第八話 エスカレート -1
そのまま電車に乗り続けた。
どこの駅を通過したのかも知らない。あまりの衝撃に何も考えられない。近くの席が空いて、ふらつくようにどすんと腰を下ろした。立っているのがイヤだ。誰かが何かをするかもしれない。
40分近くそうやって座っていた。気がついて参考書を探す。蹴飛ばされたのだろう、電車の隅にページが開いて落ちている。座席から見ても散々踏まれてページが破けているのが分かる。拾いに行く気も生まれなかった。
外の景色を見た。知らない場所、知らない景色、知らない駅名。唐突に立った。閉じかけるドアに体を押し込んで外に出る。無理な下車にアナウンスが流れた。
ホームにベンチを見つけた。吹きさらしでコートなんかなんの役にも立たない。それでも15分近く座っていた。駅名を見て携帯で検索する。直通で行ける電車が無い。だが乗り換えは多いけれど家には帰れそうだ。
次々と電車を乗り継いで最後の乗り換え。途端にあの感触が蘇った。
(ばったり会ったら? 俺はあいつを知らない、でもあいつは俺を知ってるんだ……)
このまま電車で帰るわけには行かないと思った。また出くわすのは怖い。家まで跡をつけられるのが怖い。
最後の乗り換えはやめて駅を出た。財布を見る。タクシーで帰るにはまるで足りない。
(どうしよう……)
電話をかける先を思いつかない。途方に暮れる、誰が助けてくれるだろう……
『華くん? どうしたの?』
「マリエ……俺……」
言葉が続かない。
『今どこ!? 行くから。場所を言って』
下りた駅名を言う。
『分かった。あったかいとこにいて。コーヒーでも飲めるとこ』
前に同じようなことがあったと思う。変わらない、自分の声だけで真理恵には伝わる。周りを見回した。ふらっと近くの喫茶店に入ろうとしてその手前でやめた。中の照明が暗い。普通のカフェショップを見つける。人が多くて明るい。そこに入った。
1時間も経たない内に携帯が震えた。
『どこかな』
「駅から下りる階段は1つだけ。下りて左に真っ直ぐ来て。カフェショップがある」
『うん、今行くね』
それからすぐに真理恵の姿が見えた。向こうが見つけてテーブル席の向かいに座った。
「ココアでいい?」
「うん、覚えててくれたんだ、好きなの」
「忘れるわけない」
ココアを手に戻ってきた華の顔色が悪いのに気づく。
「真っ青だよ! 具合悪いの? なんでこんな駅に来ちゃったの?」
「……話したくない……」
「……まさなりさんとゆめさんに連絡取ろうか?」
「知ってたの? こっちに来てるって」
「聞いたから、お母さんに。ごめんね。この前会った時、話さない方がいいかと思ったの」
「そっか。いいんだ、たいしたことじゃないから。間違ってここまで来ちゃって……金無いの分かったからどうやって帰ろうかって……」
真理恵の手がテーブルの上でぎゅっと握っている拳の上に載った。
「嘘でしょ? だってコーヒーとココアを買うお金で切符買えるじゃない。……震えてる! 熱がある?」
「触るなっ!」
額に伸びる手が途中で止まった。
「華くん?」
「……ごめん、ホントになんでもない。飲んだらタクシーで帰りたい。家に着いたらお金返すから」
「いいよ。飲み終わるまでちょっと待ってね」
「待って!」
口をつけようとしたところを華が止めた。
「なに?」
「慌てないで飲んで。マリエ、猫舌だろ?」
カップを置いた。心配そうな目で覗き込む。
「おかしいよ、華くん。まさなりさんとゆめさんのせい? そうは見えないけど」
それ以上何も答えなさそうに感じて真理恵は黙ってココアを飲み終わった。
「行こうか。タクシー乗り場、多分そばにあるよね」
「マリエ!」
「なに?」
「……ごめん。急に呼び出して」
先に立っていた真理恵がにっこり笑う。
「華くんが呼び出すのって、私一人なんでしょ? 気分いいから許してあげる」
先を行く真理恵がタクシー乗り場を見つけた。1台だけいる。華の手を掴んで早足になった。
「早く! 寒い中立って待つのイヤだよ」
すんでのところで駅から下りてきた客に取られるところだった。
「清井駅までお願いします。その近くになったら道順を言います」
タクシーの中が暖かい。真理恵がそっと手を握ってくる。震えの止まらない手でその手に掴まった。
下りたのは真理恵の家の前。
「ただいまー」
「あら、忘れ物? あんたいつもうっかりなんだから」
言いながら出てきた時恵が驚いた。
「華ちゃん! まぁ、久しぶりねぇ! さ、上がんなさい。お茶入れるから」
真理恵の後について上がる。何も喋らない華に時恵は普通に喋った。
「朗がずいぶんお世話になったのにお礼にも行かなくて。ごめんね、おばさん、礼儀知らずだったわ」
「そんなことないです」
時恵は何度となく来たのだ。けれど華が応えなかった。
「疲れて見える。具合悪いの? なんなら少し休んでいきなさい。朗の部屋があのままだから。あ、掃除はしてるわよ」
「私、上覗いてくる! 暖房も入れないと」
逆らう気も無かった。
「おば、……ごめ、きもちわる……」
立ち上がってよろっとトイレに向かった。
「華ちゃん!」
慌てて華を追いかけた。
「真理恵! お水持ってきて!」
駆け下りてきた真理恵がすぐに水の入ったコップを持ってくる。吐いている背中を時恵が摩った。コップを母に渡してもう1杯水を取りに行く。
荒い息でぐったりした華はコップで口をすすいだ。もう一杯の水を受け取って無くなるまでまたすすぐ。もう1杯の水を飲み干した。
「少しは良くなった? さっきよりは顔色が戻ったけど」
「大丈夫……ごめんなさい」
「なに、言ってんの! 階段上れるならベッドに横になっておいで。上がれそう?」
頷いて素直に上に上がった。まだ部屋は暖まっていない。けれど横になってほっとした。目を閉じる。目を開けて天井を見た。相手の顔が分からないことが堪らなく不安だ。
「華くん、入っていい?」
「いいよ」
真理恵が朗の机の上にミネラルウォーターと蓋つきの湯飲みを置いた。
「お茶じゃなくて、白湯。気分悪い時にお茶って良くないと思って」
「ありがと」
「それから」
部屋のタンスを開けてごそごそと服を取り出した。
「学生服じゃ寝づらいでしょ? 朗のだからサイズ合うと思うんだ。下着、引き出しの中にあるから探して遠慮なく着てね。さっき汗びっしょりだった。そのままじゃ風邪引いちゃうから」
余計なことは言わずに真理恵は出て行った。
汗の後が気持ち悪い。朗の引き出しを開けて遠慮なく下着を出した。下着を下ろすのに躊躇いが出た。
(余計なことを考えるな、余計なこと……)
全部着替えて下着は鞄に突っ込んだ。
(後で捨てなきゃ)
横になって布団を被った。どっと疲れが出る。そのまま目を閉じた。
目が覚めた時には夕方になっていた。机の前に真理恵が立っている。白湯の入った湯飲みを持っていた。
「マリエ?」
「あ、起こしちゃった?」
「ううん、今目が覚めた」
「良かった! 白湯とお水とどっちが飲みたい?」
「白湯」
「はい」
湯飲みが熱い。
「これ……何回入れ替えたの?」
「んー、何回かなぁ。よく寝てたから。起きた時にあったかい方がいいと思って」
水と白湯とどっちを飲むか分からないのに。
「マリエ、俺、体触られた」
きょとんとした顔。
「ここんとこ、同じ男が電車の中で俺のそばに立ってたんだ。そいつに今日触られた」
「華くん! それって」
真理恵がぺたんと座った。床からベッドに座った華を見つめる。
「だらしないよな、そんなことで」
「なに言ってんのよ! 警察に」
「無駄だし。顔も見てない。それにそんなことしたくない」
「どうするの?」
「少し学校休む。で、次の駅までチャリで行ってから電車に乗る。家も早く出る」
「そうだね……それしか無いよね」
真理恵にもなにも知恵が浮かばなかった。他に言葉のかけようが無い。
「誰にも言わない。ね、安心して」
「うん」
「お夕飯、食べてく?」
「いや、家に帰るよ。多分飯作って待ってる」
真理恵が目を見開いた。
「華くん……」
「今朝さ……紅茶とマフィンが置いてあった。甘くないヤツ。だから……帰るよ」
「喜ぶよ、きっと」
「部屋で食うけどね」
「それでも! それだけでも喜ぶって。華くん、辛かったのに」
「変だよな……結局こういうもんなのかな、親子って」
「そういうもんだよ、親子って」
「マリエのお蔭なんだ」
「私?」
「お守り、くれたから」
真理恵は華の真面目な顔に泣きそうになる。
「渡せて良かった。ありがとう、会ってくれて」
「礼なんか……ありがとうなんか言うなよ……本当にごめん」
暗いからここで、というのを明かりが途切れそうな所まで真理恵はついてきた。
「ホントにここでいい。見てるから家に入れよ」
「分かった。気をつけて帰ってね」
「気をつけるよ。おばさんにもお礼言っといて」
「言っとく」
家に入る前に振り返って手を振ってくる。頷いて玄関が締まるのを見ていた。
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