第五話 ひとりということ-2
何回も寝返りを打った。あれきり呼吸は苦しくないし、動悸もしなかった。ただ頭が冴え冴えとしている。
たった2日の間にいろんなことが起き過ぎた。今、この家に真理恵と二人きり。自分の体を抱き締める。一人になるってこんなに怖いことだったのかと。 起き上がって本を出した。読もうとするが、目は文字の上を滑っていく。ベートーベンの穏やかなピアノソナタをかけた。ベッドに横になってみる。
(誰も帰ってこないかもしれない、ホテルみたいな家)
枕と毛布を持ってテレビのあるリビングに向かった。テレビをつけてソファに横になる。やっと眠れた。
真理恵は宣言した通りに10時になって部屋から出てきた。洗面所に行こうとして台所からの音と匂いに気づく。
「華くん?」
「おはよう! やっと起きたな。早く顔洗って来いよ、トースト焼くから」
顔を洗って戻るとティーサーバーに湯を入れるところだった。
「トースト、もう焼けるよ。目玉焼きとサラダは作った」
「じゃ、カレースープあっためるね」
「やっぱりあれ、スープだよな」
「……認める。降参。あれ? この目玉焼き、焦げてるよ?」
「うるさいな、黙って食えよ」
真理恵は一方的に喋った。いつものことだから華も気にもしない。感心したのは、喋っていても皿の中のものがちゃんと減っていくことだ。そのことに初めて気がついた。きっと食べている時の真理恵のことを見ていなかったのだ。
「キッチン片付けたら支度してね。私の家に行こう」
初めて真理恵の家に入った。友だちの家にも入ったことが無い。ちょっと仲のいい子でさえ華が家に来るのをイヤがったから。そして華の家に来ることも。
玄関に入って、そこで靴を脱ぐ真理恵の真似をした。
「お母さん、華くんと一緒に来たよーー」
「はーい、お帰りー」
(似てるよなぁ、この二人)
真理恵一人なら何とかなるが、この親子を相手にすると激しく調子が狂うことがある。
(朗、まだ帰ってきてないよな……)
まさか部屋の主より先に部屋に入るほど礼儀知らずじゃない。
入って天井を見た。ずい分低い。廊下をちょっと行くと突き当りにドア。そのドアの手前右側に小さなドアがある。そのすぐ反対側の奥まったに場所には不透明なガラスがついたドア。
「あ、そこがお風呂だから」
「え?」
「それからこっち側がトイレ」
さっきの小さいドアだ。そばには階段。真理恵の後について突き当りのドアを開けた。右側にすぐあるのがキッチン。狭い中に食器棚と冷蔵庫と何かが並んでいる。それを見ながら通り過ぎて真理恵の背中にぶつかった。
「大丈夫?」
「あ、ごめん」
「いいけど。座って、今冷たいもの出すね」
テーブルが部屋の真ん中を占領している。そこにある椅子にぎこちなく座った。
「はい。これしか無いの」
「いいよ。あの、おばさんは?」
「今下りてくると思う。多分洗濯物干してるの」
「どこに?」
「2階のベランダ」
賢明にも華は余計なことを一切言わずにウーロン茶を口にした。ソファがどこか、他の部屋は? トイレは1つ? お風呂に入る時どうやって着替えるの?
外からいつも見ていたくせに中のことなど気にしたこともなかった。
「いらっしゃい、華ちゃん」
「お邪魔します……」
「どうしたの! いつもの元気は? 真理恵に聞いたわ、静さんもいないんだって? 息子さんの様子はどうか聞いた?」
「……聞いてないです」
「華ちゃん。たくさんお世話してもらってるのに。すぐに電話かけなさい。もし留守電だったらちゃんとメッセージ残して。息子さんの様子はどうか、今どこにいるのか、ちゃんと伝えなさい」
「はい」
いつもと違うと思った。あっけらかんとした人だ、真理恵のお母さんは。けれど今日はすごく頼りがいのある人に見える。
言われた通りにすぐに電話をかけた。
『華さん? 電話くれるなんて思わなかった!』
いつもの声にホッとする。そして自分の電話を喜んでくれることにチクリと胸が痛んだ。真理恵の母に言われなければきっとずっとかけなかっただろう。
「えっと、恭一さん……だったよね、どう? ケガ、酷いの?」
『まぁ! 心配でかけてきたの?』
その言葉に自分はどんな人間なんだろうと、また疑問が浮かんだ。
「そうだけど」
『ありがとう! 思ったよりひどくなかったの。でももうちょっとそばにいたくて。華さんは大丈夫? 食事とか気になっていたんだけど』
「そういう心配いいよ。こっち、気にしないで恭一さんの側にいてあげてよ」
『……本当はそうしたかったの。いいの?』
「うん。静さん、お母さんだから」
『華さん。ちゃんと行くからね。しっかりとしててね。大丈夫、きっと奥様は帰ってくるから』
「いいんだ! ……いいんだよ、もう。俺、マリエの家に来てる。だからあまり心配しないで。じゃ」
何か言いかけているのを切った。
いつの間にか真理恵と時恵は二人は台所で喋っていた。
(すごい、ここに筒抜けだ……)
周りを見渡す。この家で内緒に出来ることなんてあるんだろうか。どこにいても誰かに見られそうだ。
「華くん、どうだった? 静さん、なんて言ってた?」
「心配無いって。思ったよりケガはひどくなかったって」
「良かったね! どうしたの? 今何もすること無いから私の部屋に行く?」
どうしていいのか分からず頷いた。荷物を持って真理恵の後から階段を上がっていく。
「どうぞ」
ドアを開けられて真理恵より先に入った。本当に自分の部屋の半分くらいだ。開けたドアのすぐそばに勉強机。すぐに窓。すぐにベッド。
(全部すぐそばにある……)
『私の家は冷蔵庫まで1分も歩かないよ』
(ホントだ……)
そう言えば初めて真理恵が家に来た時に、『迷子になりそう!』と言った。確かにここなら迷子にはならない……
『普通の人はこれを喪服とは言わないよ』
『そこで気づくべきだよ。華くんも充分人と違うってこと』
『普通って分からないよ』
(俺は『普通』ってこと、ホントに分かってなかったんだ)
真理恵の家を普通というのなら、なにもかも自分は人と違う。違い過ぎる。
「俺……帰るよ」
背中を向けようとしたのを荷物を取られた。
「なにすんだよっ」
「今日はここに泊って。今日だけでもいいから」
真剣な顔に気圧された。
「俺は普通ってこと、まるっきり知らないんだ」
「いいよ、それでも。華くんのことを本当に困るって思うなら家に来てって言わないよ」
祖父の家で両親と会ってから自分が変わってしまったような気がした。自信が無い。前のように高飛車にものが言えない。頭が回らない、自分がバカにして来た『頭の回転がもたついているヤツ』になっている。
「マリエ……俺、今どうしていいか分かんないんだ」
「華くん?」
「父さんのことも母さんのことも嫌いになった訳じゃないんだ……そうじゃない、ただ……」
そこから言葉が出て来ない。ただ、何なのか。
「真理恵ー、ちょっとお使い頼みたいんだけど」
「はーい、今行く」
これも普通なんだろうか、何か用を頼まれて『はい』と言うこと。
「ごめんね、先に行って来ちゃうね。その後ゆっくり話そうね」
階段をとんとんと下りていく音がする。ここでは誰がどこにいるのか、きっといつも分かるのだ。座り込んで膝を抱いた。次に自分が誰かに抱き締められるのはいつなんだろう。
「華ちゃん、下りてらっしゃい」
真理恵が出て行ってから下から声が掛かった。することもない。素直に下りていく。
「そこに座って。お話しましょ。真理恵はすぐには帰ってこないから」
「はい」
「お母さんとね、話をしたの」
「えっ?」
「華ちゃんがいなかった時に。お母さん、どうしていいのか分からないみたいだった。だから華ちゃんのこと、おばさんが気をつけておくからって言ったの。だから何か困ることがあったら」
「おばさんはマリエのお母さんなのに」
言葉が溢れるから言葉に詰まる。
「なのに……どうして母さんの代わりをするの? 俺の母さんはどうして俺に…… そんなに俺ってイヤな息子だった? どうしたら良かった? 入学式に変なカッコで来てもらえばよかった? 嫌いなもの作った時に美味しそうな顔をすればよかった? ずっと父さんの絵のモデルしてればよかった? 2人にくっついてあちこち外国を転々とすればよかった? 俺は……何を間違ったの?」
聞いている時恵の目から涙が落ちた。
「華ちゃん。きっとみんなで間違えたのよ。でもわざとやったんじゃない。いろんな親子関係があるのだけど標準なんてないの。お互いに相手のことをもうちょっと考えられれば良かったね……」
「よく……分からない。でも……もう一度母さんたちと話したい。話したいんだ………もうだめなのかなぁ……」
時恵の中で気持ちが固まった。
「私がもう一度話をする。お母さんの気持ちを聞いてみるね。だから一人にならないって約束してちょうだい」
「うん……約束、する。母さんと話してくれる? ……伝えて。ごめんって言ってたって」
自分の頬を乱暴に手で擦って時恵は笑った。
「はい。伝えるわ。もう一度お父さんとお母さんと話ができるようにおばさん、頑張るからね」
「お願い、します」
真理恵の母にきちんと頭を下げて頼めたことで、どこかほっとした。ちょっとしたことだけれど頑張れたような気がした。
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