第九話 わからない -3
教室に鞄を取りに行く。入り口から席に行って、ただ載せただけだった鞄を取り教室を出て行く。たったこれだけの間に次々と浴びせられた明け透けな侮辱の言葉。
「やっぱさ、『華』なんて名前まともじゃないよな。それ考えた親の頭が華畑だったんじゃないの?」
それが引き金だった。華の行動は速かった。鞄を落とすと同時に振り返って飛び掛かかる。あっという間の乱闘。一人が後ろから華を羽交い絞めし、後の二人が殴りつけてくる。あまりのことに女子が職員室に走った。
「先生、来てください! ケンカです!」
「誰だ?」
「宗田くんと」
「最後に面倒起こしてやめるつもりか! まったくあいつは!」
今川というその子が担任の前に周りこんだ。
「先生! 今日のケンカ、宗田くんは悪くないです! やりすぎです、あんなの。あんまり宗田くんのいい噂聞かないけど、だからって宗田くんが全部悪いわけじゃないです!」
担任は華を庇う言葉を初めて聞いた。
「だが結局こうやってケンカになる。それはあいつが引き起こしていることなんだ。宗田の外見に騙されると碌なことにならんぞ」
今川にはそれ以上どう言っていいか分からなかった。頭に残っていたのはたった一つの出来事だった。
雨の中に躓いて倒れた時に鞄から数学の教科書が水溜りに落ちた。
『何やってんだ、お前』
引き起こされて教科書を拾ってくれたのが、華だった。
『ちょっと持ってて』
傘を渡された。スカートからは泥水が滴っていて、ただみっともないという気持ちでいっぱいだった自分。
鞄を開けるからハンカチでも貸してくれるのだと思った。出てきたのは数学の教科書。自分の手から泥に浸かった教科書が抜き取られた。華に教科書を突き付けられ、その怒ったような顔にそれを受け取った。
華はその汚れた教科書を自分の鞄に放りこんだ。
『その教科書じゃ困るでしょう?』
返そうと思った、もうその教科書が使えないことは一目瞭然だ。
『別に困んないけど。もう要らないんだ、それ』
『どうして? まだ学期が始まったばかりだよ?』
『全部頭に入ってる』
そのまま華は立ち去った。後で教科書を見て驚いた。びっしり書き込まれた解き方と考え方。最後までそれは続いていた。
「宗田くん、悪い人じゃないです……」
廊下を早足で歩く担任の背中に向かって呟いたけれど耳に届くはずが無かった。
「何をやってるんだ!」
目に飛び込んできた光景は、羽交い絞めされた華が後ろに体重を預け両足を振り上げて相手の顔面を蹴り込むところ。机がけたたましい音を立てて乱れる。
担任が入って来たことで掴まれていた腕が解放される。担任は真っ直ぐ華に近づいた。響く平手の音……
「自覚しろっ! 手続きが終わるまではお前はここの生徒なんだぞ!」
溜息を突く。血が流れる口元を拭うこともなく華は担任の目を見た。ふっと笑う。
「バッカばかしい。俺がバカに見えるだろうけど、あんたたちも変わんないよ。年食ってる分、余計バカに見える」
出口の鞄を拾って怒りがこみ上げ始めた担任をもう一度見て笑った。
「ホント、バカに見える」
それがこの高校での華の最後の言葉だった。
校門を出たところで後ろから走ってくる足音を聞いた。
「宗田くん!」
振り返ると女子が息を切らして立っている。
「これ! 返す。ありがとう、すごく勉強になった」
「なんだっけ?」
「……忘れた? 雨の時に落とした教科書を自分のと交換してくれた…」
「ああ…あれか。やるよ。使いたくなきゃ捨てれば?」
歩き出すのを後ろから掴まれた。
「これ、使って」
ハンカチを渡された。
「ありがとう! この教科書もらうね。大事に使う」
何か言おうと思った。今の自分を追いかけて来るなんてバカだと。見られたら何言われるか分かんないぞと。目の前の女子の名前さえ浮かばないのに。
「……じゃ、このハンカチはもらう。返せそうにないから」
「やっぱりやめちゃうの?」
「もう来ないよ」
「……元気でね、頑張って!」
「悪い、頑張る気無いんだ。じゃな」
今川はその後姿を見送った。その背中はひどく寂し気に見えた。
(なんて言おう)
父と母にだ。それにこの顔の言い訳。
(めんどくさいな……帰りづらいし)
駅の近くまで行ってラーメンでも食べようかと思った。気が抜けて空腹を感じた。足が向ったけれど方向を変えた。この顔でラーメン屋に入るのもどうかと思う。
前に真理恵と入った喫茶店の前に立つ。足が止まる。
(やっぱり……この顔じゃね)
その時入り口が開いた。
「いらっしゃ」
40くらいに見える男性。手にはガラス磨きがある。華の顔をまじまじと見た男性は笑い出した。
「見事にやられたって感じだね。入りなよ、隅っこの席が空いてるからあそこなら気にならないと思うよ」
言われるままに入った。確かにその席は目立たない場所にある。
「さて、ホットは無理だろう。冷たいのにしとく?」
「ホットでいいです」
「その傷新しいだろう。痛むよ」
「痛むのは俺の口です」
「たいした憎まれ口だね! いいよ、奢ってやる」
歩いていく足は少し引き摺っているように見える。
そう間を置かずにホットコーヒーがテーブルに置かれた。
「はい、ホット。ゆっくりしてっていいよ」
「足」
「足?」
「今は痛くないんですか?」
「これ? もう痛くは無いんだ。事故のこと、知ってるんだね」
「聞きたいです。競技が出来ないって分かった時……なにを考えたんですか?」
「辛辣な質問だね」
「……すみません。今の質問、取り消します」
立ち上がろうとする華の前の席にマスターは座った。
「人生が終わったって思ったよ。何もかも消えたってね」
「じゃ、なんで笑ってるんですか?」
「なにも消えちゃいなかったって、今はそう思ってるからあの頃の自分を思い出して笑ったんだ」
それだけ言ってマスターは立った。
「飲んでって。せっかく淹れたコーヒーなんだ。結構仕事にはプライド持ってるからさ」
口はひどく痛んだけれど、コーヒーは美味しかった。
「父さん、母さん。座ってくれる?」
息子の顔を見て二人ともひどくうろたえた。
「病院…!」
「必要無いよ、これくらいで。前はもっとケンカしてた」
それを知らない自分たち……
「相談もせずに悪かったんだけど。俺、学校やめた。書類を持ってきたからサインして」
「華!」
「何も言わずサインして。もうあの学校に行く気は無いから」
父が何度か口を開いて閉じて、そして聞いてきた。
「なぜか聞きたい。私たちはそれを聞かなくちゃいけないと思う」
「理由、聞きたいの?」
華の驚いたような顔にまた打ちのめされた。自分たちは本当に華に許されたんだろうか……
「聞きたい。聞きたいの、華。反対とかそういうのとは違うわ。あなたの気持ちを知りたい」
華は考え込みながら何度か髪をかき上げた。本当のことを言いたくないと思った。
「俺の素行が悪いから先生が困ってるの見てやめるって言ってきた」
「それなら私たちが学校に行って」
「やめて。もう話は済んでるんだ。書類を出せば全部終わる。言われてた通り私立に行くよ」
華は書類を広げた。
「すぐに送りたいんだ。サインをお願い」
二人は折れてサインをした。けれど、『華の望む通りに』という言葉は出なかった。
「華……言いたいこと、無いのか? 聞くよ、なんでも」
「父さん…聞かないで欲しい、何も言いたくない。今日は夕食要らないから。……サイン、ありがとう」
本当にこれで良かったのだろうか。自分たちの無力さを思い知らされる、どうやって支えて行けばいいのか分からない……
『それで電話してきたのね』
「時恵さん……本当にどうしていいのか分からないの。親になるってこんなに難しいことなの?」
『そうね。厳しいことを言うけど』
「いいわ、思っていることを…聞きたいわ」
『親になる、そう言ったわね。途中経過を全部飛ばして、今出来上がっている華ちゃんをいきなり子どもとして扱おうとしてる。もうね、華ちゃんはあなたたちの手を離れる時期なの。10代って大変な時期だわ、ずっとそばにいても。親と子、その関係になるって今からじゃ大変なことよ』
夢の目からはらはらと涙が零れていく。
『新しい関係を築いたら?』
「新しい……?」
『考えてみたら? 相談する人、他にいないの? 私の意見だけ聞いて決めないで。いろんな話を聞いて考えてみて』
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