第三話 最初の曲がり角-1

 真理恵はケンカのことには触れず、ただラーメンを堪能した。華の口の横には傷バンが貼られている。

「食べにくい」

「自業自得だね」

「……お前のこと変な風に言うから……」

「珍しい! 華くん、言い訳してる。でも私を使うのやめてほしいな」

「使う?」

「うん。気にしなきゃ良かったし」

 なぜか今日の真理恵は辛辣だ。

「あんなことでキレる必要、無いと思う。違うって私たち分かってるんだし」

「自分たちが分かってりゃいいって言ってんのか?」

「だってあの華くん、『そうです』って言ってるように見えたもん」

 少しさっきのことを振り返る。頭はカッカしてたがひょいと冷静な自分が出てきた。癖になっているため息が漏れた。

「なんでこうなるかな……」

「ストレス溜め過ぎなんだと思うよ」

 最後までラーメンの汁を飲んで真理恵はにこっと笑った。

「美味しかった! ごちそう様。ここ、いいね!」

「ストレスって? 俺そんなもん溜まってないよ」

「出ようよ、今度は私がコーヒー奢ってあげる!」

「お前、金無いって言ったじゃん!」

「そうなんだよねー。だから貸して」

「は? 俺が貸した金で奢るって言ってんの?」

「うん。そしたら返すのにまた会うことになるし」

 黙って千円札を出すとテーブルの上にタン! と置いた。そのまま立ち上がってレジで会計を済ませる。

「ご馳走様でしたぁ」

「また来てね」

「はいっ」

 外に出るとさっさと歩き出す。華は立ち止まったままだ。真理恵が振り返った。

「華くん?」

「俺、帰る」

 近寄って華の手を引っ張って歩き出した。

「おい!」

「今華くんを帰すの、良くないと思う。私あんまり我がまま言わないでしょ? たまには言うこと聞いて」

「我がまま言わないって、金貸したりしただろ」

「あれ、我がままじゃないもん」

「分かった、行くから! 手を離せよ、誰が見てるか分かんないだろっ」

「やっぱり変。そういうの気にしたこと無かったくせに」


 真理恵の言う素敵な喫茶店は駅の向こう側にあった。小さくて周りの食堂やら華屋、パチンコ屋に埋もれているような小さなドアだ。手前にドアを引くと カラン と可愛い音が聞こえた。

「レトロ」

「うん、いいでしょ」

 4人掛けのテーブルが無い。全部2人掛け。そのせいか店の中は静かだ。ちらほらいる客は小さな声で話し、時々笑い声が響く。照明は本を読むのには困らないほどの明るさ。

 別に女性向けに作られているわけでもなく、意外とすっきりとした造りだ。テーブルと椅子は木製。壁は淡いベージュに見えるがそれは照明のせいだろう、多分白だ。

 壁に貼られているのはスキーの大写真だ。ジャンプしているところや滑走しているところ。

「ここのマスターはね、昔ジャンパーだったんだって。競技中転倒して足をダメにしたんだって言ってた」

「いらっしゃいませ。今日は何にします?」

「こんにちは。私はアイスココアお願いします。華くんは?」

「紅茶。えと」

 メニューにはいろんな銘柄が並んでいる。普通の喫茶店にはこんなに種類が無い。

「ウバ」

「はい。少々お待ちください」

「ウバって? 聞いたこと無い」

「俺は一番好きだ。ちょっと苦みがあってミントみたいな香りがする。きれいなんだ、色が。朝はこれを飲むとスッキリする」

「へぇ。そうなんだ」

 両親の影響でこういうところで育ちが分かる。


「で? ストレスって?」

「まさなりさんとゆめさん、ずっと家にいるでしょ」

「なんで知ってんだよ」

「だって電話来るもん」

 目を丸くした。そんなこと一言も聞いていない。第一会話をしない。朝食は一緒に取っている。なぜならそこにいるからだ。朝は慌ただしいから仕方がない。けれど夕食は自分の部屋で食べている。

「華くんはどんな料理が好きか、どんな趣味を持ってるか、外ではどんな風か」

「なんだ、それ?」

 第一料理の好き嫌いならお手伝いさんの静さんがいる。聞けば分かることなのに。

「話をしてくれないからって言ってたよ」

 グッバイしたせいだけじゃない、今は思春期で反抗期真っただ中。でもあの世離れた二人にはそれが分からない。ただ息子の変わりようにおろおろしている。その二人が華には鬱陶しい。

「だいたいなんで家にいるのか分からない。もう2ヶ月も家にいるんだ、そろそろどっか行けばいいのに」

 華の反抗期はすでに小学校の終わりごろから始まっていたのだ、本人が気づかなかっただけで。形となって表れたのがあの入学式だった。

「そういうこと、言うかなぁ」

「今さらなんだよ、俺のことなんか何も知らないのは今始まったことじゃないってのに」

「本当に心配してるんだよ、絵も描けないほど」

「描けない?」

「そうだって言ってた」

「ふうん」

 ちらっと考えたがそれで何かを感じたような顔は見せない。

「俺さ、よく分かんないんだよ。なんで毎日絵ばっかり描いて過ごせんのか。なんで先のこととか考えないのか。あんな家じゃなくて普通の家にいたらきっとまず生活のことを考えると思うんだ。そんなことを誰かに聞いたりしている暇なんか無いはずだよ」

「んーとね、華くんが抵抗持つの、分かんないとは思わないよ。でも一生懸命なのは認めてあげないと」

「そこ。俺が認めてあげないといけないわけ? いい加減親だってことを自覚しろって。でも多分出来ないよ、父さんも母さんも」

 今度は真理恵が目を丸くした。

「ね、ダディとかマムとか言うのやめたの?」

「学生でそんな言葉使うヤツなんかいないよ、みっともない」

「なるほどねぇ。そっか」

 ココアから甘い香りがする。紅茶からは確かにほのかにミントの香り。華は砂糖もミルクも入れない。純粋に味を味わう。

「美味しい?」

「美味いから飲むんだ。毎朝飲んでる」

「うん、こういうところだね。華くんは真っ直ぐなんだ。好きだから飲む。だから飲んだり食べたりするものが好き」

「何を言ってんだよ。当たり前だろ、そんなこと」

「それが当り前じゃないんだなぁ。親が作ったからしょうがないって食べたり、食べなきゃなんない場面じゃ我慢して食べたり。食べてるものが好きとは限らない」

「それって楽しくないじゃん!」

「そこで気づくべきだよ。華くんも充分人と違うってこと」

 がしゃんとカップを皿に置いた。鞄を取って立ち上がる。

「帰る」

「またね」

 それには答えず外に出た。もう日が暮れかかっている。一瞬迷った。あんなことがあった後だ。真理恵を一人で帰らせていいものかどうか。そして歩き出した。


「ご馳走さまでしたぁ」

「また来てね」

「はぁい」

 真理恵の足取りはいつものことだがまるで踊っているように軽い。華の母ならそこにはリズムがあると言うだろう。

 通りは明るいが一歩脇の細い道に入ればもうほの暗い。

 真理恵の家は路地の奥、突き当りを左に曲がったところにある。夕食時。人通りは少なくなっていた。その路地を軽やかに歩いていく。

「見っけ! 宗田のかーのじょっ」

「もう別れたんだ? 送ってやるよ、暗いしな」

「ずっと待ってたの? 私が一人になるの。ひまだなぁ、華くんと同じ」

「あんなのと一緒にすんなっ!」

「一緒に見えるよー。すること無いからなんかどうでもいいことやってる」

 一人が詰め寄った。真理恵の後ろから駆け足が聞こえてきた。

「マリエっ!」

 それと男子が喚いたのは同時だった。

「なにすんだ! いて、やめ、いて!」

 華が到着した時に真理恵に掴みかかった男子は逆に手を掴まれアスファルトに膝を突いていた。

 もう一人が横から来るのを、手を離して体を躱しつつ勢いのついたその手首を掴んだ。ついた勢いのままその男子が前に転がっていく。華の足は止まったままだ。

 3人は華の横を駆け抜けて逃げて行った。

「マリエ、大丈夫か!」

「華くん! え、華くんまで私の後をつけてきたの?」

「ばか! 言っただろ、気をつけろって」

「ありがと。じゃ、家の前まで送って」

「そのつもりだよ」

 少し無言だった。

「今のが合気道っていうヤツか?」

「そうだよ。見たこと無かったの?」

「無い」

「相手の動きを利用するから派手じゃないけどね」

「いや、マリエの動きカッコ良かった。きれいだった」

「ほんと!?」

「俺、やるよ、合気道」

「わぁ! でも私厳しいよ」

「お前? お前が教えんの!?」

「私、小さい子たちの指導やってるんだ」

「俺は小さくない!」

「初心者も教えてるよ」

 また少し無言。真理恵の家の前に着いた。華は中に入ったことが無い。ごく普通の家だ。人の家の中がどうなっているかなんて疑問を持ったことも無い。自分の家の大きさを意識したことも。

 けれど他人は家の大きさである程度の違いを見出すものだ。華にはその辺り、よく分かっていない。


 二人が幼馴染になったのはちょっとしたきっかけだった。

 華が赤ん坊の頃、静子に街の中や公園を散歩させるべきだと諭された。家の中や庭だけではだめなのだと。素直に夢はベビーカーを押して街に出た。

 夢は脇の店から流れてきたメロディに気を取られてベビーカーごと引っ繰り返った。華は泣きはしたが無事。けれど夢は立てない。その時に通り掛かって助けてくれたのが真理恵の母、時恵だった。真理恵は背中に負んぶされていた。

 なぜか全くタイプの違う二人は気が合い、それから互いに公園などで出会ったりどこかですれ違うとお喋りをし、二人の子どもたちはその近くで遊ぶようになっていった。

 海外に行くこ方が多かった夢の代わりに散歩に連れ出す静子も時恵と親しくなり、それ以来華と真理恵はずっと一緒だ。


「ありがと。じゃ、また今度ね」

 家に入ろうとする真理恵に口を開いた。

「マリエ、俺、お前に教えてもらうよ」

「合気道?」

「ああ。やっぱりやりたいと思う。練習の時はお前が先生だ。よろしく!」

「いつからいい?」

「いつでも」

「じゃ、明日。駅の前、カンタロウの前で待ち合せ」

「OK。じゃ」

 真理恵は家に入り、それを見届けて華はターンした。



 カンタロウの前。この界隈では有名なカンタロウというのは、駅のすぐそばの飲み屋の前に置かれたタヌキの置物だ。かなりデカい。誰が名付けたのか知らないが、いつの間にか「カンタロウ」と呼ばれていた。

「お待たせ!」

 何も言わずについてくる華に頓着なく喋り出す。

「どうだった? あの子たち何か言ってきた?」

「ああ」

「ケンカになった? でも新しい傷、無いね」

「無視した、お前がうるさいから」

 ならもう気にすることは無い。

「どうして機嫌悪いの?」

「夕べ、飯を一緒に食べようってうるさくてさ、俺はいつも通り部屋で食べようとしたんだ。そしたら食事は部屋に持って行かせないって」

 あんなに頑強に華の言葉を拒んだのは初めてだった。どうしても一緒に食事をしたいと言う父と母。いやだと言う華。とうとう決裂してしまった。

「好きにすれば。俺、夕飯食うのやめた」

 そのまま部屋に入って鍵を掛けた。

 2時間ほどして飲み物を取りに行こうとして小さな言い争いが聞こえた。思わず足を止めた。母が泣いている。父が何かを言うたびに『いやよ!』と母が言う。

 気にはなった。そんな二人を見たことが無かったから。けれど意地の方が勝ってしまった。

 部屋に入って冷たいお茶を飲む。言い争いの中身が気になった。多分自分のことだ。でも話を聞きに行くのはいやだった。大きな音でシベリウスのフィンランディアをかける。その音の中に浸ったまま華は目を閉じた。

「それ、大変なことなんじゃないの? なんで聞かなかったの?」

 真理恵にしてもそれは事件だ。

「めんどくさかった。どうせすぐいなくなるし。そしたらどっかの国から何か送ってくる生活に戻るだけだよ」

 真理恵も何と言っていいか分からない。

「体、動かそ! きっと華くんの中でも何か変わるよ」

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