第三話 最初の曲がり角-2

 道場はそこから歩いて20分ほどのところだった。

「意外と近いんだな」

「でしょ? これなら通いやすいでしょ?」

「そうだな」

「普段は自転車で行くんだ。今日は華くんに合わせて歩くけど」

「いいよ、俺もチャリで来る」

「じゃ、道だけ覚えてね」

 造りはいかにも道場。

「声、しないな」

「出さないよ、声なんか」

「そうなの?」

「最初はまず転び方だね」

「転び方って……」

「転ぶだけでケガするのって損でしょ? 合気道は、まず自分がケガをしちゃだめなの。それを忘れちゃだめだよ。ケンカになってもケガをしない」


 道場に入るとなぜか圧倒された。『粛然』という言葉が一番合うと花は思った。隅々まで磨き上げられた床。無駄なものが何も無い空間。

 道場着を着て練習しているのは大人は4、5人。内、年配者が3人。小学生らしき子どもが6、7人。学生風がやはり6、7人。年齢不詳が3人。

 年齢不詳には髪を後ろに束ね髭面の男が一人。それがその男にはしっくりきて、花は彼から目が離せなくなった。自分のすぐ近くで男性の相手をする。

 外見と違って、目の前の彼の動きは美しかった。流れるように体が動いている。相手をしている男性はまるで体重が無いかのように翻弄されている。道場の中でその男の周りだけ緊迫感が無い。無駄に感じさせるものも無い。

 ド素人の華にさえ分かる、この髭面は強い。

 華の様子を見て真理恵はにっこりすると自分の支度をしに行った。そのことにさえ気づかない。

 自分の息が ここ! という場面で止まる。思った通りに髭面が動く。ただその動きは全く読めない。自分をしっかりコントロールしながらも相手の動きに合わせて逆らわない。


「ありがとうございました」

 相手をしていた男性が座って手を突き礼をする。同じように髭面も礼をした。両方が見える場所に座っていた華は二人を見て驚いた。男性は汗びっしょりだ。けれど髭面はほとんど汗をかいていない。

 座ったままぐるりと回って髭面が華の正面を向いた。

「君は?」

 物静かな佇まいに圧倒されて口を開けなかった。

「師範。私が連れてきました。見学者です」

茅平ちひら、友だちか?」

「いえ、幼馴染です。後は彼に聞いてください」

 真理恵は座ると正面の壁にある大きな額に向かって一礼をした。隅に座っていた学生に頷く。学生が立ってきて互いに礼をし、練習が始まった。

 華はそれにちらっと目を向けたが、すぐに師範と言われた男に視線を戻した。

「宗田華と言います。勧められて来ました」

 素っ気ないほどの自己紹介。

「遠野進太郎です。ここの師範代で道場を任されています」

 太くて深い声。この師範にはこの声がぴったりだ。

「汚らしくは見えないです」

 しまった! と思う。つい思ったことが口に出てしまった。遠野から大きな笑い声が起きる。

「風呂には入っているからな」

「すみません! つい」

「いや、正面切って言われたのは初めてだ。お蔭でこの前彼女に振られた」

 とても失恋したばかりとは思えない豪快な笑い。魅了された。今までこんな気持ちになったのは初めてだった。手を突いて真っ直ぐ目を見た。

「お世話になります。どうぞよろしくお願いします」

「ん。よろしくお願いします」

 きちんと礼を返される。

「年を聞いてもいいかな?」

「14です」

「中学生? そうは見えなかった。落ち着いているね、深く勉強しているんだろうね。ここは中学生は月謝が4千円です。道場着は借りるなら使用料は月に500円。洗濯は自分でやってもらう。ここで洗って、ここで干す。洗濯機は使わない。冬でも同じ。道場は常に開いている。誰がいようといまいと稽古は好きなだけやっていい。来ないならそれでも構わない。特に規則は無い。ここに来ることに意味を持つか持たないか、それだけだ」

 そこまで一気に話すとまた華をじっと見た。

「親御さんにはちゃんと承諾を得るように」

「なぜですか?」

「武道だからね。安全を期しても何が起こるか分からない。だから18未満は承諾を得るようにしている。入り口にある申込書に自筆の氏名を書いてもらえばいい。それが出来るまで稽古には入らない」

 溜息が漏れた。こんな時に困る。あの親は一般常識に囚われていない。どう話せばいいのか。

「質問は? ここに来るようになったらいつでも疑問に思うことは答えるが」

「あれはどういう意味ですか?」

 額に入った文字を指さした。『静水』とある。見事な字だ。

「そうだな……あれは私が書いた。第一印象ではどう感じる?」

「動かない水」

「そうか。これは君に考えてほしい。すぐに答えが出なくてもいい。いつか君の答えが出たら聞きたい」

 大きく息をした。これは溜息じゃない。

「はい」

「好きなだけ見学していい。聞きたいことは聞いてくれ」

「はい。聞きたいです」

「なにかな」

「道場の掃除について教えてください」

「ああ、自由にしていいよ。みんなの意思に任せている。私のやり方は他の道場とかなり違う。ここでは各々に考えてもらうことが多い。何もせず稽古だけする者もいる。誰かに合わせるのではなく、自分で考えてくれればいい。道場着を洗うことについても同じだ」

 好きなように。華の最も欲しい答え。けれどそう言われて気がついた。それに伴う責任の大きさに。

「厳しいんですね」

「そう思うかい?」

「はい。自由にしていいと言われてこんなにキツいと思ったのは初めてです」

 遠野師範の顔にゆっくり笑顔が広がった。

「ここに来た時は頭を使うのはやめよう。君の課題だ。いいね?」

「どういう意味ですか?」

「それも自分で考える」

「それって頭を使うってことじゃないですか」

「道場の外で考えればいい。ここでは心に従う。茅原を見てごらん。どう思う?」

 真理恵を見る。あの時と同じだ。きれいだと思う。素直に答えた。

「きれいです」

「なぜだろう」

「……分かりません」

「宿題が多そうだな」

「聞いても何も答えてもらえないなら聞くだけ無駄ってことですか?」

「その答えは君には分かっているように感じるが」

 まるで禅問答だ。

「それも宿題ですか」

「今言った通りだ。君には今の答えは出ている。それを認められるようになることを私は望むよ」

「来るかどうか分からないのに?」

「無駄な質問が増えてきたな。じゃ後は自由に」

 立ち上がると他の者を相手に稽古を始めた。どうしようかと考えた。多分もう見ているだけなのには意味が無いと思う。華は鞄持って立ち上がった。ちょうど相手に一礼をした真理恵と目が合う。帰ろうとする華に笑顔を向ける。そのまま小学生の相手を始めた。



 玄関から真っ直ぐに自分の部屋に入った。あの野太いいろんな言葉が浮かんでくる。気がつくと15分くらい経っていた。

(いいや。また後で考えよう)

面倒くさいとは思わなかった。

 着替えて飲み物を取りに行く。

「帰ってたの?」

「さっきね」

「今日は……鶏肉を使った料理を……」

「何でもいいよ」

「……華、夕食一緒に食べましょう。いろいろ話したいことがあるし」

「また今度ね」

 顔を見なかった。部屋に戻ろうとして立ち止まった。

「名前を書いて欲しいものがあるんだ」

 夢の顔がぱっと輝いた。

「後で……いいよ、夕食一緒に食べる。その時に話すよ」

「……ありがとう」

「そこでお礼、言わないで」

 それだけ言って部屋に帰った。本棚から適当に本を取る。続きを読み始めて、いつもの通りその中にいろいろ書き込み始めた。



「話があるの」

 両親はコーヒーを飲んでいる。自分は冷たいお茶だ。

「その前にいい? 名前を書いて欲しいって言ったのはこれなんだ」

 ポケットに入れていた合気道の申込書だ。

「これは?」

「合気道を習いに行く。親の同意が要るって言われた、だから署名して」

 父はそれを脇に置いた。

「華。話を聞いて欲しい」

「なに?」

「ドイツに行こうと思っている」

「今度はドイツ? 構わないけど」

「華にも一緒に来て欲しいんだ」

「は?」

「今度は長くなりそうなんだ。もしかしたら……永住することになるかもしれない。夢さんはイタリアに行く」

「それって……なに、離婚?」

 さすがに華は驚いた。何があっても別れるような二人じゃない。

「違うよ。私たちは愛し合っているからね。でも会うことは少なくなると思う。でも互いに信じあっているからそれは問題にはならないんだ」

「言っている意味が分からない!」

 華の言葉には怒気が含まれていた。

「で、俺を父さんが引き取るってこと?」

「引き取るとかじゃないよ。母さんの方が移動が多いんだ。だから私の方に……」

「勝手なことばかり言うなよっ! なんだよ、それ。どれだけ好きなようにしてれば気が済むんだよっ。俺を巻き込むな!」

「華。よく話し合ったの。二人で出した結論なのよ」

「そこに俺の意志は無いだろう」

「話を聞いてくれないから……」

「俺のせいかよっ! ふざけるな、何が親だよっ!」

 立ち上がって椅子を蹴り上げた。激しい音を立てて椅子が転がった。二人とも身を竦めている。

「あんたらに世話にはならない。俺はここで一人で住む」

「華、ここは……売りに出すんだ」

 怒りのあまり声が出ない。何度も深呼吸を繰り返した。

「そ。決めたことならいいよ。近くのマンションにでも暮らす。生活費だけ送ってくれればいい」

「華……」

「あんたたちは自由に暮らしてきたろ? これからも自由にすればいい」

 部屋に戻った。

「別々に生活する? 愛し合ってる? 信じあってる? なに、夢物語を言ってるんだよ! 俺のことは放っておけ!!!!」

 怒鳴って机の上の物を全部床に叩き落とした。薄い上着と財布、携帯を掴むと外に出た。


 こんな時に行く場所が無い。考えて駅に行き切符を買った。電車に揺られながらまとまらない頭を放り出す。窓から暗い景色を見つめていた。

 乗り換えをして約2時間。そこで下りて1時間近く歩く。やがて大きな門の前に立った。脇に在るインターホンを押す。しばらくして年配の女性の声がした。

「はい。どちらさまでしょうか」

「華」

 門が開いていく。入って3分ほど歩いた。玄関が開け放ってある。

「まあ、大きくなって!」

「おばあさま、元気そうだね」

「私は元気ですよ。おじいさまもね」

 茶道をやっている祖母は68という年齢を感じさせなかった。

「おじいさまは?」

「いるよ。久しぶりだね。珍しいじゃないか、ここに来るなんて」

 祖父の藤吾とうごが2階から下りてくるところだった。

「どうした?」

「家出」

「そりゃ穏やかじゃないな」

「今度はドイツとイタリアだって」

「そんなことでここには来ないだろう。何があったんだ?」

「別居するから父さんが俺に一緒にドイツで暮らせって。家は売るんだってさ」

 さすがに驚いた顔になる。

「で、お前はドイツに行くのか?」

「まさか」

「じゃどうするんだ」

「マンション借りてそこで一人で暮らす」

「超愛と夢は承知したのか?」

「知らない」

「ふん……唐突な話だったのか?」

「なんか言いたそうな様子だったのを俺が無視してた」


 促されて居間のソファに座る。祖母が冷たいお茶を持ってきた。一息に飲み干す。

「ここに来るとは……言わなかっただろうな。婆さん、連絡してやれ。あの二人のことだ、生きた心地がしてないだろう」

「はい」

 祖母は出て行った。

「生活費が要るな。マンションの保証人も」

「面倒見てくれる?」

「まず二人とその辺を話したらいい」

「話になると思ってんの? 泣いて終わりになりそうな気がする」

「それでも親だ」

「冗談じゃない、あれのどこが親なんだよ」

 祖父がじっと華の目を見つめている。最後には華が溜息を突いた。

「分かった。もう一度話すよ」

「それがいい」

「来てくれる?」

「儂の出るヒマがあるか?」

「クソ爺い! あんたの育て方が悪かったんだろう!? 責任取れよっ!」

「ずい分立派な言葉だね」

 びくともしない声。

「今日はここで寝なさい。朝食は6時だ。着替えが……まあいい。昼頃には用意できる。なんなら自分で買いに行ってもいい」

「そうする」

 祖母が入って来た。

「今夜遅くには来るそうですよ」

「そうか」

「俺は寝てるから」

「起こすよ」

「いやだ」

「それでは話にならん。お前も大人になったらどうだ?」

「それはあの二人に言ってくんない? 14の俺に何を求めてんの?」

「都合のいい時に年を持ち出すな。額面通り14なら親について行け」

 怒りに任せて立ち上がった。

「クソ爺い!!」

「それはもう聞いた」

「寝る!」

「おやすみ」

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