第九話 わからない -1

 目が覚めた時。父と母がそこにいた。

「華っ! 分かるか!?」

「とう、さん?」

「華、私もいるわ。ほら、分かる?」

 暖かい手が自分の手を包んでいる。

「わかる、ここ、どこ?」

「病院だよ。安心していいんだ、ここは安全だから」

 泣いている母を見て、『ここは安全だ』という言葉が浸透してくる。

「おれ、なにも……」

「いい、何も言わなくて。今は休まないと」

「きいて、おれはなにも」

「いいの! いいの、華は何も悪くないの……ずっといるから。ね、ここにいるから」

 頭がぼんやりする。そのぼんやりしたまま聞いた。

「しってるの? なにが、あったのか」

「華はきれいだよ。何があってもきみの美しさに変わりはないから」

 父の顔を見る。

「おれがうつくしい? なに、いってんの? おれ、よごれたんだよ」



 犯人は捕まった。

 華の鞄は車に乗せられた時に落ちた。それを拾ったのは近所の人だ。すぐに学校に届けられ警察に連絡が行った。

 そして、華が見つかった。精液はしっかり採取され、そして華の体そのものもその時に調べられていた。

 父と母は医師にこう告げられた。

「幸いなことに、彼の肛門に付着していた精液は外からつけられたものでした。肛門の内側には精液は見つかりませんでした」

 夢はそこに倒れた。

 検査で華の手についていた血液は他人のものと分かった。その時、外来で受診した男が外科医師の質問に答えていた。

「学生に襲われて殴られたんです。あいつ、僕の股まで蹴って…… まだ腫れていてすごく痛いんです。どこで診てもらえますか?」

 不審に思った医師が、ちょうど廊下にいた警官にそのことを告げた。尋問を受けた男は怯えて質問に答えた。自分は何もしてないのだと言いながら。家宅捜査もされ、華の靴が見つかった。


 その間、退院した華はただ家の中でベッドで横になっていた。

「華? 起きてる?」

「うん」

「スープをね、持ってきたの。どうかしら、飲めるかしら」

「うん」

 けれど座れなかった。動けない。気力がない。夢はスプーンで華の口元にスープを運んだ。一口飲んだことに喜んで、次の一匙を出した。

「うっ……う!」

「待って!」

 すぐにそばに置いた深めの小さいトレイを華の口元につける。そこに飲んだばかりのスープを吐いた。それ以上は大したものは出ない。ここのところほとんど食事をしていない。

 背中を擦っていた夢の手がそっと華を横たえた。吸い飲みで口に水を含ませ、何度か漱がせる。そのまま華は眠ってしまった。


「ゆめさん、華くんは?」

「だめ。やっと飲んだスープは吐いてしまったの」

 ソファに座り込んだ夢は真理恵の胸で泣き崩れた。

「どうして……こんなことに……」

「ゆめさん……きっと華くんは元に戻るよ。強いもん、華くんは強いもん」

「真理恵ちゃん」

「華くんはずっと1人で頑張ったの。ゆめさん。見ていられないくらい華くんは必死だったよ、辛いのを我慢するのに。私も朗もずっとそれを見て来たから分かるよ。華くんはきっと大丈夫」

 真理恵の言葉に夢は涙が止まらなかった。

「私たち……なんてことをしてしまったのかしら…… なのに華は許してくれた…… やっとこれから幸せにしてあげようと誓ったのに」


 超愛が帰ってきた。警察に呼ばれて行ってきたのだ。

「どうだったの?」

「……その……襲われてケガさせられたのは華が訴えないとだめだって。告発をしてほしいと言っていた。告発さえすればそれでいいそうだよ。証拠は全部揃っているからって。私は華に告発させたいと思う」

「まさなりさん! それ、きっと華くん納得しないです、傷つきます」

「真理恵ちゃん、これは必要なことだよ。人として辱められたんだ。相手は罰を受けるべきだ」

 真理恵は超愛を説得できなかった。自分だって犯人が許せない。でも自分がされたら…… 告発などとても無理だ。華のプライドは高い。それがへし折れたらもう元には戻れないだろう。

 不安でいっぱいなまま、華の家を後にした。


 刑事が来た。ベッドで横になっている華に聞く。

「考えてくれないかな。いろんな証拠はあるけど、これじゃ微罪ですぐ釈放される。相手はさらったんじゃない、君も納得して一緒に車に乗ったんだと言い出している。言いにくいけど君とはずいぶん仲がいいともね。訴えてくれればいいだけだ、そしたらすぐにもあいつは刑務所に放り込める」

「そしたら……しばらく出て来れない?」

「そうだね、しばらくは」

「訴えればいいの?」

「そうだよ。それだけでいい。そうすればもうあいつは自由にはなれない」

 その言葉に飛びついた。目に力が戻ってくる。

(家を知られている、あいつが自由なら一生この家から出れない)

名前も住んでいるところも学校も、自分に関する情報があの男の頭に入っている。

(俺は何もしていないのにもう自由にはなれない、あいつと違って)

 その思いとあの感触、そして無理矢理にイかされたことが華の全ての気力を奪っていた。何度か悪夢を見た。道路に出ると男がドレスを手ににっこり笑う。家に入ろうとするとドアが開かず、そして自分は動けなくなる……

 思っていたよりも動きを奪われたことが堪えていた。されるがままになったこと。

「あいつはもうここには来れなくなる?」

「そうだよ」

 まだ17歳。華には知識もそういう意味で守ってくれる人もいない。

「何をすればいい?」

「ここに君の話を書いていく。最後にサインが欲しい。それで終わりだよ」

「それだけ?」

 この場に弁護士がいたらきっと華を止めていた。いろんな可能性を教えてくれただろう。せめてちゃんとした現実を教えてから選択させてくれたかもしれない。

 けれど、華はもちろん、父も母も争いごとを知らない。法律という、守ってくれそうで突き放す魔物が被害者を追い詰めることもあることを。

 華はぽつぽつと、電車での出来事から話し始めた。明確にその時の相手を特定することが出来ないということに気づかずに。そして刑事は華が相手を確認したうえで話していると思い込んだ。というより、それを聞かなかった。

 警察の出来ることとしたいことは、法律の檻に加害者を放り込むこと。それを悪いことだとは言えないだろう。司法はその檻の中で、被害者を加害者に一番の証拠品として突き付ける。そして、とことん客観的に裁決を下す。

 華は先の見えない迷路に踏み出していた。



 刑事が帰ったあと、久しぶりにリビングのソファに座ってみた。トイレ以外に部屋から出ていない。音楽もかけずにただ横になっていた。自分が解放されるのだと知り、安心したことが華に開放感をもたらしていた。

「華? 大丈夫なの?」

「母さん、お腹が空いた」

「本当!? 待ってて、すぐ何か持ってくるから」

 夢は家の中で初めて駆けた。超愛が見たらさぞ驚いただろう。今は夢が頼んだ食材を買いに行っている。

 静がいないから二人はまるでママごとのように家事を分担してやっていた。どちらかが必ず家に残ること。二人の間で決めたルールだ。もう華を一人にしない。


 温めたスープと昨日作ったシチュー、後で華の部屋に持って行こうと思っていたオートミール、果物、お茶、コーヒー。思いつくものをありったけワゴンに載せた。

 華が小さく笑う。

「そんなには食べられないよ」

「いいの、どれを食べてもいいと思って。残していいのよ、食べられるだけでも食べて」

 スープ、オートミールを口にした。全部は食べられない、けれど夢が泣いて喜ぶほどには食べた。

「お薬、持ってくるわね」

 軽い安定剤をもらっていた。そういうものに頼ったことが無いから安定剤は華に驚くほど効いた。そして、楽になれるから飲み続けている。

 夢が薬を手に戻ってきた時にはソファにもたれたまま華は眠っていた。もう一度部屋に行き、毛布を取ってくる。少し暖房を強くした。

 入院初日はかなりの熱が出た。神経が興奮しきっていたのと、逃げ出した安堵による軽いショック状態、そして寒さ。

 何もかもが悪い方へと働き、初めて華は熱で朦朧とした。夢は付きっ切りで世話を焼いた。今までしたことがなかった、子どもの看病。初めて味わう、無力な息子を守ろうとする激しい母性。

 真っ白なベッドに横たわっていた華を思い出すと、今はまるで嘘のようだ。毛布をかけて華のふわりとする髪を指で梳く。

「良くなるわ。必ず治るから」

 きれいな息子の寝顔に囁く。家族が一緒にいること。それがどんなに大切なことなのか、ようやく分かったような気がした。


 穏やかに夕食が終わった。夕方いくらか食べてそれほど量はいかなかったが、これまでに比べればずっとマシだ。

「おやすみ、母さん、父さん」

 そんな挨拶さえ交わして眠りについた。やっと普通の生活に戻れるような気がした。



 訴えたことで方向が大きく変わった。何度か警察に呼ばれ質問が続く。うんざりするほどの同じような質問。供述が食い違うからと。もうそれは話した! と何回も華は机を叩いた。

『これ以上、なんの説明が要るんだ、サインするだけでいい、そう言ったじゃないか!』

 超愛は今の状況をアメリカの友人に話した、どうすればいいか分からないと。

『分からないって…… マサナリ、ハナに弁護士は用意したのか? まさか一人で警察に行かせてないね?』

「弁護士?」

『オゥ! すぐに弁護士を用意するんだ。腕のいい弁護士を。だめだ、子ども一人で警察に行かせちゃ』

 その時になってやっと超愛は自分の父に連絡を取った。

『なぜ早くに言わん!?』

「父さん、私たちもショックを受けて……」

『バカ者! 親がそんなことでどうする! 分かった、知っている弁護士をすぐにそっちに向かわせる。お前はすぐに警察に行って華を引き取るんだ。未成年なんだぞ、親の監督下での捜査でなければ協力できないと言うんだ。もう二度と一人で行かせるな」

「でも、警察だよ? 華に不利なことをするはずがない!」

『お前は知らな過ぎる。華の本当の味方はお前たちなんだぞ、警察じゃない』


 二人はすぐに警察に向かった。なんだかんだと押し問答が繰り返される。

「なぜ息子を引き取るのに許可が要るんですか! 罪を犯したのは息子じゃないんですよ!」

「返して下さい、もうここへは来させません!」

「あなたたちの署名がここにあるでしょう。今日の聞き取りを任せると」

「それは! 華に何をしてもいいということじゃない! 私たちには一緒にいる権利がある!」

 まさか違法捜査が被害者側に対しても行われるなど、二人は思いもしない。全てが可哀そうな息子のために動いているわけではないという現実を知らなかった。

 すぐに華は解放された。ぐったりと疲れた顔でタクシーの中で父の肩に頭をもたれさせ、寝息を立てた。


「後はお任せください」

 弁護士の言葉にようやく三人でホッとした。てきぱきと指示を出してくれる弁護士に心から感謝する。

「確認です。加害者を暴行未遂で告訴するということでいいんですね? 大事なことです、良く考えてください」

「考えるって……当たり前のことでしょう! あんな酷いことをして何の罰も受けずに街に解き放たれるなんて有り得ない!」

「華くん、納得しているのかな? それが一番大事なんだよ。君の決断が必要なんだ」

「あいつが外を自由にうろつくなんて我慢できません。俺が家を出られない理由が分からない」

「正しいことが常に正しいとは限らないんだよ」

 この弁護士は役に立つのか? そんな不信感が生まれた。華は街中でも電車の中でもあの男を見たくなかった。もういつの間にか自分に忍び寄るなんてことをさせるもんか! 

「分かりました。ではその方向で進めていきます。何でも不安に感じたり疑問に思ったりしたら言ってください。いいですね、隠したり黙り込んだりしないように。いつでも電話をください。私の方からも進展があればすぐにお知らせしますから」

 やっと弁護士らしい言葉を聞いたと、超愛も夢も安心した。華もこれで事態が好転するのだと信じた。


「学校はどうするの?」

「行こうと思う。試験も近いから俺も困るし」

「良かった! すっかりいつもの華に戻ったわね。明日はいつもの時間に朝食を用意するわね」

「ありがとう」

 振り返れば、その夜が一番穏やかだったと思う。翌日からの華は、嵐の中で方向を見失った木の葉のように現実に翻弄されていく。

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