第96話 奪還 ~麻乃 1~

 真っ暗闇の中にいた。

 あの瞬間、あたしが鴇汰を刺した。


 マドルの意識を止められなかった……。

 自分の手なのに。

 あんなに深く刺してしまったら、鴇汰はきっと助からないだろう。


 あとからあとから涙がこぼれて止まらない。

 だから覚醒などしたくはなかった――。

 遠くで名前を呼ばれている気がするけれど、誰かがあたしの名前を呼ぶなど、こんなことをした以上は、もうあり得ない。


(あのとき……ロマジェリカで倒れたときに、どうしてマドルの手を取ってしまったのか……)


 暗闇の中で、戦場で岱胡に撃たれ、鴇汰に斬られたのを思い出す。

 あのまま朽ちてしまえばよかったのに……。

 倒れ伏したまま、麻乃は身動きを取ることもできないでいた。


 混乱した戦場が頭に浮かぶ。

 泉翔を止めようと、必死に走る先には、ジャセンベルとロマジェリカの軍勢がみえる。

 麻乃に斬りつけてくる兵は、誰もかれもジャセンベルの兵たちだ。


(みんなじゃあない……? トクさんや巧さんは……? 穂高も梁瀬さんも……修治は……? だって……あのとき確かに……)


『おまえ、マドルに暗示をかけられたんだ。あるはずのない光景を見せられたんだよ』


『麻乃、良く思い出せ。おまえの部隊が初陣のとき、おまえが西浜でなにを見たのかを』


 鴇汰と修治の言葉が蘇ってくる。


『暗示にかけられて、そう見せられたからだろーが!』


 頭の芯が痺れるように痛む。

 たった今、頭に浮かぶ戦場の光景が正しいのだとしたら、本当に暗示に惑わされていたのか。


「そんな……だって……それじゃあ、あたしは取り返しのつかないことを……」


 どんなに泣き叫んでも取り戻せない。

 どうしてマドルの言葉だけを信じ、鴇汰と修治の言葉を信じられなかったのか。


 また、誰かが麻乃を呼んだ。

 重い体を起こし、周囲を見渡す。

 真っ暗な中に薄ぼんやりと、シタラの姿がみえた。


「婆さま……」


「ようやく目が覚めたか?」


 目の前に立つシタラは、いつものように憂いを帯びた目ではなく、温かさを感じるような目だ。

 あんなにも怖いと思っていたのに、今はただ懐かしい。


「いつまでそうして嘆いているのか。こんなところで倒れていては、大切なものを失うばかりになるぞ」


「でも、あたしは取り返しのつかないことを……」


「まだ間に合う。それに……隆紀も麻美も見守っているのだから、もっとしっかりなさい」


「お父さんとお母さんが……?」


 遠くでまた、麻乃を呼ぶ声が聞こえる。

 涙で濡れた頬を拭い、息を整えると、耳を澄ませてその声を手繰った。


『大きくなったなぁ、麻乃』


『本当に。すっかり大人っぽくなっちゃって……癖毛は……隆紀そっくりねぇ』


 二人の笑い声が響く。


『おまえの相手は修治だとばかり思っていたのに、いつの間にか相手が変わっていて驚いたぞ』


『本当に大切な人を、自分でちゃんと見つけたのね』


 もう、十年以上も聞いていないのに、それが父と母の声だとわかる。

 声しか聞こえてこないのは、亡くなって長いせいなのだろうか?


「お父さん……お母さん! でもあたし……あたしは鴇汰を刺して……」


 どれだけ目を凝らしても辺りに二人の姿はないけれど、気配だけは感じ取れた。

 思い返すほどに沸きあがる後悔と不安に、二人に縋りつきたい衝動に駆られる。


『……鴇汰くんは大丈夫だ』


『しっかりしなさい。自分の足で、しっかり立つのよ』


 二人は頑張れといって、麻乃を叱咤する。

 みえないのに、二人の手が麻乃の肩に触れ、立ちあがった背中を押しているのがわかった。

 その手の温かさが、いつかカサネに触れられたときのように胸に沁みる。


『麻乃、左手を伸ばせ! 左手を伸ばしてしっかりつかむんだ!』


『早くしないと鴇汰くんが危ない。助けられるのは麻乃、あんただけよ!』


 麻乃の前に立つシタラに、もう一度、目を向けると、シタラは麻乃の左手を取って袖を捲り上げた。


「痣が消えている……」


 左腕にいつの間にか浮いていた蓮華の印がなくなっていた。

 それに気づいた瞬間、腰の印が熱を帯びて感じる。


「己で選んで手に入れた蓮華の印であろう……? 行きなさい、麻乃。今行かねば、後悔することになるぞ」


 シタラが指さす暗闇の奥に、ほのかに光がみえた。

 父も母も、左手を伸ばしてつかめという。


 ――まだ間に合うなら、助けられるのがあたしだけだというのなら。


「行ってくるよ。頑張ってくる。だから見ていてよ」


 何度も繰り返される『がんばれ』の言葉を背に、麻乃は左手を精一杯に伸ばし、その手に触れたなにかを掴むとシタラの指す光に向かって走った。

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