第九話 わからない -2

「忘れ物、無いかしら?」

「大丈夫。どうしたの? 今までだって自分の面倒くらい見て来たよ」

「……ごめんなさい。でも聞きたいの………」

「…無いよ。ちゃんと定期と財布、携帯持ったから」

「ハンカチは?」

「あ、上着あるし」

「どういう意味?」

「手は拭けるってこと」

「華!」

「冗談。持ってるよ」

 夢は嬉しくて堪らない。こんなやり取りはピアノはくれなかった。心は通い合うけれどそこに生まれるものは静かで徐々に高鳴る崇高なもの。

 だが我が子とのやり取りからは笑いも怒りも悲しみも生まれ、その全てが喜びになるのだと知った。

「夢さん。どうしたの? 華が出かけるといっぺんに静かになるねぇ」

「趙愛さん、絵を…描かなくて平気?」

「うん……不思議なことにね、今まではスケッチせずにいられなかったのに今は心の中に全部残るんだ。華の涙、華の怒り、華の悲しみ。そして笑顔。どうしてスケッチしなきゃならないと思ったんだろう、こんなに鮮やかに心に浮かぶのに」

 二人は同じ思いを共有しているのだ、夫婦ではなく両親として。これ以上の幸せは無いと気づけた。その間に失った時間も華の思いも多いけれど。

「私たち、やっと成長できたのね」

「遅かったけどね。華に一番可哀そうなことをしてしまったよ。小さい時からうんと苦労をさせた。寂しい思いも。私は寂しいってことがどういうことか分かっていなかった…… 愚かだったよ。華が私を見放してから初めて分かったんだから」

「私もよ。私、愛してるわ、華のことを。それはあなたを愛していることとは別のものなの」

「華に……酷いことを言ったんだ。『ここに俺がいるよ、だから戻ってきて』と言われた時……『そこには夢さんがいないから』そう言ってしまった」

 夢が息を呑んだ。どんな思いをしたのだろう、親に頼って当たり前の年齢だったのに。拒んだも同然だった、自分たちのしたことは。

「私があの時、心が揺らいだから……」

「違うよ。わたしが言ってはいけないことを……違う、父親なら言わないはずのことを言ってしまったんだ…… あの子には憎む権利だってあるんだ。なのに…今は受け入れてくれた。感謝しているんだ、華に」

 互いに相手しか見えていなかった日々。そこに華が入っていなかったことを心から悔やむ。けれど過ぎた時間は戻らない。今度こそ華を幸せにする。

 自分たちならそれが出来るはずだ、そう決意し、明るい未来を信じた。



 久しぶりの学校。それほど学校に思い入れがあるわけじゃない。けれど今は普通の生活に戻りたかった。なんの不安も持たずに電車に乗れたことが嬉しかった。

(留年になるのかぁ)

出席日数は完全にたりなくなっただろう。

(でもいいかもしんない。あの連中がいない学年なら勉強だけに集中できるし)

そんなことを考えていた。

 教室に一歩入って様子が違うことが分かった。入った途端にビリっとした緊張感が走る。誰も口を開かない、ただ自分を見つめている。

 元々それほど自分から話す方じゃない。たいした友だちがいるわけでも無いし。さっさと自分の席に行き、鞄をドスンと机の上に置いた。

(なんだ、こいつら。面倒くさいな、ちょっと休んでたくらいで)

「久しぶりだねぇ、華くん」

「華ちゃん の間違いだろ?」

「そうだった! すごいよな、本当に。そんな経験、俺たち一生出来ないね」

「したかないよ、キモいよ!」

 いつもの連中。華には何を言っているのかさっぱり分からなかった。

「宗田、ちょっと職員室に来てくれ」

 教室まで担任が呼びに来た。

「はい」

「お!『不順異性交遊』についての説教か?」

「でもなぁ、異性じゃないだろ?」

「いや、『異性』だろー、何せ『華ちゃん』だからな」

「なんだよ! 言いたいことがあるなら!」

「宗田! いいから来い!」

 不快な笑いを背中に受けながら職員室へと向かった。


 担任の席に行くのかと思っていたら真っ直ぐ校長室に向かうから驚いた。中には当然校長。そして、教頭と知らない『おばさん』。

「座りなさい」

 こういう『上から指示』は気に入らないが初っ端から揉め事もどうかと思い、大人しく座った。

「体はどうだ?」

「大丈夫です」

「だいぶ寝込んだと聞いていたが」

「もう大丈夫です」

「なんなら休学しても」

「大丈夫です!(しつこいよ、校長!)」

『おばさん』が話し出してその声で思い出した。PTAの会長だ。

「いろいろ騒ぎを起こしている生徒さんだとは聞いていたんですが、ちょっと今回は見過ごせなくて話を聞きたいと思いました」

「見過ごせないって、何のことですか?」

「あなた、その……男性と交渉があったいうのは本当ですか?」

「は?」

(なんてった? おばさん)

「宗田、ちゃんと答えろ。柿本という男と付き合っていたのか?」

「柿本?」

「とぼけるな、今回の事件のお相手だ」

 教頭の品の無い言い方に華はカッとなった。

「なに、言ってんの? 相手は男だよ? 交渉ってなんだよ! 俺になに聞きたいってんだよっ!」

「宗田、落ち着きなさい」

「落ち着けるかよ! あんたならそんなこと他人の面前で聞かれてにこにこ答えんのか!?」

「宗田、校長になんて口の利き方を」

「俺になんの配慮も無い口を叩くヤツに敬意なんか払えるか!」

 しん となる。

「順序を間違ったようだな。説明をしよう。君にも言い分がありそうだから」

 大人として話そうとしているらしい校長にむかっ腹が立った。

「言い分がありそうだ? 言葉がおかしくない?」

「じゃ、言い換えよう。私も説明する。その後、君も本当のことを言ってほしい。警察がここにいろいろ聞きに来たんだよ」

「学校に?」

「そうだ。まず、柿本のことをいろいろ聞かれた」

 ちょっとほっとした、それなら聞きに来るのは当たり前のことだろう。

「そして君がどういう生徒かと聞かれた。正直言って教師の間で君の評価は低い。成績は申し分ないがね。それから君の友人の評価も低かった」

「友人? 誰のこと?」

「松木、中尾、杉原、」

「ちょっと待ってよ、そいつらは友人じゃない。ことあるごとに俺に突っかかってくる禄でもない連中だ」

「聞きなさい。要するに君の素行はあまり褒められたもんじゃないということだ。私たちはそれぞれが、知っていることをありのままに答えた。警察はそれを確かめて帰った」

 そんな話は聞いていない。被害者だというのになぜ自分が調べられるのか。

「その後、柿本の弁護士だという女性が来た。いろんな証言が必要だと言って。そこで到底受け入れ難い話を聞いたんだよ」

「つまりね、柿本という男はあなたの同意があったから車に乗せたということ。あなたが自分から柿本のマンションに行ったということ」

「はぁ? なに、バカなこと言ってんの?」

 華はまだ事態の深刻さが分かっていなかった。

(この連中はバカか? どこをどうすればそうなるんだよ)

「あなた、裁判に出るでしょう? そこでいろんな説明をすることになる。その時にこの学校の評判が落ちるようなことに繋がっては困るの。マスコミに知れ渡ったらどうなることか」

「君の好き勝手な生活の余波が学校に来るのは避けたい」

「もし違うと言っても、それが認められるまでかなり時間がかかるだろう。その間に学校はいいようにマスコミのターゲットになる」

「君は頭のいい子だ。どういうことを私たちが懸念しているかくらいわかるだろう?」

「男同士でだなんて……なんてことなの? 恥というものを……」

 誰が何を言っているか分からないほど怒りでくらくらした。そこにいるのは敵だらけだ。なぜ自分がこんな思いをしなければならないのだろう。

(分かんない……なんなの? なんで……)

「軽率な行動がこういうことを招く。普段から君の行動を危ぶんで注意をしてきただろう。せっかく成績がいいのにこれだけのことをしてしまうと……」

「待てよ! 一方的に俺が悪いって言ってんの!? 俺の言い分? 今チラッとでも聞いたか? さんざん言いたいこと言って、ここは学校だよな? あんたら教育者だよな。言ってることのレベルが低すぎて説明する気にもなんない。帰る!」

 戸口に向かう華に叱責が飛んだ。

「待ちなさい! まだ処分の話が済んでない!」

 ゆっくりと校長に向き直る。

「処分?」

「そうだ。学校内の風紀を乱した。警察沙汰どころか裁判沙汰だ。君の潔白を信じたいところだが、君の場合『信頼』や『敬意』という点で我々もゆっくり時間をかけるということが出来かねる。今受験前の3年生にかかる迷惑を考えたかね? 受験先の学校からこの学校はレッテルを貼られるんだよ、マイナスイメージの」

 沙汰。迷惑。マイナスイメージ。華は笑い始めた。大人たちが怪訝な顔をする。

「たいしたもんだ! 俺を切って捨てようってのか。俺、あんたたちを名誉棄損で訴えたっていいんだよ。そっちがその気なら俺にだって考えがある」

「宗田!」

「まさか被害に遭った生徒を締め出すような学校だとは思わなかったよ。確かに俺は模範的な生徒から程遠いと思う。けどこれほどの扱いを受ける謂れも無いよ。あっちの弁護士の話を鵜呑みにするってんなら、俺の弁護士の話は聞いたの? 『片手落ち』って言葉、知ってる? 辞書、貸そうか? 国語の教師でも呼んできたらどうなんだよ」

 呆気に取られていたPTA会長が喚き始めた。

「あなた、生徒の立場でしょう! 態度を改めなさい! そんなだからこんな下品な事件に巻き込まれるんです!」

 華はやっと悟った。この学校にはもう自分の居場所など無いのだということを。

 これ以上話をするのは無駄だと思った。自分が全て悪くないとは言えない。素行、態度。そこに褒められるところが無いのは事実だ。みんながそう言うのだから間違いが無いと思っている。

 じゃ、どう振る舞えば世間的に体裁良くやっていけるのか。それを考えることには抵抗がある。そんなものに左右されたくない。

 ここで華に分からなかったこと。華にもしっかりと受け継がれているのだ、超愛と夢の生き方が。周りに流されないというより周りを見ない。気にならない。華は自由に生きている、両親のように。


「退学手続きってどうやればいいですか」

「私たちはそこまでを要求しているわけじゃないんだ」

「退学手続きってどうやればいいですか」

「しばらく……そうだな、せめて裁判が終わるまで休学したらどうかと思っているんだ。君も辞めずにすむし。まず親御さんを交えて話を」

「退学手続きの仕方を教えてください。親は関係無いです。もう俺はここに来ませんから」

「つくづく自分勝手ね……やっぱり親御さんが世離れていると」

「おばさん。そこ、必要な話なの? 俺がやめれば済むんだろ? 家のことまでガタガタ言われたくない」

「宗田、君が気の毒の身の上だという言うことは承知しているんだ。だから世間を斜めに見るように育ったんだろう。けれどご両親のことを引き摺らずに生きて行かないとこの先……」

 つかつかと近づく。校長のデスクをバン! と叩いた。けれど声は穏やかだった。

「退学手続き、するって言ってんです。俺はこの学校に一歩たりともウチの親を近づけるつもりは無いし、あんたたちもトラブルの元が消えれば万々歳だろ? 俺の要求は退学手続きをさせてくれってことと、ウチの親にちょっかい出すなってこと。それで終わり」


 結局頑強な華は一揃いの書類を手に入れた。後は郵送でやり取りすることにする。

(入る時は面接だなんだと面倒だったけど、やめるのって呆気ないんだな」

 校長室を出る時に振り返った時、大人たちの顔に浮かんだホッとした表情が突き刺さる。

(分かんない……きっと俺は間違えてばっかりんなんだ……だから父さんも母さんも離れた。……だらしないな……こんなことで心が痛むなんて)

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