第七話 ストーカー -2
久しぶりの真理恵はすっかり雰囲気が変わっていた。背中の真ん中まである束ねられた髪はウェーブがついて益々大人っぽく見えた。背はそれほど変わっていない。むしろ華の方がちょっと高い。ぽっちゃりしている真理恵は眩しく見えた。
「華くん、変わったね」
「それはマリエの方だろ。俺はガキのまんまだけどマリエはずいぶん大人っぽくなったね」
「そう? 華くんは……なんか、尖ってる。ずっとそうなの?」
「ずっとって? 俺は何も変わってないよ」
華の手元にあるコーヒーを突つく。
「紅茶は? なんだっけ……ウマ?」
「ばか、ウバだろ? 最近飲んでないな、コーヒーの方が美味くて」
「そうなんだ……」
「何度も電話かけてきてたよな、なんか用だった?」
真理恵はバッグから小さな包みを出した。テーブルの上に置く。
「なに、これ」
「誕生日おめでとう。って、遅いよね、今頃」
遅いも何も、華の誕生日は9月7日だ。
「誕生日ねぇ。今頃もらっても……」
「会ってくれないじゃない! ……ごめん。私が怒ることじゃなかった」
「……もらう」
手に取って包みを開けようとして真理恵を見た。
「いいよ、開けてみて」
小さく丸い石が連なって輪になっている。
「これ、なに?」
「パワーストーン。ブレスレットなの」
「ふーん」
手につけてみる。
「つけててくれる?」
「いいけど。きれいな色だね」
「セラフィナイト、スギライト、アラゴナイト、水晶、グリーンアメジストって言うんだよ」
「お守りみたいなもん?」
「うん」
「もらっとく。こういう色なら好きだ」
「知ってる」
5色の色が調和してきれいな手首を彩っている。久々に綺麗なものを見るな、とそんなことを考えた。
「どうしてた?」
「別に。ふつーの高校生やってる」
「うそだぁ、今日はサボりなんでしょ?」
「そ! 学生らしいだろ? 立派な高校生だよ」
ココアを啜る。華と話せたこと、会えたこと、やっとプレゼントを渡せたことで真理恵は久しぶりに安堵した。
「来年はちゃんと誕生日にプレゼント渡したいな」
「そう言えばマリエの誕生日も過ぎちゃったな。ごめん」
「いいよ、その代わり来年いいものちょうだい」
「何がほしい?」
「うーーん。華くんがちゃんと考えて選んでくれるもの」
華がにやっと笑った。その笑みにぞくりとする。妖艶で皮肉な笑みが似合う人。
(華くん……変わったね。なんだかおっかないよ……)
「合気道、やらないことにしたの?」
「そういうわけじゃないけど」
「私は続けてるんだ。もうすぐ黒帯もらうよ」
「マリエの合気道はきれいだもんな」
「え?」
「ほら、マリエの家のそばで見た時と道場で稽古してんのを見た時。そう思ったよ」
年下だなんて思ったことがほとんど無かった。でも華にはきっと気持ちは伝わらないだろうと思う。それでもいい、華に関わって生きていきたい。だからせめて合気道だけでも……
「じゃ、一緒にやろうよ」
「んーー、考えとく」
伝票を持って立つ華を見上げた。
「背、高くなったね」
「成長期だからね」
「今度はいつ会えるかな」
「電話すりゃいいじゃん」
「だって出てくれないでしょ」
「出るよ、悪かった。じゃ、またな」
「相変わらずだ……すっと勝手に出てっちゃうんだから」
恨み言をちょっと呟いた。けれど変わらないところがあるのが嬉しかった。
「お帰りなさい! 華の好きなもの、作ったの」
「あ、そう」
「シーフードカレー。大好きでしょ?」
華の目つきが変わる。
「なに、静さんに聞いたの? 静さんに関わるのやめなよ。もうやめた人なんだから」
「あのね、静さん、久しぶりに会いたいって言ってたわ」
「来いなんて言ってないよね! もうそっとしといてやれよ!」
今のこの空気に引きずり込みたくない。静さんも被害者だったと思っている、自分のせいでこの家に縛りつけた。今静さんはやっと自分の人生を歩いているのだ。
「分かったわ……ごめんなさい、私いつも気遣いが足りなくて……」
「そうだね」
自分にさっさと背中を向けようとする息子に追い縋った。
「華、カレー……」
「部屋の前に置いといて。あ、水もね」
そしてドアを開けた時には小さなワゴンにカレーと水とグラス、氷の入ったアイスペールが置いてあった。
(マリエ、きれいになったな……恋人ってどんな人だろう?)
女性が美しくなるのは恋をしている時だ。それはどの本にも書いてあることだ。
(いいのかな、それなのに俺が会ってて)
真理恵の生活まで引っかき回したくない、自分なんかで。
(バカだな、そんなこと最初に考えれば良かった)
それでも手首に絡みつくような石を見ると何かプレゼント考えなくちゃと思う。
真理恵と過ごした時間は思ったより心を楽にしてくれた。真理恵の誕生日は8月9日。
(ちょっと遠いな……クリスマス……そうだ、それならいいかも)
きっとクリスマスは恋人と過ごすのだろう。
(その後に渡そう。恋人に何かもらう前じゃ悪いもんな)
驚くほど真理恵に対しては以前の感情に戻っていた。
次の日、家に入ると肉を焼いたような匂いがした。
(これ……ハンバーグ?)
小さい時、母の作る料理の中で一番美味しかったもの。少しだけ心が動く。
(必死だな、なんで今さら俺に執着するんだろう?)
それが謎といえば謎だった。
部屋でロックをかける前にノックの音を聞いた。舌打ちが出る。ドアを開けた。
「なに」
父だった。
「入ってもいいかい?」
ここの家主だ。断る口実も咄嗟に頭に出て来ない。でもこの部屋はは自分の城だ。
「向こうに行くよ。話、聞く」
父の顔に笑顔が浮かぶ。
「先、行ってて。帰って来たばかりだから」
「分かったよ。待っているからね」
ロックをかけてベッドに倒れ込んだ。話を聞く前に自分の世界に浸りたい。11分という長い曲を聴き終えて、(そうだった)と部屋を出た。
「迎えに行こうかと思ってたよ」
「時間気にするようになったんだ」
困ったような表情が浮かぶ。その隣には母が座っていた。
「話の前に頼みがあるんだけどさ」
「なんだい?」
「二人、ばらばらに座ってくんない? そうやって並ばれてると落ち着かない」
ちょっと強張った母の手を小さく父が叩いて優しい目を向けている。
(夫婦仲、よろしいことで)
母は隣の一人用の椅子に移動した。ほんのちょっとだけど二人を引き離したことに気分が良かった。
「華、おじいさんに言われたからじゃない、私たちは本当に間違っていたと気づいたんだよ。親として失格だったと。華が怒っても仕方ない、そう思ってる。そんなことに気づくのにこんなに時間がかかってしまった。悪かった」
理路整然と話す父に驚いた。
「すごいね! 何があったわけ? まともなこと言ってる」
「華、まさなりさんはね」
「ああ、それやめて欲しい。少なくとも俺の前で『まさなりさん』とか『ゆめさん』とか言うの」
話が続かなくなった。
「終わり? 部屋に戻っていい?」
「待って! ダディは」
「それもやめよう。俺はもう17だよ。そういう年齢じゃない。あ、俺の年忘れてた?」
「……何もかも変わってしまったのね……」
「何か期待してんのかな。そういうの困るんだけど。俺は今日まで自分一人で考えて自分一人で生きてきたよ。高校だって自分で考えて受験したし、受かった後の支度も全部自分でやった。洗濯も自分でやってる。今、困ってることって無いんだよ」
縋りつくような目で父を見ている母が他人のようだ。
「いいね。生涯一人だけの相手を見つけられて。あ、これは皮肉じゃないよ。純粋にそう思ってる。良かったじゃん、誰よりもどんな人間よりも大切に思う相手に出逢うってなかなか無いんだろうし」
「華、これじゃ話ができない」
「そう? 俺が話したかった時に応えてくれる人ってさ、おじいさまとおばあさま、マリエ、朗、マリエのお母さんだった。静さんは俺のこと、息子だと思ってたって。最後に『親孝行をありがとう』って言ってくれた。静母さんと別れたのは辛かったよ、誰と別れるよりも」
どう言葉を紡いでいいのか分からない。自分たちが親として見られていないことだけは二人とも分かっていた。
「時間がかかってもいい、分かり合えるようになりたい。ピアノを売ったことは許すよ、ゆめ……お母さんは苦しんだ、君から与えられた罰は甘んじて受けるって」
「待って、罰? 何に対する? 勘違いしてる、邪魔だったから売っただけだ」
「華っ! 邪魔だったってなんてこと……」
「俺一人が住んでる空間だよ。怒られるようなことした覚え無いけど。二人がここに寄ろうって思いつく前に売ってる。だって俺の生活に誰かが介入してくるなんて思いもしなかったからね」
(なぜこんな話をしてるんだろう……二人がまた出て行くまで関わんなきゃいいだけなのに)
けれど衝動が生まれていた。二人に言葉を、自分の思いを叩きつけたい。目の前で二人が苦しんでいるのが心に刺さって、その姿を痛みの中で見ていたい……
矛盾する感覚。思いの激流に流され、翻弄されるような。いつもならさっさと席を立っているのにそれが出来ない。
その正体が見えない。……自分が、それでも両親を欲しているのだということ……
たくさんの謝罪を聞きたかった。その間だけは自分のことが二人の中で1番になっている。そんな悲しい心が奥底で蠢いていることに気づかない。
「話ってそれだけ? ピアノを売ったことを謝ってほしかったの? 悪かったね、俺に必要じゃないものを売り飛ばしてさ」
「華! 私はピアノのことはもういいの。もういい。華が許してくれるまで私はピアノを弾かないし、……お父さんも絵を描かない。それだけの覚悟をしてあなたのところに帰ってきたの」
「本当だよ。君が許してくれるのを待つ。だから」
「許すよ。それでいいんなら。どこかの国で思う存分ピアノ弾いて絵を描いていい。なんだ、そんなことでここに来たんだ……ほっとした? じゃね」
席を立った華を、弾かれるように母が抱きしめてきた。自分の肩より低い……
そっと手を離した。
「もう俺を忘れていいんだよ。二人とも自由に生きていい」
「そんなことを望んで帰ってきたんじゃないんだ…… 華のそばにいたい。たくさんの過ちを犯したけれど、もう繰り返したくないんだよ。ピアノのことをあんな風に言ってごめん。帰ってくるかどうか分からない私たちに、華がしたことを責める資格なんて無かった」
首を傾げた。本当にそう思って言っているように聞こえる。少し戸惑う。二人は他人だったはずだ。自分に二人の気持ちが分かるはずがなく、自分の気持ちも分かってくれるはずない相手だ。
今度こそ二人から距離を取った。
「考える」
二人は時間をかけるつもりのようだった。あれから無理に話をしようとしてこない。食事にも呼ばない。ドアを開ければ温かい食事が置いてある。
そして何度目かの朝。
朝食の隅に申し訳ないように置かれた小さなマフィンと小さなカップに入ったウバの紅茶があった。
(また……)
でもすごく小さい、たった1個のマフィン。
紅茶で流し込めばいいと思った。不思議なことに食べないという気持ちが生まれなかった。
口にポンと入れる。紅茶を持つ。ほんの少し噛むとそんなに甘くない。紅茶を口に入れる手を止めた。味わう、甘みの薄い小さい小さいマフィンを。
たったこの量を作るために手をかけるわけが無い。マフィンなんか自分が口に入れるわけ無いのに。
目から何かが零れ落ちた。口からマフィンが消えてウバを飲む。
(あったかい)
なんだか腹も胸もいっぱいになった。朝食に手をつけられない、口の中の香りが消えてしまう。
学校に行く支度をしてワゴンを廊下に出す。鍵をかけて、立ち止まって鍵を開けた。メモに走り書きをする。それをワゴンに置いて家を出た。
メモには 『ごちそうさま』 そう書かれていた。
(またかよ!!)
この数日何も無くて忘れていた。後ろでごそごそ動く気配。左手は鞄で、右手は参考書で塞がっている。
(いい加減にしろよな!)
顔を見ようと思ったが、電車が揺れるのにしっかり立とうと条件反射のように足が広がる。
(え!?)
コートを捲るように足の間に入ってくる手……
ゾッとする、震えが走った。囁くような声。
「感じてるの?」
あの声だ。揺れが続いている、足を閉じれない。好き勝手にされるそこ。
「やめろよ」
低い声で言う。隣の乗客がチラッとこっちを見て携帯に目を戻した。関係無くジッパーが引き下ろされていく、そっとそっと。もぞもぞと入り込む指。参考書を下に落としてその手を掴んだ。直に触っている手に思い切り爪を立てる。
「痛いよ、気持ちいいくせに」
それは男の性だ、初めて他人に触られる感覚に抗いようも無く反応する。
必死に爪を立てる、口を引き結ぶ。歯でその口を噛む、痛みで打ち消そうと。けれど若い体は容赦なく勃ち上がっていく。
「次の駅で下りようよ、満足させてあげる」
揺れが収まって足を僅かに閉じ、そばにある足を踏みつける。
「おい! 足踏んでる!!」
斜め後ろの男が怒鳴るのを聞いて手が引いて行った。
「すみません」
「まったく!」
ぶつぶつ言う声が耳に入ってこなかった。自分が今されたことに現実感が無いのに悪寒だけが体に走りっ放しだ。全身に鳥肌が立っていた。
また声がした。
「またね」
駅で下りようとする人波で、男がどれかとうとう分からなかった。
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