に腹を立てたとしてもそれは別だ。
コロコロしているうちに自分の指に気がついた。
(そうだった……マリエに何も買ってない)
PCを開けて検索を始めた。
(なんだったっけ……水晶……グリーンアメ)
パワーストーンのサイトを見つけた。聞き覚えのあるものを探していく。
(水晶、悪いものから遠ざける……あ、これか。グリーンアメジスト、心を)
そこから目が霞み始める。
『心を癒す やすらぎをもたらす』
(セラ……フィな、い、と)
『トラブルから身を守る 深く癒されたい思いのお守り』
(スギ……)
スギライト。
『深く癒されたい人への最強ヒーリング 誰をも包み込む愛情を育てる』
(ばかだ、マリエ……俺も)
最後の一つが思い出せない。黄色のストーン。
「もしもし」
『華……くん……』
「教えて。黄色のパワーストーンの名前」
『え…… アラゴナイトのこと?』
「ありがとう」
すぐに携帯を切って探した。
『緊張を和らげる 人も自分も愛せるようになりたいという願望を満たす』
(人も……自分も……)
もう一度電話をかけた。
「会いたい」
「この前は……ごめん」
「いいの、私も無神経なこと言っちゃった……ごめんなさい」
「マリエ、俺、強くなりたい。体も……気持ちも」
「この前も聞いたけど……華くんはどうしたいの?」
「裁判?」
「だけじゃなくて」
「……裁判……やめる。違うとこに住んで、違う学校で勉強して、違う俺になる」
「『違う俺』?」
「いろんなことを考え直したい。将来のことも。俺、したいこと出来たよ」
「聞いても……いい?」
「うん。プログラミング。あれ、嘘をつかない。法律をやりたいって思ってた。けどあれは嘘ばっかりだ。医者も考えてた。けど人の体を預かれるほど俺は人間が出来てない」
「まだ高二だよ……」
「そういう問題じゃないんだ。もう何かに惑わされたりするの、イヤなんだ、振り回されんのも。答えがはっきりするもんをやりたい」
(大人に……なっちゃうんだね……)
「だから最初にマリエに謝りたかった。いろいろ考えてくれたのに俺、バカだったから」
「……ばかなんかじゃないよ、華くんは。でもまさなりさんやゆめさん、引っ越しに賛成するかな」
「違う、俺一人で生活するんだ」
「どうして!?」
「相手……あの犯人、今の家を知ってるんだ……告訴取り下げたらきっとまた家の周りをうろつく。それは耐えられない」
家を知っている。玄関を出た途端に待ち構えているかもしれない犯人。
「どこに住むの?」
「今度入る学校の近く」
「どの辺り?」
「電車で30分近くのとこ。今夜ネットでマンション探してみる」
「本気なんだね」
「うん。決めたんだ」
「そっか……」
しばらく沈黙が続く。コーヒーが、ココアが冷えていく。
「マリエ」
「華くん」
ほとんど同時だった。顔を見合わせてくすりと笑う。
「華くんから先に言って」
「合気道、習いに来るよ」
「え?」
「道場に行く。勉強真剣にやるから土曜とかしか出来ないかもしんない。でも行くよ」
一瞬泣きそうになって真理恵はにっこり笑った。
「なに言おうとしたの?」
「合気道、やろうよって。良かった、華くん、さっき笑った」
初めは納得しない両親と話し合うことに時間がかかった。父は告訴を取り下げることに強く反対した。母は賛成した。
『もう華の辛い顔、見たくないわ』
その言葉に父は言葉を呑んだ。
一人で住むことに反対する二人に、相手がこの家を知っているのだと言った。激しいショックを受ける二人。淡々と話す華。
『俺、我慢するの無理なんだ。分かって』
たくさんの話し合いの後、父が言った、華の目を見ながら。
『華の望む通りに。けれど私たちはもう外国には行かない。絵を描くこともピアノを弾くことも私たちにはやめられそうにないよ。けれど、華の帰ってこられる場所を守っていく』
マンションは一緒に探してくれた。慣れない不動産屋巡り。
『高いから駅近を探すのやめるよ』
その言葉にだけは父も母も食い下がった。
『何があるか分からない。賑やかなところに住んでおくれ』
今度は華が折れた。
1LDK。駅のそばなら買い物も困らない。部屋が少ないと不安がる両親に充分なのだと説く。
持ち込むのはオーディオ。机や椅子はやめて、二人がいいというから広々としたあのソファ一つを運んだ。慣れ親しんだソファ。これがベッドだ。壁にべったりつけた。
「華、勉強はどうするの? これじゃ何も無いわ」
「机を組み立てようと思って。オンラインで安くて使いやすそうなのを見つけたんだ。それにする」
「買っていいのよ」
「引っ越し費用だって出してもらった。これはバイトして返す。俺の我がままだから。奨学金受けるから足りない分はお願いします。生活費はバイトだけじゃやっていけないと思う。勉強に割く時間をあまり削りたくないし。だからそこも甘える。いいかな」
「もちろんだとも! 口座にまとめて入れておくから」
「それ、やめて欲しい。お金があるのが当たり前になるのが怖いんだ。毎月決まった金額だけを振り込んで。それでやって行くから」
「でもいざという時にまとまったものが無いと!」
華は寂し気に笑った。
「そしたら……もう会う理由がなくなっちゃうよ、父さん、母さん」
華が計算した金額を毎月振り込むことになった。パソコンと音楽があればもう何も要らない。ただ本を買えればいい。
バイト代は引っ越し代を返すための貯金と本代、交通費、合気道の月謝で消えるだろうと思う。
訴えを取り下げることに弁護士は何も言わなかった。分かっていたような顔だった。相手は野に解き放たれる。それを考えると今でも体がビクンと反応する。
けれど負けたくない。
「やあ、良かった! どうやって月謝を返そうかと思ってたよ」
「ごめんなさい、俺いい加減なことしちゃって…… 改めてお世話になりたいです。教えてもらえますか? 月謝も持ってきました」
「ここは来る者拒まずだ。好きなように通えばいい。月謝だが、前に持ってきてくれた分がある。だからそれは持って帰りなさい」
「でも」
「翌月分をもらうんだと説明したろう? 君の翌月は今月だ」
明快な答えに、華に笑顔が浮かんだ。
「はい。ありがとうございます」
「ところで、どうしてくる気になったのかな?」
「強くなりたいです。何がって言うんじゃなくて」
遠野師範は真っ直ぐに華の目を見た。
「今見て、あの字はどう見える?」
[静水]
「静かな……心」
「そうか。今の君の望むものなんだろうね」
「違うってことですか?」
「いや、そういうことじゃない。何かあるたびに見なさい。その時その時に浮かぶものが答えだ」
「また禅問答みたいだ」
「なるほど! 面白いことを言う!」
驚くほど大声で笑う。
「あの時、確か茅平の稽古がきれいだと言ってたね。そう思うのはなぜだったんだろう?」
「多分……マリエは真っ直ぐなんだ……変な、じゃない、雑念が無い。躊躇わないし止まらない」
「いいね、今の答え。躊躇わず留まらない。それも[静水]の一つの答えだよ。君はいい生徒になりそうだ。着替えてきなさい」
久しぶりに道着を来た。自然と身が引き締まる。道場に出ると中央に師範が立っていた。
「ここに来なさい。まず座る。相手に礼をする。これは単なる儀礼的なものじゃない。相手を敬うんだ。それが本当の『礼を尽くす』ということだ。そして今のこの一瞬を全身で味わえることを喜ぶ」
師範の動作を真似る。
「どこからでもかかっておいで。いいんだ、形はどうでも」
勝手が分からないと思ったが、形はどうでもいいと言われた。勢いをつけて飛び掛かっていく。そして自分の背中が床についていた。
「どうかな。投げられたのは初めてか?」
「はい……」
「どんな気持ちかな?」
「……変な気持ちです。負けたとかじゃなくて」
「そうだな。合気道に勝ち負けはないから」
「勝ち負けが無い武道って、武道なんですか?」
遠野は面白そうな顔をした。
「考えてごらん。答えはいつでもいいよ」
「またですか?」
「そのうち分かるよ。考えるということがどういうことなのか。『武道』については何を調べてもいい。けれどそれを答えにしてはいけない。そこから自分の答えを出すように。君との会話は楽しい」
遅れて真理恵がやってきた。
「もう来てたの!?」
「茅平、今日は君が相手をしなさい」
「はい! 待ってて、支度してくるから」
「あの、女の子相手にやるのはちょっと……」
「ははは! いったいどこを触るつもりで言ってる?」
「そ……そんなつもりじゃ!」
「済まん、悪いことを言った。ただな、君が気遣うほど茅平に触わることが出来るかな」
出てきた真理恵の前に立つ。一緒に座って礼をした。立ち上がった時にはそこにいるのは真理恵じゃなかった。
近づくのに躊躇う。その躊躇いをものともせず真理恵が近づいてくる。
(やめろ、マリエ! 俺、お前とやり合うのは……)
咄嗟に手が出た。大した勢いではないのに、その手首をすぅっと引っ張り込まれる。その流れで体が前方に傾いだ。次の瞬間、見えていたのは天井だった。
幾度となく真理恵を掴もうとする。そのたびにどう手を出しても手首を引かれ、天井を見る。
「ありがとうございました」
座ったマリエの方が先に礼をし、慌てて自分も頭を下げた。
「思ったより上手に転べたね!」
「……変なとこ褒めるなよ」
「大事なことなんだよ。ケガしちゃいけないの」
「前もそう言ったよな」
「基本だからね」
「俺はケガしないようになりたいわけじゃないんだ、強くなりたいんだ」
「じゃ、上手に転ばないと。それが出来るようになったら強くなってるから」
「お前も禅問答か……」
きょとんとした真理恵をそのままに時計を見る。
「わ! 俺、帰る!」
急いで着替えた。早くしないとバイトに遅れる。時給がいいから駅に近いファミレスで裏方をやっている。調理の手伝い……掃除も入れて要するに雑用だ。ホールで働いたらどうかと言われたが裏の仕事にしてもらった。
「今度食べに行きたい!」
「いいけど、俺は表に出ないから。じゃな!」
走って行く華の背中を見ても、もう不安は生まれなかった。
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