第86話 物憂い ~麻乃 4~

 麻乃が十六になった年、蓮華の一人が戦死した。

 その年の洗礼で麻乃に蓮華の印が現れた。


 二年前、修治が蓮華の印を受けたときには、それが当たり前に思えたけれど、まさか自分も、とは思ってもみなかった。

 三日月の印を受ける自信はあった。

 そのときは、修治の部隊で一緒に戦うんだと強い思いを抱いていた。


 かつて両親と暮らした家で、一人の夜に鏡であらためて印を見て、その責任の重さに押し潰されそうになった。

 玄関が開き、修治の声が響く。


「麻乃、いるか? お袋がお祝いにうまいもんを作るって張りきってるぞ。おまえに、食いたいものがあるか聞いてこいってよ。なにかあるか?」


 寝室から出てきた麻乃の姿を見ると、修治は笑顔で近づいてきて頭をクシャクシャとなでてくれた。


「やっぱりおまえが蓮華の印だったな。おめでとう」


 黙ったままの麻乃を、修治は怪訝そうに見つめている。


「なんだ? どうした?」


「あたし……荷が重いよ……あたしが蓮華だなんて、なんでこんなことになったんだろう」


 修治の手が肩に触れる。


「震えてるのか?」


 その手にギュッと力がこもり、そのまま修治の腕の中に引き寄せられた。

 数分、抱きしめられていても震えが止まらない。


「駄目だな」


 そう言って修治は体を離すと、そばにあった椅子に麻乃を座らせて言った。


「そんな顔でそんなに震えているんじゃ、お祝いもなにもないだろう? 今日のところは適当にごまかして明日にしてくれるよう、お袋に断ってくる。そこでちょっと待ってろ」


 部屋を出ていき、数十分して戻ってきた修治は、なにも言わずにそのまま調理場へ立ち、うんと濃いコーヒーを淹れてくれた。


「親父とお袋には、蓮華の人たちに祝いだと食事に誘われて、今日は出かけてくるって言ってきた。あとでなにか聞かれたときは、話しを合わせておけよ」


「うん。わかった」


 受け取ったカップがカチャカチャと変に音を立てる。


「まだ震えが止まらないか……おまえもしかして、ビビってるのか?」


「あたし、戦士になるって思いはあったよ。国を守るためなら、この命を懸ける覚悟だってできている。そのつもりで、これまでつらい訓練も耐えてきたんだもん」


 そう言って残ったコーヒーを一口で飲みきった。


「でも蓮華になるってことは、あたしの下に五十人もの命をあずかるでしょ? あたしの判断次第でその人たちの命を亡くすことになったらと思うと、凄く怖いよ。たまらなく怖い」


 焦りと不安を一息ではき出した。

 指先まで冷えきったように体が強ばっている気がする。

 ふっ、と修治がため息をついた。


「俺も最初に自分の受けた印を見たときは、同じことを思った。同じように怖かったよ。けれど受けちまったもんはどうしようもない。それに蓮華にしろ三日月にしろ、印を受けたものたちは、みんなが同じ気持ちでいるんだよ。全員が命を懸ける覚悟でいるんだ」


「それはわかってるよ、みんなが半端な気持ちでないことは……」


「俺たちがやらなければいけないことは、その思いをまとめ上げて、大陸からこの国を守るために戦うことなんだ。それぞれの命の責任は、それぞれにある。だからと言って、俺たちが背負う目に見えない責任は大きくて重いことに変わりはないけどな」


 膝の上で両手を握り締め、なんとか震えを止めようとしても、麻乃の体はまったくいうことを聞いてくれない。

 昔から、自分ではどうにもできない感情の動きに、時々振り回される。

 今もそうだ。

 しっかりしようと思っているのに抑えきれない不安があふれ出して止まらない。


「今の蓮華の連中は、本当にいい人ばかりだ。俺たちは一人じゃない。自分のほかに七人も同じ立場の人がいて、みんなが手助けをしてくれる。防衛戦では二部隊で一組だ。古参の部隊はさすがだぞ。動き一つを取っても、とても敵わないと思うよ。おかげで新人ばかりだった俺の部隊も、いまだに無傷だからな」


 修治は立ちあがって隣に腰をかけると、まだ震える肩を抱いてくれた。


「おまえはこれから顔合わせや部隊の選別、部隊ができれば訓練もしなきゃならない。震えていられるのも泣いていられるのも、今のうちだけだ。俺も三年目に入る。そこそこに動ける部隊になった。おまえを支える自信はあるつもりだ。それでもまだ不安か?」


 初めて自分が震えてるだけでなく泣いてることに気づいた。

 焦って目をこすると、修治が手のひらで頬を包むようにして、その涙を拭ってくれた。

 次の瞬間、修治の唇が軽く麻乃の唇に触れ、麻乃の体が硬直して震えが止まった。


「まったく、おまえは本当に昔から良く泣くやつだな」


 優しげな瞳が麻乃を見つめ、ギュッと抱き締められると、今度はしっかりと唇が重ねられた。

 修治に聞こえてしまうんじゃないかと思うほど鼓動が激しく鳴った。

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