第八話 エスカレート -2

 ドアがバタンと閉じる音が聞こえたのだろう、しばらくしてノックがあった。今日はロックを聴く気になれない。

「華、戻ったの? 食事を持ってきてもいい?」

「今日はなに?」

 ベッドに横になったまま大きな声で聞く。

「ポトフとシーザーサラダ。パンがいいかライスにするか……」

「ライスにして、少なくていい」

 返事が無く、立ち去る気配もない。ベッドから起き上がってドアを開けた。

「なに?」

「ちょっと心配だったの…… 華? 具合悪いの!? 顔色が……」

「大丈夫、なんでもない」

「お医者様へ行きましょう!」

「いいから! ……いいから食事持ってきて。水がたくさん欲しい」

「分かったわ。ね、何かあるならお願いだから言ってね」

 頷いてドアを閉めた。鍵をかけてまたベッドへ。不意にドアを開けられるのは嫌いだ。

 落ち着いてきてオーディオの前に立った。端の方、ロックに押しやられているクラシックの中からボロディンの「イーゴリ公」を出す。子どもの頃から好きな曲。「韃靼人の踊り」をかけた。


 ノック。ワゴンにたっぷりのサラダ。ポトフとライス。水がたっぷり入った透明なピッチャー。

 曲を聞いた母が目を細めた。

「これを聞いてたの? 華はこの曲が好きね」

「……なんとなくね。じゃ」

 母は黙って立ち去ってくれた。ほっとする。今日は怒鳴りたくないし、そんな気分でもない。ポトフは美味しかった。 


 朝。8時に部屋を出てバスルームに向かった。今日は家の中が冷え冷えとしている。長い髪がちょっと邪魔に感じた。

(切ってこようかな……いいや、ハサミどこだっけ)

 華はいつも適当に髪を切っている。どうにも格好がつかなくなった時だけ美容院に行く。

 上半身を脱いだところで鏡を見た。

(貧相だな……また走らないと)

力や運動能力の割に華の体格は細い。

(腹筋と腕立てと柔軟と……ジムにでも通いたい……)

けれどそれは金がかかる。自分の体を鍛えるためにだけ金がかかるのはイヤだ、そんなことは一人でも出来るはずだから。


 リビングに行くと父が何かをやっている。

「なにしてんの?」

「華! どうしたんだ、こんな時間に」

「こんな時間って……朝食の時からいなかっただろ?」

「君が食べずに行ってしまったかと思ったんだ」

 ソファの縁に濡れたタオルを持ったまま座る。真っ白なTシャツにすっきりとしたジーンズ。父が動かずに見ている。

「なに?」

「華は本当に美しく育ったね。なんてきれいなんだ!」

「は? 俺、男だよ」

「関係無いよ、そうやって人というものを区切って考える必要は無いんだ」

「……俺、部屋に帰ったっていいんだけど」

「え、いてくれるのかい? なら黙るよ」

「そうして」

 キツい言い方になるけれど、本音はどう会話を続けたらいいのか分からないだけ。父はさっきの作業に戻り始めた。

 板が何枚かあり、大きな段ボールが端に転がっている。紙を見ながら作業しているところを見ると何かを組み立てているのか。

「何を作ってんの?」

「書棚を! そこのテレビ台を見ておくれ、上手く出来ているだろう?」

「あれ、作ったヤツ?」

「そうだよ。作るというだけなら同じ世界だ。私は『創る』の方だがね」

 濡れて乱れている髪をかき上げる。

「ここにあったヤツは?」

「近くに教会があるだろう? あそこのバザーに出したよ」

 相変わらずよく分からない父だ。

「実際よく分かんない。絵を描いて、ピアノ弾いて、それでどうやってウチって生計が成り立ってるわけ?」

「生計が成り立つ?」

「食っていけてるのかってこと。つまり収入だよ」

「私は個展を開いて絵を売っているよ」

「売るんだ」

「大切にしてもらえる人にね。誰にでもじゃない、知っている人ばかりだ。あとは紹介された人にだけ」

「1枚、どれくらいになるの?」

「絵にもよるけど……最後の個展では4枚売れて400万円ほどだったよ」

「400万!? そんなに!?」

「そうだけど。どうしたの?」

「………ふぅん」

 意外だった。しっかりと収入源になっている。道楽だけで世間を優雅に渡り歩いているのだと思っていた。好奇心が出る。

「母さんは? 何か仕事してる?」

「もちろんだよ! 招待されてオーケストラで弾いたり。ゆめ……お母さんのピアノは引く手数多あまたなんだ。だから私たちは途中で上手く行かなくなった。生き方がね。生活スタイルが違い過ぎた。お母さんは一日演奏してそこで次の演奏会に向かう。私は絵が出来上がるまではその場に留まる。満足いくまで一枚の絵に打ち込む」

 初めてこういうことを聞く。両親の生き方が違う面から見えてくる。

「キャンパスに向かうと時間が消えていくよ。彼女は待てなくなる、私が振り返るのを。私が彼女を見ようとした時には彼女がそこにいない」

 寂しそうな声。いまだに恋愛というノクターンの中で出会いと別れを繰り返し、ときめいている二人。

「……いいんじゃないの、そういうのも。俺には分かんないけど」

 父の目が丸くなる。

「でさ、あのテレビ台作んのに何日かかったの?」

「あれは早かった! 8日間で出来たんだ」

 華のため息が出る。そばに行って木材を1枚取り上げた。

「俺が作ってやるよ。こんなの1日もかかんない」

「なら、私も一緒に!」

「いいよ。手だけケガしないでくれれば」

 最初は喋らずに黙々とやっていたのに、板の付け方が悪くて全体が歪んだことであれこれ言い合い始めた。父のビスの打ち込み方が甘かったのだ。

 とうとう全部をバラす。指示を出すのは華だ。

 母が小さな椅子を持ってきて二人の邪魔にならないように隅に座る。嬉しそうにただその様子を眺めて……時々目を抑える。光が窓から部屋の中に溢れる。華は初々しく、若々しく、しなるような動きがTシャツの上からよく分かる。

 引き締まった口元にちらっと時々見える笑み。

 そこには美しい3人の親子がいた。



(2、3日トレーニングしたからってすぐには無理だよな)

 また鏡を見る。誰から見ても貧弱に見えるだろう。服を着たら着痩せするから余計だ。だから学校でも甘く見られ絡まれる。殴り合いになってやっと相手は後悔するのだが。

 いつもより40分早く出た。早起きは苦にならない。自転車で次の駅まで向かう。駅近くの駐輪場はこの休んでいる間に申し込んでおいた。

 なるべく目立たない普通の自転車。思い入れがあるわけではないから、車体を紙やすりで擦ってある。新車には見えないだろう。

 電車はいつもと全く違う車両。何事も起きずに学校に着いた。

「やっと来たねぇ。もう来ないかって期待しちゃった」

 いつまでも絡んでくるグループ。一人が付き合っていた彼女が華に片思いにして別れたとかどうとか。無視しているのが生意気だ、お高く止まっている、女の子にきゃあきゃあ言われるのを楽しんでいる。

 もう聞きなれた揶揄に何も感じない。いつもの通りグループの前を通り過ぎようとした。

「おい、学園祭くらい協力するよな」

「なにを?」

「聞いたか? 『なにを?』だってさ。スポーツ祭だってお前、途中で消えたろ? あれで俺たちは負けたんだ」

 華が笑うのを見てまた血相が変わる。

「何が可笑しいんだ!」

「意外とクラスを大事にしてるんだなと思ってさ。学園祭、いつだっけ?」

「話し合いとか出ないもんな、知るわけ無いか」

「来週の土、日だよ」

「なにやんの?」

「体育館で芝居だ」

「芝居? え、体育館のステージに上って?」

「そうだよ。来ないなんて言うんじゃないだろうな、自分の務めは果たせよ」

 務め? 自分は何も聞いていない。

「知らないって顔だな。休んでばっかりだしな。来るって約束しろよ」

 約束も何も。担任から言い渡されている。成績はトップを取ったりするのにこのままでは出席日数が足りなくなると。

「来るけど」

「ならいい。吉川に台本貰えよ。お前が主役だ」

 それだけ言うと行ってしまった。

(主役? 俺が?)

その意味はすぐに分かった。

「白雪姫? 俺が?」

「そうよ! 宗田くん、なかなか登校しないから困ってたの。女子の総意で決まったのよ。男子も賛成してくれたし」

「出ないよ」

「だめだよ! 困るよ、私たち」

「知らないよ、勝手に決めたんだろ? 欠席裁判で」

「ひどい……」

 どっちが酷いんだと吉川の顔を見る。

(ずっと休んでりゃ良かったかな)


「宗田、杉下が呼んでる」

「チッ、面倒くさい。じゃな、吉川」

 担任の杉下は相変わらず華を睨むように見る。

「もう2学期が終わる。休むな。いいな」

「学園祭って週末ですよね」

「あれは出席日数に入っている」

「なんで!」

「学校行事だからだ」

「だいたいこの時期に学園祭ってやんないでしょ」

「クリスマスも兼ねているんだ、この学校では。お前は主役だって聞いたぞ。しっかりやれ。そしたら欠席3日間と引き換えにしてやる」

 華はくるっと背中を向けた。ドアに向かって歩き出すその背中に「出ろよ!」と叱責が飛ぶ。

(つまんねー 何が白雪姫だ)

 だが2日間の文化祭と欠席3日と引き換えは魅力だった。留年するわけには行かないし、大学は予定がある。2つの道のどちらかを考えていた。法律家か医者か。自分に合っているのは法律だろうと思っている。


 早退という訳にもいかないから教室に戻った。

「ね、学園祭……」

 近づいてきた吉川が困ったように言った。

「出るよ。けどこんなこと1回きりだ。分かったな」

 吉川の首が振り子のようだ。歓喜に溢れている顔。だるい、この先に続くことが鬱陶しい。

「おい、台本渡せよ。すぐ返すから」

「これ、上げる! 使って」

 普段話が出来ない華との会話が嬉しいらしい。嬉々として台本を渡してくれた。

パラパラ捲る。

「じゃ、借りる」

「練習があるんだけど、放課後」

「勝手にやれよ、これ以上は御免だ」

 結局、本番が始まるまでに華が練習に付き合ったのは1回だった。それもほとんど演技せずにみんなの動きをながめていた。衣装合わせは簡単に終わった。細いからどうとでもなる。終わるまで髪を切らないでくれと頼まれた。そして当日が来た。

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