第79話 すれ違い ~麻乃 3~

 静かな病室で横たわっていると、退屈で気持ちがなえる。

 ジッとしていると、余計なことばかりが麻乃の頭に浮かび、落ち着かない。

 痛かろうがつらかろうが、今は体を動かしたかった。


 さっきも戻る戻らないで、麻乃は爺ちゃん先生と一悶着ひともんちゃく起こしたところだ。

 傷が痛むだけなら我慢してしまえばほかの誰にもわからないのに、熱を計られると一目瞭然だからごまかすこともできない。

 思い通りにならなくて暴れ出したいほどのジレンマを感じていた。

 夕暮れどきで薄暗くなった病室のドアを、誰かがノックする。


「麻乃ちゃん、起きてる?」


 その声に思わず麻乃は跳ね起きた。

 ズキンと背中に痛みが走ったけれど、必死にそれをこらえた。


「多香子姉さん、どうしたの?」


 体を起こしてベッドの脇に座るとあわててボサボサになった髪を直した。


「横になっていて構わないのに」


「うん、でもね、横になるとうつぶせてないと駄目だから、話しをするには起きていたほうが楽なんだ」


「そうなの? 怪我したって聞いたから様子を見に来たついでに、ご飯も持ってきたのよ」


 多香子は小さな机の上に、手にした包みを乗せて開き、重箱を出した。

 食欲がない、とは言いにくい雰囲気だ。


「傷、ひどかったみたいね。痛む?」


「ううん。今はもう平気だよ」


 薬が効いているあいだは、と、これも言えない。

 心配をかけたくなくて、麻乃はわざと明るく振る舞ってみせた。


「あら? これは?」


 そう言って多香子が手にした紙袋は、さっき穂高から受け取ったものとは、また別のもののようだ。

 枕もとに置いた荷物がちゃんとあるのを確認して、首をかしげた。


「あれ……? なんだろう? わかんない」


「開けてみるわね」


 紙袋を開け、あら、と多香子が驚いたような声を出した。

 首を伸ばしてその手もとをのぞき込むと、小さめの箱が目に入り、ほんのりオレンジの匂いが漂ってきた。


(――鴇汰だ)


 中身はオレンジケーキ。見なくてもわかる。


「多香子姉さん、それ、持って帰って食べていいよ。それから、これも」


 穂高が差し入れと言っていた袋を差し出した。

 中からいい匂いがしていたことを考えると、多分、弁当だろうと予想はつく。


 今はなにもほしくなかった。

 さっきのことを思い出させるものは、全部この部屋の中からなくしてしまいたい。

 多香子は不思議そうに麻乃を見つめてきた。


「どうして? 麻乃ちゃん、これ、好きでしょう?」


「……ほしくないんだもん」


「持って帰るのは構わないけど、一切れは絶対に食べなさい。これは麻乃ちゃんがいただいたものでしょう?」


「でも……」


「嫌いなものなら仕方ないけれど、そうじゃないんだから、持ってきてくれた人に対して失礼よ」


「うん……」


 そう言われると弱い。

 高田と同様で、多香子も礼儀などにはとても厳しい。


「こっちも食べるもの? 食欲、ないの?」


「あんまり。お弁当、せっかく持ってきてくれたのにごめんなさい。でも、あとで食べるから、これはそのまま置いといてもらっていいかな?」


「いいのよ。じゃあ、いただきもののほうは、持って帰るわね」


 手渡した袋をはしに寄せ、多香子はオレンジケーキを持って部屋を出ていくと、数分して戻ってきた。

 切りわけたケーキを乗せた皿を両手に持ち、一つを麻乃に手渡してきてもう一つは机に置かれた。


「ちょうどね、看護係の女の子たちがいたから、みんなでわけてきたの。これは私たちのぶん。せっかくだからここでいただいていこうと思って」


 多香子また部屋を出ていくと、今度はすぐに戻ってきた。

 その手にはコーヒーを持っている。


「さ、それじゃあいただきましょうか」


 目の前の椅子に腰かけられると食べないわけにもいかない。

 ノロノロと手を動かして、仕方なく口へ運んだ。

 おクマが焼いたケーキよりも、おいしく感じる。

 多香子もしきりに感心しながら食べている。


(まったく、なんだってこんなにおいしいものを作れるんだか――)


「麻乃ちゃん? ちょっと……どうしたの? どこか痛む?」


「えっ?」


 多香子の言葉に、ふと顔をあげた瞬間、手にした皿にパタパタと涙が零れて驚いた。

 泣いたつもりも泣くつもりもなかったのに、なぜかあふれて止まらない。


「傷が痛む? ちょっと待ってて、すぐ先生を呼んでくるから」


 立ちあがった多香子をあわてて止めた。


「違うよ。大丈夫、どこも痛まないから。変だな? 目にゴミが入っただけかも」


「本当に? 我慢してるんじゃないでしょうね?」


「ううん、本当だよ、本当に平気。なんだろうな、これ」


 麻乃はちょっと笑ってみせ、机に皿を置くと、袖口で頬を拭った。

 何度拭っても、どうにも涙が止まらなくて焦る。


 心配そうに麻乃の顔をのぞき込んで、ハンカチで頬をおさえてくれた多香子を見て、不意に思った。

 二十四にもなって、袖口で涙を拭うだらしない自分。

 一方は、ちゃんとハンカチを持ち歩いて、人に差し出せる優しさを持ったしっかりした女性。


 麻乃には到底なれないその姿。

 人として、どうしてこうまでも違うものなのか。

 胸にキュッと締めつけられるような痛みが湧いた。


「ごめんなさい、ハンカチ、汚しちゃったね」


「馬鹿ね、いいのよ、そんなこと」


「ね、もう時間も遅いよ? あたし今、こんなだから送っていけなでしょ、心配だからさ、そろそろ戻って」


 まだ心配そうに見つめている多香子に、大丈夫だからと、精一杯笑ってみせた。

 また様子を見にくるからねと言って出ていく姿を見送ってから、麻乃は布団に潜り込んだ。


 今度こそ、一人きりの静かな部屋の中、いろいろなことを考えた。

 よみがえってくる鴇汰の言葉が、昔から麻乃に向けられる拒絶の反応を思い起こさせ、悲しくなる。

 それに、こんなにも、なにもかもが思い通りにならないのが、苛立ちをつのらせ、押しつぶされそうだ。


 せめて動くことだけでも可能なら、この場から抜け出してしまうこともできるのに――。


 薄暗い感情があふれて止まらない。

 ざわつくような感覚に急かされている気がする。

 一つの思いが頭に浮かび、考えを定める。

 その次の瞬間に思い直しては、また考える。


 そんなことを何度も何度も繰り返し、最後にはためらいながらも決意した。

 それから穂高に手渡された封筒を開け、中身を取り出して資料を読む。

 書かれているのは大事なことだとわかっていても、内容がまるで頭に入ってこない。

 枕もとに放り投げると、そのまま目を閉じた。

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