3章 麗しのクリスティナ(3)

††† 


 誰もいないリビングに、クリスティナはひとり、ソファーに仰向けに寝転んでいた。

 深夜零時。

 ザ・タワー烏山二十九階、専有面積百平方メートルの広すぎるマンション内は静まりかえって、人間の気配が全くない。

 クリスティナは表情を変えることなく、翡翠色の瞳を天井へむけたまま、身動きしない。

 窓の外、地上九十二メートルの夜景が広がっている。

 と――。

 きららかな都市灯りを背景に、鳥が一羽、東側のベランダの手すりに留まった。

 奇妙な鳥だ。羽毛がなく、翼も身体も折り紙で出来ていて、眼窩ががっぽりと空洞になっている。

鳥は室内のクリスティナを確認すると、紙のかたちを解き、地を滑る影に変じた。

 影は東側のサッシ戸の下からリビング内へ侵入し、今度は隆起して人型の影となる。

 クリスティナは仰向けに寝転んだまま、影のほうを見向きもしない。存在に気づいてはいるが、相手にしたくない様子。

「下水流の継承者に勝負を挑んだか」

 影はやがて身長百五十センチほどの少女のかたちに変じ、言葉を紡ぐ。

「上出来じゃぞ、下水流カヲルの精霊を全て奪い、上水流ツカサの血を吸い上げたなら、メスナー家はこののち千年、安泰じゃろうて」

 影は少女の声で、しのび笑う。その言葉に、クリスティナはなにも応えない。

 ふぅっ、と少女型の影はこれみよがしな溜息をつき、

「まだふてくされておるのか」

「……………………」

「おぬしは人間ではない。感情など捨ててしまえ」

「……出て行って」

 クリスティナはひとこと、冷たい言葉を発する。

 少女の影は、無言。ソファーに仰向けのまま、クリスティナはもう一度告げる。

「勝手にひとの家へ入ってこないで。いますぐ、出て行って」

 少女型の影が、低く笑った。

 刹那、クリスティナの背筋が反り返り、虚空に浮き上がる。

「なぜおぬしが儂に命令をしておる」

クリスティナの両腕が背中に回され、ねじり上げられる。

「答えよ。継承者として、友より、恋人より、家族よりも大切なものはなんじゃ?」

 関節が軋む音。クリスティナは表情も変えず、されるがまま空中へ浮かんでいる。やがて背中に回された右手の人差し指の関節ではない箇所が、あり得ない方向へ曲がりはじめた。

 クリスティナは冷静な声で、答える。

「あなたと縁を切ることかしら」

 関節ではない箇所が、ぼきりと折れる。

 クリスティナは唇を噛みしめ、耐える。

この程度の痛み、子どものころから慣れている。小学生のころは耐えることが出来なくて泣きわめいていたが、高校生になったいま、痛みごときに屈してたまるか。

「血を紡ぐことじゃよ。儂もおぬしも、メスナーの血を次代へ運ぶ乗り物に過ぎぬ。乗り物に人格は必要ない」

残った右手の指が全て、関節と逆方向へ反りはじめた。

噛みしめた口の端から、血が伝う。

「おぬしは人間ではなく、血を運ぶ荷馬車じゃ」

中指と親指の第一関節と第二関節が同時にぼきりと折れ、指先が手の甲につく。

 クリスティナは両目をぎゅっと閉じて、影の言葉に耳を貸さない。

「上水流ツカサの血を吸い上げよ。命尽きるまで吸い尽くせば、やつの力が全てメスナー家のものとなる。上水流と下水流から全て奪い取り、メスナーを偉大たらしめよ」

 顔を青ざめさせ、冷たい汗を背筋に伝わせ、クリスティナは冷たく笑う。

「メスナー、メスナー、メスナー。あなたの世界はメスナーでいっぱい」

答えた刹那、右手の薬指が、先端から石臼で挽かれるようにパキパキと細かい音を立てて潰れはじめた。

 クリスティナは目をぎゅっと閉じ、悲鳴を殺す。

 影の眼窩の空洞が鈍く光り、床に接した裾が波打っている。

小指と親指も、先端から潰れていく。クリスティナの指はナメクジみたいに、ありえない湾曲を描いてひん曲がる。

 しかしクリスティナは奥歯を噛みしめ、悲鳴どころか呻きさえあげない。

「おぬしの身体を巡る血が、どれだけの犠牲の果てに紡がれてきたか考えよ。味方だけでない、殺してきた敵の血もまた、おぬしの身のうちに流れておるのじゃ。おぬしひとりの些末な感情が、一千人の犠牲に優る根拠はなんじゃ? 人の心が大事なら、おぬしを生かすため犠牲になった一千の心を顧みよ」

 今度はクリスティナの両足の指が、磨り潰されていく。

 クリスティナは満身の力で、悲鳴を噛み殺す。少女型の影の言葉に耳を貸さず、返すのはただ嘲りだけ。

 こんなのはしょせん肉体の痛み、わたしが耐えてきた痛みに比べれば、刹那的なもの。我慢すれば一瞬で、通り過ぎる。我慢できないのはこんな歪んだバケモノに身も心も屈すること、それだけだ。

 思うさまクリスティナを玩弄し、影はようやく諦めて、深い溜息をついた。

「……全く……。頑固なものじゃ。いったい誰に似たのやら」

クリスティナの身体がソファーに落下し、磨り潰された手足が力なく投げ出される。

クリスティナは胸元を上下させて息をつき、冷たい汗を全身に滴らせるだけで答えない。

「明日、下水流ごときに負けるでないぞ。継承魔法を使って構わぬ、情けも無用、奪えるものは全て奪い取るのじゃ、わかったな」

影はそう告げて床を滑り、ベランダへ出て紙の鳥となり、東京の夜へ羽ばたき消えた。

クリスティナは壊された手足の末端をしどけなく投げ出したまま、ソファーに横たわって動かない。

 五分、十分、十五分――

 ゆっくりと、折れ曲がり、挽き潰されていた手足の指が全て、元のかたちへと戻っていく。

 クリスティナは修復されていく自分の肉体を一瞥もせず、ただ冷たく凍てついた表情を天井へとむけて、身動きもしない。

 いまの自分の境遇を、辛いとも悲しいとも思わない。

 ただ、あらゆるものが疎ましい。

 このまま肉体も魂もここから消えてなくなってしまえば、どんなに楽だろう。

ふぅーー……っと深く息をついて、静寂に心を委ねる。

 音のない部屋で、元に戻っていく骨と肉の再生する音だけが体内に響く。

 どんな傷を受けようが修復してしまうこの肉体は、祖母にとって壊れない玩具に等しい。

 地獄のはじまりはクリスティナの能力が発現した十二歳のとき。

 祖母ゼルマは子どもを八人産み落とし、二十九人の孫を得て、そのうち能力が発現したのはクリスティナのみ。ひひ孫の代まで能力者が産まれないことも珍しくはないから、祖母は自分の目が黒いうちに産まれた「継承者」を喜び、父母を遠くへ追いやって自らが教育者となり、クリスティナを厳しく育てた。 

 楽しかった日々は一瞬で過ぎ去り、メスナー家の継承者として、受け継いだ血をより磨き上げ、次代へ繋ぐための訓練と教育の日々だった。

――絶対負けない。

 心のなかでそう呟いて、クリスティナはソファーから上体を持ち上げた。

 ――こんなのに、負けるものか。

 すっかり治った両手の指をゆっくりと動かし、暗闇を見据える。

 痛みなんて、怖くない。

 怖いのはただ、わたしがわたしでなくなること。

 記憶を全て失って、大切なひとの顔も名前も忘れてしまうことだ

――ねえ、ツカサ。

 ――あなたを忘れたくないの。

 クリスティナは目を閉じて、枕を抱きしめた。

 そして過ぎ去った、遠い日の出来事を思い出す。

 クリスティナがはじめての感情に陥った、あの日のことを……。


†††


 夢を見ていた。

 いや、夢だと断言するのも難しい、曖昧な記憶がぼくの脳裏をかすめていた。

 目が覚め、上半身を突っ込んでいた押し入れから這い出て、寝ぼけ眼をこすりつつ、いましがた見た夢なのか記憶なのか判然としないなにかを思い起こす。

 窓の外はまだ暗い。スマホを見ると午前四時五十分。溜息をついて、もう一度寝るために押し入れに潜って毛布をかぶるが、眠れない。

 仕方なく、いま見たものを脳裏にもう一度、思い描いてみようと試みる。

 が、うまくいかない。

 たしか、クリスティナの夢だったと思う。十二歳くらいのとき、ロウソクの灯りが照らし出すこの部屋で、クリスティナが琥珀色の光に染まっていて、ぼくは……。

 思い出せない。

眠れずに、そのままカヲルが訪ねてくるまで、記憶のもやのなかをさまよった。掴めたのはただ、どこか悲しげな幼いクリスティナの表情だけだった。


朝食を摂って、クソゲーするカヲルを見守り、ふたりで登校した。

 教室のクリスティナはいつものように無機質な表情で、ぼくの前の席に座っていた。

 休み時間もいつもとなにも変わらない様子で読書をし、昼休みになると身体を九十度旋回させてぼくのほうをむき、サンドウィッチを口にした。

「クリスたん、今日もサンドウィッチ⁉ 好き過ぎじゃね⁉ もしおれがそのサンドウィッチだったら、食べる⁉」

 久保がめちゃくちゃな質問を発するが。

「……………………」

 答える素振りもなく、淡々と卵サンドを口へ運ぶ。

 久保は前のめりになり、眼差しに熱い真剣さをたたえて、

「おれ、その卵だから!」

「……………………」

「痛い痛い、やめてやめて、咀嚼しないで痛い痛い!」

 久保は悶絶しながら悲鳴をあげる。設定がめちゃくちゃすぎて誰にも理解できない。

「あ~~、飲まれる~~っ‼ もうダメだ、喉通る~~‼」

「…………毛虫…………」

 あまりにわけのわからない言葉にしびれを切らしたのか、ついにクリスティナが口をひらいた。

「え、なに⁉」

 久保は毛虫が自分のことだとすぐに察し、返事する。すごいなこいつ、Mの天才だ。

「……お願いを聞いてくれるかしら」

「うん、遠慮しないでなんでも言って!」

「……ここから見える風景が寂しいの。わたしが手を振るまで、グラウンドを走ってくれないかしら」

「わかった、行ってくる!」

 久保は弁当の残りを掻き込むと、慌てて教室を飛び出していった。

 ほどなく。

 窓のむこう、久保がグラウンドの真ん中に仁王立ちして「クリスたーーん」と元気よく両手を振ってから、トラックを走りはじめた。

 ぴしゃん。

 クリスティナは音を立てて窓ガラスを閉め、黙って卵サンドを食べ終える。

 しばらくいたたまれない沈黙を堪能し。

「……昨日、カヲルとなにかあった?」

 せっかくふたりになれたので、気になっていたことを尋ねてみる。

 クリスティナは黙ったまま、水筒に口をつける。

「……カヲル、ずっと落ち込んでて。……なにがあったか尋ねても、教えてくれなくて」

 尋ねると、クリスティナは長い髪の毛で横顔を隠し、うつむいた。

 ややあって、その美しい顔立ちをぼくにむけ、

「ツカサ」

「う、うん」

「午後の授業、わたしと一緒にサボらない?」

「…………え?」

 クリスティナは、長い睫毛を伏せる。

 いつもの謎めいた無表情の底に、うっすら、絞り出した勇気の痕跡が透けたような。

 窓から風が吹き込んでくる。

 銀色の髪の毛が柔らかくなびいて、きらきらと光の粒子が散る。

 心臓が、どきどきする。

「…………あ、うん」

 短い言葉を、なんとか絞り出す。

 クリスティナは鞄を席に残したままゆっくりと席を立ち、なにも言わずに教室の外へ出て行く。

 ぼくも弁当箱をスポーツバッグにしまって、クリスティナの背中を追った。

 自分の心音が、聞こえていた。


「なんで、急に?」

 校門を出てすぐのところで、ぼくはクリスティナに追いついた。

 クリスティナはぼくを振り向き、淡々とした表情。

「…………なんとなく」

 それだけ言って、てくてく歩きはじめる。

 優等生のクリスティナがこんなことをするなんて、ぼくにはいまだ信じられない。

 でも、ぼくを誘ってくれたことのうれしさが優る。

「……そう。……そういうとき、クリスにもあるんだ」

 ぼくはクリスティナと並んで歩く。

 すぐ傍らから、百合の花みたいないい匂いが香ってくる。

 平日午後の街並みは、見慣れているはずなのに、なんだかちょっと雰囲気が違う。

「行きたいとことか、あるの?」

 問いかけると、クリスティナはぼくを振り向き、

「ツカサは、ある?」

昔の呼び方で、問いを返す。

 ふたりきりだからか、若干、学校にいるときより言葉が柔らかい。

「いや……特に」

「散歩しましょう」

クリスティナがそれでいいならぼくに異論はない。良い天気で、街路樹の緑葉の狭間、まだら模様の青空がいっそう鮮やかだった

「同じクラスになるの、久しぶりね」

 駅前の商店街を歩きながら、クリスティナは不意にそんなことを言ってきた。

「そうだね。中学三年生のとき以来かな」

「背が、すごく伸びた」

「そうかな。まだきみのほうが高いよ」

 昔から、クリスティナのほうが背が高かった。いまは差がだいぶ縮まったが、それでもまだぼくの目線はクリスティナの鼻あたりだ。

「もうすぐわたしに追いついて、追い越すよ」

クリスティナはそう言って、少しだけ口元を緩めた。

「そうなるといいけど」

 素っ気なく答えながらも、ぼくはクリスティナと普通に会話できることがとてもうれしい。教室にいるときの、他人を寄せ付けないお嬢様言葉が消えて、ここでは普通の女子高生みたいな自然な言葉だった。

「お団子、おいしそう」

 千歳烏山駅を越えた北口の商店街に、小さな団子屋があった。ショーケースには串にささったみたらし団子やごま団子が並んでいる。ひと串七十円とお手頃だし、

「買ってみようか」「うん」

 クリスティナは海苔巻き串団子をふたつ、ぼくはみたらし串団子をふたつ買った。

 ふたり並んで、食べながら歩いた。みたらし団子、甘みのあるタレでおいしい。

 傍ら、クリスティナも歩きながら、もぐもぐ。

「ふふ。おいしい」

クリスティナがちょっと笑って、ぼくはとても幸せな気持ちになる。小学生のころに戻ったみたいに、ぼくのよく知る彼女の微笑み。

「ふたつめ、食べにくくない?」

 クリスティナは串に三つ刺さった団子のひとつめを食べ終えて、そんなことを聞いてくる。

「そうかな。これで良くない?」

 ぼくは串団子を水平に傾けて、ふたつめを歯で抑え、串から抜き取って食べる。

 クリスティナはじぃっとぼくを観察してから、串を横に倒し、ふたつめを歯で抑えるようとするが。

「……みっつめの団子が邪魔」

よくわからない理由で中止すると、串の先端を自分へむけ、そのまままっすぐ腔内へ差し入れてから、口のなかでふたつめを分離しようとする。

 やり方的には間違ってないだろうけど、作業に集中するあまり、クリスティナは寄り目気味になり、だいぶ間抜けな表情だった。

「クリス、顔が変」

素直な感想を口にすると、クリスティナは「ぶふっ」と一瞬吹き出して、ふたつめとみっつめの団子をまとめて抜き取り、しばらくぼくから顔を背けて団子を咀嚼してから、ぼくを振り向く。

「そんなに、変?」

 ぼくはいまのクリスティナのやりかたで団子を口に含み、思い切り寄り目をする。

「ひどい! そんな顔してない!」

 クリスティナは顔を赤くして、ぼくの肩をぽかぽか、両手で叩く。

 照れながら怒るクリスティナが、かわいくて仕方ない。学校にいるときは血の通わない人形なのに、いまここにいる彼女はいたって普通の女子高生だ。

 なんとか一本目の海苔巻き団子を食べ終えたクリスティナに、ぼくは二本目のみたらし団子が入った紙パックを差し出して、

「交換しない? みたらし団子もおいしいよ」

「うん、いいよ」

ぼくらは団子を交換して、歩きながら食べる。

「どっちもおいしい」

「うん。海苔巻き、おいしいね」

「ふたつめ、横にして食べてみる」

 先ほどの寄り目を反省したのか、クリスティナは串を水平に倒してふたつめに挑む。

 みっつめが口の横に当たって邪魔っぽいが、なんとかふたつめだけを抜き取って、もぐもぐしてから、

「出来た」

 誇らしげにぼくを見るが、口の横にみたらしがついてて、ぼくはまた笑ってしまう。

「どうして笑うの?」

「口の横」

 クリスティナはきょとんとしてから、スマホのカメラで口の横のみたらしを確認。

「やっ」

 慌ててハンカチで拭き取ってから、

「いまの忘れて~」

半泣きで笑いながらまたぼくをぽかぽか叩く。

 クリスティナとなにげない言葉を交わすだけで、なんだか心の奥が温かくなって、見慣れた街の風景なのに、すごくわくわくしながら歩いてしまう。

 ずっとこんなふうにクリスティナと散歩できたら、楽しいだろうな。

目的地なんて決めずにぶらぶら、気の向くままクリスティナと一緒に歩いて行く。その自分を想像するだけで、とても幸せな気持ちになる。


ぼくたちはあてどなく歩きながら、とりとめのないことを話した。

 話す内容なんてなんでも良かった。興味なくても、面白くなくても、とにかく思いついたことを口にして、しょうもないことで笑った。

「久保、たぶんまだ走ってるよ」

「……久保って、誰?」

「名前覚えてないの? 一緒に弁当食べてるのに……」

「…………やだ、あの変なひと? どうして走ってるの?」

「いや、きみが命じたから……」

 クリスティナはしばらく虚空を見つめて、記憶をたぐり寄せてから、

「そういえば、冗談でそういうことを言ったかも」

「……興味ないことは、とことん記憶から抜け落ちるんだね……」

「……そういうわけでも。けれど、他に大事なことがたくさんあるから、彼に回せる記憶のリソースが少ないのだと思う」

 ぼくはおそらくまだグラウンドを走っているであろう久保がかわいそうでならない。いまのクリスティナの言葉を聞かせたらきっと悲しみで涙を……いや、泣いて喜ぶのかな。

 気の向くままに歩き、千歳烏山駅前へ戻って、なんとなくつま先をひなた荘のほうへむけて歩いていると、銭湯の近くの公園へ出た。

 サユリが行方不明になった公園だ。ここにはそのほかにもうひとつ、思い出がある。

 クリスティナは園内に入っていって、ぼくを振り向く。

「この公園、覚えてる?」

「……うん。きみは、覚えてる?」

「忘れると思う?」

 悪戯な笑みを浮かべ、クリスティナは腰の後ろに両手を回す。

「七年前くらい?」

「うん。十歳の夏」

そうだった。確か、サユリがいなくなって三ヶ月くらい経った、夏。

 麦わら帽子と白いワンピース、それに蝉の鳴き声が記憶のうちによみがえってくる。


当時、十歳のぼくは時間があればこの公園に来て、またあの不思議な現象が起きないか待っていた。もしもあの赤髪の男が現れたら、今度こそ必ずサユリを取り戻す決意だった。

 ベンチに座って、じぃっと砂場をにらみつけていたぼくの前へ、麦わら帽子に真っ白なワンピースを身につけたクリスティナはいきなり仁王立ちになった。

『あなた、ここで妹を取られた子?』

 腕組みをして、居丈高にふんぞり返るクリスティナを、ぼくは黙って見つめ返すしかなかった。

『口、ないの? わたしの目には、低い鼻の下に不格好な唇が見えるのだけれど』

クリスティナはそう言い放って、口をきりりと引き結び、腕組みをしたまま限界まで背中を反らした。

 危ないひとだ、逃げよう。

 と、いまのぼくなら思うだろうが、当時のぼくはとにかくサユリの手がかりを見つけるのに必死だった。

『きみ、誰?』

『ひとに名前を尋ねる前に、自分から名乗りなさい』

『話しかけてきたのはきみだろ』

『あなた、わたしに命令するつもり? 身の程をわきまえなさい』

ぼくはぽかんと口をあけて、麦わら帽子からこぼれた銀色の髪を見つめた。

 風が吹き抜ける。少女はふんぞり返ったまま、目を閉じて身動きしない。いつまでもこのままの体勢をつづけさせるのも申し訳なくて。

『……神門ツカサ。いなくなった妹を探してる』

結局、ぼくはそう答えた。

ふふん、とクリスティナは鼻で笑い、つん、と横をむいてから、

『銀鏡クリスティナ。わたしの下僕になるなら、あなたに協力してあげてもいいわ』

ぼくの絶句はしばらくつづいた。

 クリスティナは満足げな表情で横をむいたまま、動かない。

 また新しい風が吹き抜けて、クリスティナは憤った顔をぼくへむけた。

『その沈黙は、了承って意味?』

『なんでだよ』

『拒否権はないわ。わたしがそう決めたから。いますぐわたしの下僕になって、妹を取り戻しなさい』

 めちゃくちゃな申し出すぎて、ぼくは思考停止していた。クリスティナは怒気のこもった表情で、再び腕を組んでふんぞり返ると、

『本当に口がないようね。イヤなら三秒以内に拒絶しなさい。三二一! 決まり! さあ今日からあなたはわたしの下僕よ、一緒にアイスを食べなさい!』

 そう言い切って、ぼくの首根っこを掴んで無理矢理立たせ、コンビニへと引きずっていく。

『きみ、なんなの⁉』

『特別にクリスって呼ぶことを許してあげる。今日からあなたの主人よ』

 そうやって、ぼくらは友達(?)になった……。


「思い出したけど、めちゃくちゃだったよね、クリス」

回想を終え、ぼくはいまのクリスティナへ困った笑みをむける。

クリスティナは顔を真っ赤にしてうつむくと、

「あ、あのころは、親戚の影響が強くて……」

恥ずかしそうに、過去の自分の言動を悔いる。やはり本人的にも、痛々しいらしい。

「ぼくは嫌いじゃないよ、あのころのクリス。元気いっぱいで、自信家で……。さんざんひきずり回されたけど、楽しかったし」

素直な気持ちを言葉にした。いまのクリスティナももちろん良いとは思うし、あの性格のまま大人になっても、クリスティナなら許されそうな気もする。

「……周囲にちやほやするひとが多かったから。……わたし自身も増長してた。……六年生のとき、いろいろ変化があって……」

クリスティナはそこで言葉を切って、公園のブランコに腰をかけた。

 言葉のつづきを待ったけれど、なかった。

 ぼくはクリスティナの傍らのブランコに腰を下ろし、ぶらぶら揺れた。

十二歳のクリスティナに起きた変化って、なんだろう。

記憶を探って、不意に――

 琥珀色の光に沈んだ十二歳のクリスティナの悲しい顔が、脳裏に浮かび上がった。

 今朝見た夢。その内容を思い出した。

「あ………………」

あたかも時期を狙っていたかのように、いきなり鮮明に、小学六年生時の出来事が舞い戻ってくる。

 そうだ、あれは、五年前のクリスマスイブ……。


 ツカサの家に行きたい。

 放課後、十二歳のクリスティナは突然そんなことを言い出すと、ほとんど強引にぼくの家に押しかけてきた。

今日はクリスマスイブ。母親はスーパーの仕事に出かけて、帰るのは夜中だ。

 狭い六畳間にぼくとクリスティナはふたりきりで、ゲームはダンス・クリムゾンしかなく、仕方なく交替でプレイしたけどすぐに飽き、やることもなくテレビを見たり、マンガを読んだりしていた。

 外が暗くなって、冷蔵庫には母親が用意していたぼくの夕食と、イチゴショートが一切れあるだけ。おなかが空いたけれど、クリスティナに帰る様子はなかった。

「うち、帰らなくていいの?」

「……今日は、いい」

 ここ最近、クリスティナは明らかに元気がなくなって、暗い表情で沈んでいる。気分屋だからそのうち元の調子に戻るだろうと思っていたけど、日が経つにつれて彼女の表情から生気が失われていく。

「クリス、病気じゃない? 病院行った?」

「……病気じゃ、ない……」

寝転んでマンガを読みながら、クリスティナはぽつりと答える。いつも理不尽なくらい傲慢でぼくを引きずり回して笑っていたクリスティナが、消えてしまっていた。

 ぼくはどうしたらいいかわからず、困った顔をテレビに戻した。

 午後六時。窓の外からクリスマスソングが聞こえてきて、テレビニュースではたくさんのひとでにぎわう渋谷や原宿の様子が映し出されていた。

「お母さん、心配しないの?」

 問いかけても、クリスティナはなにも答えず、マンガから目を離さない。けれどさっきから、ページをめくってない。

「なにがあったの?」

マンガに顔をむけてるだけのクリスティナに問いかけた。

 答えは、ない。

「言わないと、わかんない」

 ぱたん。

 クリスティナはおもむろに本を閉じ、顔を上げた。

「ケーキ買いに行こう」

「…………え」

「おなかすいたし」

クリスティナは立ち上がって、ぼくを誘う。戸惑いながらも、ぼくは彼女の希望通りに近くのケーキ屋へ赴いた。

 クリスマスの飾り付けがされた店内は、コートを着込んだ仕事帰りの大人たちがちらほらいた。小学生はぼくらだけだった。カシミヤのコートを着たクリスティナと、量販店の安売りジャンパーを来たぼくはガラスケース内の高そうなケーキを物色し、

「これください」

 クリスティナが指さしたのは、一万円近くする一番高いケーキだった。ぼくは思わずのけぞって、

「正気?」

「え、変?」

クリスティナはカードで支払い、五人分はありそうな大きなケーキの包みを受け取る。当然、大きすぎて持てないので、ぼくらはふたりで包みを提げて、家まで戻った。

「お母さん、びっくりするよ、こんなケーキ……」

六畳間のちゃぶ台に置いてみると、色とりどりのロウソクの狭間にサンタやらトナカイやらモミの木やらが楽しげにはしゃぐ、明らかにこの空間にふさわしくない豪壮な二段ケーキだった。

こわごわ、上の一段目を装飾品を避けながら包丁で切り分け、小皿に載せた。残っている二段目のケーキのロウソクに火を点けて、部屋の電気を消すと、淡い琥珀色の光にクリスティナが浮き立って、絵本の天使みたいに可愛かった。

 帰りがけに買ったペットボトルの紅茶を添えて、ふたりで食べた。

「おいしいね」

 ちゃぶ台のむこうへ相づちを求めてそう言ったが、クリスティナは食べる様子もなく、むしろケーキが憎いかのような苦しげな表情で、じぃっとサンタの飾りを見つめていた。

「食べないの? 高いのに」

聞いてみるが、相変わらず答えがない。

 琥珀色の光が、クリスティナの苦しそうな表情を包んでいた。彼女の抱え込んでいる悲しみがぼくにも伝わって、なぜか泣きたくなり、もう一度尋ねた。

「なにがあったのか、教えて」

「……………………」

「ぼくがなんとかするから」

 自然、そんな言葉が口をついて出てきた。

 そのとき、ぼくの目には、淡い光に浮かんでいるクリスティナと、悲しそうなサユリの顔が二重映しになっていた。なすすべもなく目の前でサユリを奪われた怒りと悲しみが、ぼくの胸に舞い戻ってくる。クリスティナがもしもサユリみたいな理不尽な目に遭っているのなら、なにができるかわからないけどとにかく、助けたかった。

「ツカサ」

 ようやくクリスティナは、震える声で答えた。

「もう、二度と、一緒に遊ばない」

意味がわからない。

「なんで」

「なんででも」

「………………」

「お願いが、ひとつだけ」

ちゃぶ台のむこう、琥珀色のクリスティナの表情が、くしゃっと歪んだ。

「あたしを嫌いにならないで」

「………………」

暗くてよくわからないけど、クリスティナは泣いていた。

「ツカサに嫌われたくない」

クリスティナがなにを言っているのか、全然わからない。どれだけ考えたって、理解できる話ではないことだけ、わかる。

 だからぼくは考えることをやめた。

 腰を上げて、クリスティナの隣に座った。

 くしゃくしゃの横顔に、涙が伝っているのがロウソクの灯りにはっきり見えた。

 いつも母親が泣いているぼくにするように、ぼくはただ、クリスティナを抱きしめた。

涙と鼻水にまみれた彼女の顔をぼくの胸に押しつけて、小さな彼女の背中へ手を回した。

 なぜそうしたのか、自分でもよくわからない。けれどそうしないと、クリスティナがばらばらにほどけて、二度と元に戻らないような気がした。

「うぅ……。うぅぅ…………」

ぐずりながら、クリスティナは小さな両手をぼくの背中に回してすがりついた。

 温かくて、柔らかで、鼓動と鼓動が同じリズムを奏でていた。

「ずっと、一緒に遊ぼうよ」

泣いているクリスティナへ、そうささやいた。

 クリスティナは相変わらず鼻水をすすり上げながら、

「あたし、ツカサを騙してる」

そんな言葉を、絞り出す。

「騙していいよ」

 この会話に思考が必要ないことを、ぼくは理解していた。考えなんて挟まずに、素直な気持ちだけ言葉にしよう。

「ツカサにひどいことしてるの」

「していいよ、クリスなら」

 それできみが泣かずに済むなら、ぼくは八つ裂きにされて地獄へ堕とされたって構わない。

 ぼくの背中に回っていた手に、ぎゅうっと力がこもった。

「ツカサ。ツカサぁ……」

「なに」

「ツカサぁ…………」

クリスティナは意味もなく、ただぼくの名前を呼んだ。

 意味がわからないし、わからなくていい。ぼくはただクリスティナを抱きしめて、悲しみが溶け落ちることだけをただ願った。

「ツカサ……」

「うん」

「……ロウソクの灯が消えたら、ツカサは今日のことを忘れる」

 突然、ぼくに抱きしめられたまま、クリスティナはそんなことを告げた。

「忘れないよ。なんでそんなこと言うの?」

 戸惑うぼくを見上げてから、クリスティナは背中に回していた手をほどき、そっと身体を離した。

 それから人差し指と中指をそろえ、空間になにかの模様を描いた。

「…………?」

 頼りないロウソクの灯りのもと、クリスティナはハンカチで目元を拭い、鼻を拭い、無理矢理に顔を引き締めた。

「ツカサ」

「うん」

「……………………」

 クリスティナはなにかを言いかけて、やめた。

 沈黙が、つづき。

 ぼくの心が、勝手に言葉を紡いだ。

「ぼく、ずっと、クリスティナのこと大好きだよ」

まっすぐにクリスティナを見てそう言うと、クリスティナは戸惑ったような表情を返し、しばらくもじもじしてから、あわ、と口元を泡立たせ、笑った。

「いきなり、なに言ってるの?」

「あ、うん……」

 ぼくもなぜ突然、そんなことを告げたのかよくわからない。けれど素直な気持ちだし、仕方ない。

クリスティナは右を見て左を見て、着ているワンピースの胸元を引っ張ったりしてから、真っ赤な笑顔を持ち上げた。

「ツカサ……」

「なに?」

「あたしも、ツカサのこと、大好き」

 そう告げられて、ぼくも思わず真っ赤になって、でもクリスティナが久しぶりに笑ったことがうれしくて、笑顔を返した。

「良かった。ぼくたち、ずっと一緒に遊ぼうね」

「うん。ツカサ……」

「なに?」

「ありがと」

クリスティナは、ロウソクの灯を吹き消した。

「あたしは、今日のこと忘れない」

 灯りがかき消えた暗闇のなか、その言葉だけが響いて――ぼくはひとり、闇のただなかへ取り残された……。


 十七才のぼくは呆然と、公園のブランコに座ったまま、いま取り戻したばかりの記憶を反芻していた。

 ぼくの傍ら、成長したクリスティナも黙ったまま、両足を伸ばしてブランコに揺られている。

「え…………?」

呻きが勝手に、ぼくの口から漏れ出る。

「え?」

クリスティナが戸惑ったように、傍らのぼくを振り返る。

 ぼくはいまだ自失したまま、傍らのクリスティナの顔を見て。

「思い……出した……」

ひらいたままの半口から、頼りない言葉をこぼす。

「……なにを?」

「……十二才のとき。……クリスマスイブ。……ぼくはきみと……うちでケーキを食べた」

 告げると、クリスティナの翡翠色の瞳が揺らいだ。

 彼女は目線を前へ戻し、うつむいて、髪の毛で横顔を隠した。

「……ぼくの夢かな」

尋ねると、彼女はうつむいたまま、首を左右に振った。

「……食べたよ。……ケーキ」

「………………」

「……自力で思い出したんだ。……すごいね」

 クリスティナはそんなことを言って、黙り込む。

別に褒められることでもない。というよりも、そんな大事な出来事をいままで忘れていたぼくのほうがよほどおかしい。

 あのとき抱きしめた小さな身体の感触を、ぼくの両手が思い出す。響き合った鼓動も、くしゃくしゃに顔を歪めて泣くクリスティナの表情も、映像として目の前に舞い戻る。

 そして、あのとき感じた愛おしさもまた、ありありと――

「ツカサ」

おもむろに、うつむいたままのクリスティナが口をひらいた。

「スマホの電源、切って」

「え」

「わたしも切るから」

 言ってクリスティナは、ぼくの目の前でスマホの電源を落とした。

 ぼくは戸惑いながらもポケットからスマホを取り出し。

「……切った」

「わたしの家に、行かない?」

少し驚いて、クリスティナの横顔を見る。

「え」

「…………ダメ?」

クリスティナはやや思い詰めた表情で、そんなふうに言ってくる。

 ぼくはしばらく、すぐそこにある美貌を見つめ、

「行っていいなら」

 答えると、ふっ、とクリスティナは表情を緩めた。

「話したいことがあるの」

そう言ってブランコから腰をあげ、

「ツカサにずっと、黙ってたことがあって」

ぼくを振り向いて、寂しそうに笑った。

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