第五話 ひとりということ-1
家に戻るとテーブルの上に2枚の紙があった。1枚は合気道の申込書。父と母の署名があった。もう一枚は走り書き。静さんだ。
『華さん。急ですが息子が事故に遭いました。手術を受けるので数日お休みをいただきます。連絡先はいつもと同じ。私からも連絡しますね。ばたばたとしてらしたから旦那様と奥様にはお伝えしてないんです。こんな時に本当にごめんなさい。電話しようかと思ったけれど落ち着かないだろうからメモを残します』
なら、静さんは知っているのだ、この状況を。
「電話してくれて良かったのに」
ぽつんと呟いた声に応える者はいない。やけにテーブルが広く見えた。元々大きなテーブルだ。
(父さん……母さん、俺が一緒に食べなかったから寂しかった?)
だからと言って何ができただろう。華には二人のことがあまりにも分からなかった。
自分の部屋に入りデカい音でロックをかける。前に誰かから貰ったけれど、ただうるさいだけですぐに放り出したCD。
それをかけてベッドで頭から薄い毛布を被った。
「うわああああああああ…………ぁぁぁぁ……」
喚きたかった、叫びたかった、本当は……泣きたかった。
一人になりたいのと独りになるのではわけが違う。声を出した後は喉に塊がせり上がってきて呼吸を塞いだ。毛布を撥ね退けて喉をかきむしる。
過呼吸を起こしているのだと分からない、知らない。
目が眩みそうな中を携帯を掴んで廊下へと倒れ出た。
(苦しい、息ができない……)
パニックでもがくから余計に息が吸えない。だからパニックが大きくなる。
(だれ、か……ま、む……まむ………まり……え)
手が指が記憶している真理恵用の短縮ダイアル。目がチカチカする、手が震える。
(まりえ、まり……え)
『もしもし、華くん? 今、授業中だよ? ちょうど先生が出てったけどすぐ戻ってきちゃう……』
小さな声に返って来た囁くような弱々しい声。
「……ま……」
『華くん? どうしたの?』
「ま……り……」
『今どこ!?』
「い、え、ま……」
『待ってて、すぐ行く! 電話、切らないで!』
「まり……」
『先生! 叔母の叔母が倒れたので帰ります!』
『え? お、おう、お大事にな……』
聞こえた真理恵の嘘が可笑しい。可笑しいのに笑い声が出ない。時々真理恵の声が聞こえるがどんどん夢の中の声のように遠くなっていく……
「目、覚めた?」
開いた目の前にいるのは真理恵だった。冷たいタオルが首に当てられている。
「……ま……」
「喋んないで。まだ目を閉じててね。落ち着いたら座ろうね」
そう言われて分かった、部屋の前だ。頭の下には柔らかい物がある。多分これは枕だ。ロックは止まっていた。真理恵が消したのだろう。声を出そうとしたけれどまだ何か喉につかえているような気がする。
「待っててね、冷たいお茶取ってくるから」
勝手知ったる。そんな空気で我が家を歩くように真理恵の足音が軽く耳に響いてくる。涙が流れているのに気づいたけれど、拭く気にもなれなかった。どうでも良かった。
今度は真理恵の足音が近づいてくる。脇にぺたんと座ったらしい。冷たいタオルが顔を拭いていく。そのまま目に載せられた。
「曲がるストロー見つけたからそのままで飲めるよ。口に入れるね?」
唇にストローの感触がして、華は啜った。喉を通っていく冷たいお茶がつかえを押し流していくような気がする。
「華くん、ちょっと休もう。一気に飲まない方がいいよ」
素直に口を離した。
「もっと飲みたい?」
頷くとすぐにストローが口に入って来た。けれど吸い上げられなかった。少しずつ体が震えてくる。
「っうっうっう……」
冷たいタオルが引っ繰り返った。熱くなり始めた目を冷ましてくれる。それでも泣き止まない華の頭が持ち上げられた。柔らかい膝の上に載せられて抱きしめられた。
「誰もいないから」
それだけを言って、真理恵の手が頭をずっと撫でてくれた。声が大きくなっていく。
「……っうう、っうっ……うあ、あああ、ああ、わああああああ」
真理恵はずっと撫で続けた。華が落ち着くまで。
泣くだけ泣いて、やっと座った。
「ありがと、マリエ……俺、みっともない……」
「そんなこと無いよ。私だって泣く時くらいあるんだからね」
それがやけにお姉さんみたいで小さく笑った。
「よしよし。待ってて」
ソファからいくつもクッションを取ってきて、廊下の壁に並べた。そこに華の体を押しつける。少し自分で位置を調節して座り心地を良くした。今度は自分の分を取ってきて、真理恵は華の隣に座った。
しばらくそのまま黙って二人で座っていた。
「マリエ、教えて。俺ってイヤなヤツ?」
「どうだろう。私はそうは思わないけど。華は正直だから私は楽だよ」
「楽? 正直?」
「うん。思っていること言ってくれるからそれ以上聞き直さなくていい。嘘は言わないし。でも他の人から見たら違うかもね」
「そうか……」
立ち上がった真理恵を見上げた。
「かえるの?」
怯えたような、縋りつくような目になっている。真理恵が笑いかけた。
「冷蔵庫、見てくる。夕飯作ってあげるから。その代わり好き嫌い言わないで。いいね?」
こくっと頷いた。まだ一人にならないで済む。料理を作っているうちは真理恵はここにいる。
キッチンの方からカチャカチャという音が聞こえてきた。目を閉じてそれを聞いていた。
(マンションで暮らしたら……こんな感じか……俺が誰かに来てくれって言わなきゃ一人なんだ)
口をキッと結んだ。もう泣くのはいい。たくさん泣いた。久しぶりに泣き声を上げた。涙が染み出しそうになるのをぎゅっと力を入れて堪えた。
「ごめんねぇ、なんかいろいろ足んないから買ってくる。待てるよね?」
「うん」
「お茶、ここに置くね。動くの楽になったらソファに横になったらいいよ。あ、テレビつけてってあげる。見なくていいから音消しちゃだめだよ。じゃ、行ってくる。鞄、ここに置かせてね」
安心した。鞄がある。真理恵は帰って来る。
出て行って10分くらいして立ってみた。もう足元もしっかりしていた。
クッションを拾って、ぱんぱんと叩いた。真理恵の分もソファに運ぶ。真理恵の鞄を持ち上げて、底をまたぱんぱんと叩く。
別に汚れてるわけじゃない。なんとなくそうしたかった。真理恵に優しくしたい。そしたら優しい子どもになれるような気がした。
テレビがついていた。ちらっとだけ目をやって、ソファにごろっと寝転がる。この家ではテレビは置物と一緒だ。めったにつけることはない。音楽の中に住んでいる夢は、テレビの音を好まなかった。一緒に過ごした時間は少なかったけれど、華も母と同じようにテレビを見ない。
(大丈夫。マリエが帰ってくるから)
今はそれだけで良かった。
30分ほどして帰って来た真理恵を見てやっと普通に呼吸ができた。帰ってこないような気がした、カバンを置いたまま。合気道の申込書だけ置いたまま。
(違う、それは母さんだ。マリエじゃない)
頭の中がごっちゃになっていたのが解けてくる。
「遅くなっちゃったね。ちょっと家に寄って来たの。お母さんがこれ、持って行きなさいって」
袋から色々出してテーブルに並べた。握り飯、梅干し。たくあん。海苔。玉子焼き。他に野菜や肉のパック、カレールー。
「買うより家の持ってきた方が安いからね」
笑って真理恵が言う。それに頷く。真理恵は何も聞かない、言わない、余計なことを。
「お腹空いてるならお握り食べて。華くん、海苔が柔らかくなるの嫌いでしょ? だからこのまま持ってきたの。食べる時に自分で包んで食べてね。じゃ、台所行くから。夕飯は……7時半くらいになっちゃうかも。私、遅いんだ、皮剥くの」
材料を袋に戻して台所に行く後姿を見送った。
15分くらいして、海苔を広げてお握りのラップを外した。ぱさっとするのを巻くからパラパラと海苔の欠片が舞う。テーブルの上に被さるようにしてあっという間に一つ食べ終わった。
自分の部屋からティッシュを持ってきてテーブルを拭く。ちょっと経ってから台所に向かった。
「マリエ、皮、俺が剥くよ」
「ホント!? 助かる! じゃ、お願いね」
やっと真理恵に笑い返すことが出来た。
(終わったら帰るんだ……)
そう思っていた。
一緒に料理を作り、一緒に食べた。文句を言われる、ジャガイモに皮が付いていると。文句を言った、ニンジンが硬い。
そして二人でこれはカレーかカレースープか、激論を戦わせた。多い水に、ありったけルーを入れたがとろっとしなかったのだ。
「これでホントにカレーが得意だって言い張るわけ?」
「だって華くんのとこ、大きな鍋しか無いんだもん。水の加減が分かんなかった」
「へぇ! 鍋のせいなんだ!」
「そうだよ、悪い?」
後は笑い合って食べた。ゴリゴリ言うニンジンが可笑しい。いつも食べる、辛口のカレーとは全く違った。入っているのはじゃがいも、にんじん、玉ねぎ、安い豚肉。『カレーじゃない、アメ―だ」と文句言った。けれど3杯お代わりをした。
二人で食器を洗って拭く。テーブルをきれいにするとやることが無くなった。
「あの……ありがと。家まで送る」
「どうして?」
「一人でなんて帰せないよ、暗いんだから」
「だって華くんとこ、いっぱいお部屋空いてるでしょ? どこに寝ていい? パジャマ、持ってきたんだ」
「パジャマ?」
「制服、家に置いてきちゃったし。明日は寝坊して10時頃朝食ね。お昼は一緒に夕飯の買い物に行こう」
「だって、学校は?」
「叔母さんの叔母さんが倒れたんだよ? そんなにすぐに学校行けないよ」
ふっと笑った。
「そんな嘘、もう先生にバレバレだよ」
「そうかなぁ」
「マリエは嘘なんかつけないよ」
「結構上手に言ったと思うんだけどな。でもお母さんに泊まるって言って来ちゃったから」
「おばさん、いいって?」
驚いた。そんな許可をしてくれるとは思っていなかった。
夢は泣きながら時恵に電話していた。順序だてて話せなかったけれど、いったん華と別れて生活すること。頭を冷やして別居を考えてみること、華とどうしていきたいかよく考えてみたいこと。
『夢さん。何があってもどんな壁があっても母親が子どもから離れるのは正しくないわ。考えるようなことじゃない。自分が自由に育ってきたから分からないって、言い訳にもならない。あなたは「人」を育てているのよ。そしてそれは義務じゃなくて自分の中から溢れてくる思いなの。本当に分からないんなら、あなたは最初から親じゃなかったのよ』
その時に時恵は言った。自分で考えなさい。相談には乗らない。ただ華の様子には気をつけておくと。
「何があったか……聞いた?」
「なんにも」
「じゃ、どうして料理作ったり泊まるって言ったりするんだよ」
「華くん、じゃどうして具合悪いのに私を呼んだの?」
そうだ、どうして真理恵しか思いつかなかったんだろう。
「ね、今日はそういうの考えるの面倒くさいな。1つ1つに理由付けないとだめ? もうシャワー借りてベッドに入りたい。授業抜け出したなんて私には大事件なんだから、今頃心臓がどきどきしてきちゃった」
「あ……ごめん……」
華の頭を突っついた。
「最近の華くん、可愛いぞ。だってこの前怒って帰った時だって私を心配して後ろからついてきてくれたでしょ? ……そっか! 華くん、ひょっとして私を好き?」
「は? そんなわけないだろ! 俺、年増は嫌いだ」
「またぁ。そういうこと言っちゃいけないんだよ。正直すぎるのも考えもんなんだよ」
荷物を持つ。華の顔をくりっとした目で見る。
「どこ? 使ってもいい部屋」
「1階と2階、どっちがいい?」
「冷蔵庫に近いとこ! 私の家は冷蔵庫まで1分も歩かないよ」
「そうなの?」
2つくらい部屋を見せられて、真理恵は小さい方の部屋を選んだ。
「大きな部屋って居心地悪いよ。よく華くんはあんなに広い部屋で我慢できるね」
「広い……かな」
「広いよ、私の部屋の2倍近くあるもん。それに華くんとこ、和室が無いんだね」
「おじいさまのとこならあるけど」
「ホテルみたい」
その言葉にずいぶん前に両親と泊まったホテルを思い出した。確かに似ている、だから違和感が無かった。けれどホテルに泊まり客が一人もいなかったら。ホテルマンも受け付けもいなかったら。
ゾッとした、この家は今誰もいないホテルなのだ。
「マリエ……いつまで泊まる?」
「いつまでって、今夜だけだよ」
「……静さん、いつ帰ってくるか分からないんだ」
真理恵は少し考えた。今の華がとても脆く感じる。難しいことが分からなくても一人にしてはいけないような気がした。
「じゃ、こうしよう! 明日のスケジュールは変更。私の家に華くんが泊まりに来るの。アッキの部屋に一緒に寝ればいいから」
「
「そうでもないと思うよ。アッキは弟が欲しかったんだから。シャワー借りるね。タオルは行けば分かる?」
「うん。バスルームは台所の手前を右に行けばあるよ」
「じゃ、お休み。夜更かししちゃだめだよ」
「……おやすみ」
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