第九話 わからない -4
次の日に弁護士が訪ねてきた。
「公判がもうすぐ始まります。いろいろ打ち合わせをしなくてはなりません。これから先、華くんが裁判で聞かれることについて説明しましょう」
リストを出して華に渡す。
「今日は淡々と話しましょう。ここにあるのは事実です。こういった裁判では付きものの質問をリストにしてきました。今日は消化できないと思います。このリストについては日を改めて一緒に考えましょう」
「待って……ホントに……こんなこと聞かれるの?」
「はい。それ以上の突っ込んだ質問が出る場合もあります」
「なんでその時の俺の気持ちって言うのをこんなに細かく言わなくちゃならないんですか!」
「ですから、これは後日……」
「教えて下さい、調べられるのは相手だけじゃないんですか!?」
「……はっきり言った方がいいですよね。今回の家宅捜査で見つかったのは華くんの靴だけでは無かったんです」
「なに、を? なにを見つけたの?」
弁護士は固唾を飲んで聞いている両親の顔を見た。
「お二人は聞かない方が……」
「聞きます。大事な息子のことです。言ってください、何が見つかったんですか」
弁護士は大きく息を吸った。
「華くんの精液です。そこを突かれます。感じたか、感じなかったか。この場合、答えは明らかです。証拠があるのですから。なら合意という線が濃厚になると取られても仕方ありません」
『精液』生々しいその言葉に超愛も夢も怯んだ。
「感じてなんかいないっ! そんなことない!」
「華くん。君が辛い思いをした……というより、されたことは私にもご両親にも明白な事実です。だからこそ戦うのだから。でも私たちは証明しなくちゃいけないんです。一方的に被害に遭ったということを。そこに1ミリでも疑問を残させちゃいけない。心情の問題だからその境界線を引くのは容易なことじゃありません」
夢の心はかき乱されたままだった。美しい息子の、性の話。
「どうしたら……私には分かります。愛撫されたら男である以上吐き出します。世間一般的にそれくらい分かりそうなものです!」
超愛の声は怒りで震えていた。
「宗田さん。確かにその通りです。男なら物理的に刺激を与えられればもうコントロールなど出来なくなる。まして若いのだから。でも裁判ではそんなことは通用しないんです」
感じるだとか感じないだとか。遠いところで自分がされたことをみんなが決めるのだと思った。自分の中の真実が誰にも通用しない……
「それって……あの男のいるところで感じたかどうか聞かれるんですか」
「その点は被害者の心情を考えて希望が認められます。衝立はもちろん、日を変えて別々の審議、モニタを使って映像による別室での審議。未成年ですから傍聴人がいたとしても個人情報は一切漏れることはありません」
『傍聴人』
その言葉が華にいきなり現実を突きつけてきた。
「誰かの見世物になるってこと? こんなことを聞きたくて来るヤツがいるってこと?」
「いろいろあるんですよ。例えば弁護士の卵が将来の勉強のために聞きにきたり、加害者の身内が来たり。こう言ってはなんですが、この手の裁判を見ることに非常に関心がある人とか」
下を向いた華がぽつんと呟いた。
「やっぱり見世物じゃん……被害者なのに、もう一度被害者になるの? そんなことを繰り返していくの?」
「練習をします、裁判でのやり取りの。答え方を覚えるんです」
両親を見る。
「こんなこと……やる意味、あるのかな……」
「華。屈するのは良くないと思う。悪いことをした者が悪いと断罪されるべきなんだ。私たちが、華が逃げる必要なんてどこにも無い」
弁護士は華の揺らぐ気持ちを感じた。
「裁判で宣誓して証言をするのは君です。考えて。今日は簡単なことをいくつか聞くだけです。裁判での実際のやり取りについては日を変えます。いいですね?」
頷くしかない。父は正当なことを言っているのだと思っている。自分だって本当はそうだ。正当だし、相手が大手を振って表に出るのは怖かった。人生が根こそぎ崩れていくような気がした。
真理恵から会いたいと電話をもらって公園で待ち合せたが、もう1月も終わる。寒さに負けて喫茶店で会うことになった。
久しぶりだ、こうやって真理恵と話すのは。クリスマスも年明けも入院している間に過ぎてしまい、日にちの感覚さえも曖昧になってくる。
「華くん。私も考えた方がいいと思う」
「マリエなら……どうする?」
「分かんないよ、私には。でも知っている子の妹さんが同じような目に遭ったって聞いたよ。その時もひどかったって」
「どういう風に?」
「聞きたいの?」
「聞きたい、どうしても」
「……分かった。私も聞いた方がいいと思う。裁判で相手の弁護士にしつこく聞かれたって。気持ちいいと思わなかったか。最初に触られたのはどこか。それをどう拒んだか。具体的に相手に拒む意思表示をしたか」
目を見開いた。弁護士と父の話が浮かぶ。射精したという事実。気持ち良くなければ射精は有り得ないのだということ。
「最初っから……不利だってこと? その子、どうしたの?」
「裁判をやめて田舎に引っ越したよ。お姉さんだけこっちに残ったの、大学があるから」
もうすぐそれが自分の身に降りかかる。現実が、自分を追い詰める。
「華くんは? 華くんはどうしたいの?」
「分かんない……どうしたいって……分かんないよ、……そんなの……」
テーブルに肘を突いて両手に頭を抱える。真理恵が初めて見る姿だ。
「あのね、気分転換してみたらどうかな? 良くないよ、学校やめてからずっと家にいるんでしょ? それじゃいい考えなんか浮かばないよ」
「俺になにしろって言ってんだよ」
「また合気道に行かない? 体動かしたらきっといろんなこと、見えてくるよ」
「そんな気にならない」
「華くん」
真理恵の声が変わったから華は顔を上げた。
「はっきり言うね。今の華くん、甘ったれてると思う。家の中に逃げ込んじゃって、何かが変わってくれることに期待してる。変えようとするんじゃなくて。誰かが答えてくれるのを待ってるだけなんて、華くんじゃないよ」
「じゃ、『宗田華』ってどういうヤツなんだよ! イカレた名前を持ってて、どこにも受け入れらんなくて、正しいことを否定されて」
頬が鳴った。
「バカだ、華くんは。華くんだけが酷い目に遭ってるわけじゃないよ。もっと大変な思いしてる人、たくさんいる。こんなことに負けるな!」
「気楽なこと、言うなよっ!!」
飛び出して行った華の後を追いかけなかった。
「ばか……」
冷えたココアが、湯気の立つココアに変わった。
「大丈夫? 大変そうだけど支えてあげられそう? この前彼、来てたよ。なんだか辛そうだった」
「マスター、難しくて、私には。頭もそれほどいいわけじゃないし。支えるなんて偉そうなこと、できそうにないです」
「君がへこたれるのかい? それで納得できるのかな、君自身は」
入って来た客に「いらっしゃい」と声をかけ、マスターは真理恵から離れた。
『それで納得できるのかな、君自身は』
(そんなわけ、無いよ。……見てるだけなんて、そんなこと出来ない)
私立高校の編入試験は呆気なく受かって、すぐにでも登校できるのだがとてもそんな気持ちになれなかった。さすがに私立だけあって宗田超愛と宗田夢という名前がものを言った。教員の間に熱心なファンもいたお蔭で問題なく編入は認められたのだ。
家の中だけをふらふらする毎日。本もたいして読み進まない。
(法律家はイヤだ。正義があるなんて嘘だ)
なら医者になるのか?
(自分のことで手一杯なのに人の体とか命とか預かるなんて……俺には荷が重すぎるよ……)
喫茶店を飛び出した後、気を落ち着けようと本屋に入った。なんとなく手あたり次第掴んできた雑誌。放ったらかしたままだった袋を開けた。
(こんなの買ったのか)
ぱらぱらと捲る。いつの間にか1ページずつ繰っていた。時間を忘れた、初めて見るものが書いてある。
(C言語……プログラミング……)
未知の世界に少しずつ魅入られていく、雑誌が増えていき、専門書を買い始めた。
父に期待されるのは初めてだ。だから応えたいと思った。あの父が、正当な判断を得るために戦えと言う。自分もそれは正しいことだと思っている。けれど思うことは容易く、行うのは容易ではない。
幾度となく繰り返される弁護士との質疑のリハーサル。
『あなたは電車の中で触ってきた男と、自分を誘拐した男が同じ人間だとどうして分かったのですか?』
『最初に何かを感じてからあなたはいつもと同じ電車に乗っていましたね。なぜ変えなかったのですか?』
『真正面から見たことが無かったと言いましたね。ならあなたがさっき答えたことは嘘だったということになる』
『スタンガン、そのものが見つかっていません。本当にあなたはスタンガンのせいで逃げられなかったのですか? 逃げない選択を取ったんじゃないんですか?』
『あなたは……』
「もういいです! やめる、こんなこと! 意味無いよ、どうやったって俺が悪いことになるんだ」
「こういう事件で告発するのは大変なことなんだよ。けれど、一度告訴を取り下げたら二度と訴えることは出来ない。公判までにはまだ時間がある。よく考えてみよう」
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