第七話 ストーカー -1
高校生活は殺伐としていた。あからさまに敵対心剥き出しの同級生。学力が全てだ、成績がトップクラスの華は嫌われ者だった。それでなくてもお高くとまっていると陰口が叩かれる。
「『華』って名前さ、親父が付けたの? お袋? すんげえ名前だよな」
返事などしない。
「いい趣味してるよー、顔がいいこと鼻にかけてるみたいでさ。お前にピッタリじゃん」
そして、殴る。『華』という名前は格好の虐めの対象だった、ただ本人は虐めにあっているとは思っていないが。
勉強も忙しかったが、学校は部活の活動を奨励していた。内申にも響くと言われて適当に選んで入部する。
最初は卓球。部長は同じクラスの、名前のことでイチャモンつけてくるヤツの兄貴。相当弟に吹き込まれたらしく、華には用具の片付けばかり命令した。バカバカしくて1ヶ月でやめた。
次は新聞部。何となく興味を惹かれて入ったが、その記事の出来の悪さに思わず笑った。出来上がったばかりの新聞を全部赤で修正した。
『これでちっとは読めるものになっただろ?』
そして、書いた本人とケンカ。
ふらっとコーラス部の『ピアノを弾く人を募集!』というポスターに、気まぐれで音楽室を覗いた。親が親だからある程度の手ほどきは受けている。
覗いていると女子がすぐに寄って来た。みんなが『きれい!』と騒ぐのをつまらなそうな顔で聞く。ピアノが弾けるのかと聞かれて椅子に座った。弾いたのはショパン。それで入部してくれと懇願された。
2週間もすると噂を聞いた同級生が絡み始めた。
『華って名前だけあって、女みたいなことが得意なんだな。歌はひでぇけどお前のピアノがいいって、女子はきゃあきゃあ言ってるってさ。気分いいだろ』
次に入ったのは英会話。会話にならなくてすぐやめた。
体を動かすのもいいかと、陸上に入った。ちんたら走るのが嫌でやったことの無いものをしようと、棒高跳びをやった。筋がいいと、顧問があれこれ言ってくる。先輩の顔がだんだん険しくなるからそれもやめた。その頃にはすっかり問題児だ。
ラグビーは面白かった。体当たりされるのもするのも性に合うと思った。けれど練習試合でぶつかった相手が難癖をつけてきて乱闘。他校とのトラブルだからクビ。
テニスはちょっと嵌った。相手の裏をかくというのが気に入った。けれどダブルスの試合に出ることになり、足の遅い相棒に早くも見切りをつけ、我慢が足りないと言われて退部。
放送部では放送室を締め切って生徒会のレベルが低いと10分間マイクに喋った。
野球部は入った途端に『髪を切れ』と言われた。無視すると『女か、お前。顔がいいからって……「華」? なんだ、お前ついてるもん、ついてんのか?』
それを正面から殴ったら無様な引っ繰り返り方で周りから笑いが出た。その引っ繰り返ったヤツが部長だった。
11月頃には部活に入る気にもならなかったし、誰も入れとは言わなくなった。その頃から通学の電車の中で違和感を感じることが増えて行った。
「マイ・ボーイ!!」
玄関を開けた途端に耳に飛び込んできた声に、華は後ずさりした。そこに立っている背の高い紳士。相変わらずの日本人が普通に着ないようなスーツ。
渋いオレンジの革のジャケット。くすんだ緑のパンツ。茶色の靴が全体の浮き上がるような色合いを引き締めている。
(色の使い方は相変わらず上手いよな)
まるでマネキンを見るような気分だった。高揚感も生まれない。
「どうしたの? なんか用?」
何年かぶりに会った質問じゃない。胸に飛び込んでくるだろう、そう思っていたらしい父は、華の口調に両手を下ろした。
「華、機嫌悪い?」
「別に。いつもと変わらないけど。何日泊ってくの? ホテルでも借りれば良かったのに」
そのまま自分の部屋に入ってバカでかい音でロックをかけた。あれから次々とロックのCDを買った。あんなに落ち着かない曲だったのに、今はその中に身を浸すと落ち着く。クラシックはあれ以来聞いていない。
過去を思い出すものは自然に避けていた。家中の家族の写真は飾ってあった絵と一緒に大きなクローゼットに突っ込んである。ピアノは1年半前に叩き売った。母が大事にしていたピアノは結構いい金額になった。それがCDに化けた。あの時はひどく清々して気分が良かった。部屋を陣取っていたデカ物はいつも神経に障っていたから。
部屋がノックされているのに気づいたのは結構経ってからだった。鍵はしっかりかけてある。華はボリュームを上げた。
それから30分ほどして机の上に放ってあった携帯が光った。見ると真理恵の番号。名前を確かめてまた机に放った。誰にも会いたくないし、声も聞きたくない。
しばらくして座り込む。この頃感じる電車の中でのこと。なんとなく感じるざわつく感じ。何をされるわけでもない、ただ揺れて密着する後ろの男の息が荒いのを感じていた。ただそれだけだ。けれどその息遣いはいつも同じ人間のもののような気がする。満員の中の出来事で後ろを確かめることはできなかった。けれど常に同じ人間が後ろにいるのかと、それが気味悪い。
考えたからといって意味が無いと、そのことはさっさと心の中から追い出した。
少し微睡んだような気がする。時計を見ると9時半。
(腹減った)
勢いよくベッドから出るとキッチンに向かおうとした。
「華! 華、会いたかった……」
足を止めて訝し気に後ろを振り向く。母が立っていた。泣きながら手を伸ばすのをチラッと見てキッチンに向かう。
「華……華、帰って来たの。もうどこにも行かないから」
今度はぴたりと足が止まった。ゆっくりと向き合う。
「なんの冗談?」
「華、私たちちゃんと話し合ったの。もう家族で一緒にいようって」
「それで?」
「仲直りしましょう。私たちが悪かったこと、よく分かってる。あなたに酷いことをしたんだって、おじいさまにも叱られたわ。本当にごめんなさい。間違っていた、私もまさなりさんも」
「ここに来る前におじいさまの所に行ったってわけ?」
「あなたのことでお世話になったから……」
「俺はいつでも2番目なんだね」
母には意味は伝わらなかっただろう。けれど分かり合うために割く努力がくだらないと思う。
(それより腹減った……)
「華……また怒らせてしまった? 私、間違えてばかりね…… あのね、マフィン、たくさん焼いたの。一緒に食べない?」
「たくさん?」
「あなた好きだったでしょう? だから……」
華はげらげら笑いだした。涙まで出てくる。
「華……」
「ああ! ホント笑える! 帰ってきて早々作ったのがマフィン? ああ、そりゃいいや!」
もう後を振り向かなかった。キッチンで買い置きしてある冷凍パスタを温める。トレイにパスタとタバスコと水を持った。
(げ! 甘ったるい匂い)
キッチンに広がる匂いに、さっさと部屋に引き返す。けたたましいエレキギターと叩きつけるようなドラムの音が震える空間でやっと息を突いた。
朝は廊下にまで紅茶の匂いが漂っていた。ウバだ。好きだった過去形の紅茶。今は水とお茶とコーヒーしか飲まない。気がつくと紅茶を飲まなくなっていた。
おずおずとした声が後ろから呼ぶ。
「華、朝食一緒に食べるだろう?」
「鍵、ちゃんとかけてってくれよ。どうせもう行くだろ」
「行かない、華と一緒にいたい」
「どういうつもりか知らないけど、誰かに叱られたから謝るような連中に今さら生活をひっかき回されたくないから。俺が帰った時にはいないよね? それともこの家を叩き売りに戻ったの? いいよ、マンションにやっと移れる」
青い顔で立っている『父』だった人に背中を向ける。
「華っ! マイボーイ!」
その声を後ろにドアを閉めた。
電車の中で英語の文法の参考書を読んでいた。
(文法ってわけ分かんねぇ。そんなもん無くたって喋れるっつーの)
けれどトップクラスを手離す気などさらさら無い。名前のことで毎日あーだこーだ言う連中は自分の足元にも及ばないのだから。
どうしても引っかかるところを繰り返し読んでいた。気がついたのは電車の揺れとは違う揺れを背中から感じたからだ。
(いつもの男?)
華にはそれがどういうことか分かっていなかった。息遣いがいつもより荒い。耳元で密やかに声がした。
「ぁ、ぁぁあ……っは、ぁあ…」
(なんだ? 具合でも悪いのか?)
背中に吐かれたくないと思った。どう考えても気味が悪いとしかいいようがない。そんな男のゲロなど浴びたくない。
そう思った時に男の息が止まった。ぶるるっと震える感触がして、大きく息を吐くのが聞こえた。制服のズボンに温かいお茶でも零されたようで体を捩じろうとする。後ろの男から離れようとしたのだ。
『良かった………またね』
囁く声がした時、駅に着き反対のドアが開いた。男の気配が消えた。
(変なヤツ)
濡れたところに手をやる。粘りのある液体。
(わ! なんだ、これ。何零したんだよっ)
いつもの駅で下りてトイレに入った。あまり駅のトイレは好きじゃない。どこも汚くて触る気にもならない。けれど何をつけられたのか確かめたかった。
トイレの個室に入ってティッシュで腿を拭った。透明っぽくてちょっと白く濁っている。イヤだけど匂いを嗅いでみた。
(うぇ! これって……)
慌ててトイレットペーパーで何度も拭く。その正体くらい分かる、自分だって何度か出している。
(帰ろ。気分、失せた)
華はまだ事を甘く見ていた。単なる変態が後ろにいただけだと。
家に入って思い出した、あの二人がまだいるかもしれない。いったん外に出て電話をかけた。
『どうした、話をしたか?』
「なんなの、あの二人」
『やっとお前のために帰って来たんだ。しっかり話し合うんだ』
「冗談! 勘弁して、俺は今の暮らしを邪魔されたくないよ」
『華、このままじゃ良くないことぐらい分かっているだろう?』
「おじいさまはさ、今さら何か変わると思ってんの? 変わってほしいの? それはどっちが変わるべきだと思ってんの?」
『お前の気持ちは分かる』
「分かる? 俺の気持ち? 誰が分かるって? みんなイカレてる」
電話を切った。この頃は祖父と話すことも減っていた。要するに関わってくる者がみんな鬱陶しくて堪らない。一人に慣れた今、誰かといるのは苦痛でしか無い。
その時に電話がかかって思わず出た。
「いい加減にしてよ! 俺は変わる気ないっ」
『華くん……やっと出てくれた』
「……マリエ?」
『私とも……まだ喋る気になれない? 私は華くんと話したいよ。寂しいよ……』
久しぶりの声。鬱陶しかったはずなのにホッとした。真理恵の声が心地いい。
「……ごめん。会おうか、どこかで」
『ホント!? 会いたい!』
「あれ? 学校は?」
『今日は休みなの』
華は高校一年。真理恵は大学一年だ。
「そっか、大学って自由になるんだよな。じゃ、あのカフェで。シャワー浴びてから行く」
『うん!』
シャワーを浴びたい、気持ちが悪い。ズボンを捨てたい。替えの学生ズボンなら持っている。
中に入って部屋に真っ直ぐ向かう。着替えを掴んでバスルームに入った。
しっかりと洗った、思い出しても不快だ。いくら顔が綺麗だと言われても、しょせん自分は男だ。歯の浮くような言葉に心が揺れるわけが無い。華は自分を過小評価していた。
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