3章 麗しのクリスティナ(2)
†††
いつもならカヲルは修行が終わると、だいたいぼくの部屋でクソゲーしてから銭湯にいくのだが、今日はずいぶん遅い。
時計を見ると、夜十時。修行が終わって一時間以上も経つのに、まだ帰ってこない。
今夜はひとりで銭湯に行ったのかな……と思ったそのとき、とんとん、とノック。
「……お疲れ~……。銭湯行こう……」
ドアをあけると、なんだか疲れ切ったカヲルが、お風呂セットと洗面器を抱えてげっそりしていた。
「……どうしたの? 疲れてない?」
問うと、カヲルは決まり悪そうに上目遣いでぼくを見て、ぎりっ、と悔しげに唇を噛む。
「な、なにその反応」
「…………なんでもない」
カヲルは決まり悪そうに顔を背け、はあっ……と深く溜息をついてから、ぼくへ怒った顔を持ち上げた。
「なんでもないっ‼」
「う、うん」
「銭湯行くぞ‼」
「お、おう」
なにやら意味がわからないけど、ぼくも素直にお風呂セットを用意し、カヲルとふたり、ひなた荘の外階段を降りた。銭湯は夜十一時に閉まるから、毎日わりとぎりぎりだ。
「……大丈夫? なんだか様子が変だけど」
夜道を歩きながら、傍らへ声をかける。
カヲルは毅然と前を向いたまま、さっさと足を前へ送りつつ、
「別にっ。いつもと変わんないしっ」
いつもより強めに、ぼくのほうを見ずに言う。その頬は、まだちょっと赤い。あまり触れて欲しくなさそうだから余計な口をつぐんで、ぼくらは銭湯ののれんをくぐった。
「カヲルちゃん、いらっしゃい!」
番台の親父が、愛想良く声を張り上げる。
「こんばんは! 毎日遅くてごめんなさーい」
カヲルが「きゃぴっ」と擬音が出そうなあざとい笑顔で謝ると、親父は「でろん」と擬音が出そうな緩んだ顔で片手を振る。
「いいよいいよ、カヲルちゃん来るまであけとくから!」
「きゃーうれしい! あ、サウナもお願いしまーす」
通常料金五百円に、三百円を追加するとサウナも入れる。不労所得が年間五百万円入ってくるカヲルは、毎日サウナに入っている。セレブめ。
「ゆっくりしていきな!」
サウナ用の黄色いバスタオルを差し出しながら、目尻を垂れ下げ、親父も愛想を振りまく。
「んじゃ、あとでねー」
女湯ののれんをくぐるカヲルを見送って、ぼくはなんとなく、待合スペースのテレビに目を送った。新宿で大きな事件があったらしく、警察車両が何台も止まって、雑居ビルを封鎖していた。
ぼくは立ち止まってテレビニュースを見た。ビル内で爆発が起こったそうで、負傷者が救急車へ運び込まれている。そういえば最近、日本各地で大勢のひとが巻き込まれる事件が増えているような。
と。
「お、いらっしゃい!」
番頭の親父さんが、またしても声を張り上げた。この親父、客が来てもめったに「いらっしゃい」などと言わないくせに、今日は二度も愛想の良い挨拶を客へ送っている。
なんとなくうしろを振り向いて、
「⁉」
意外すぎる客に、驚愕。
「……あ、あら。……ぐ、偶然ね……」
ガヤ校の制服を着た銀鏡クリスティナが、お風呂セットも持たずに、銭湯の入り口に突っ立っていた。
「た、たまたまお風呂に入ろうとしたら、あなたがいて……」
とても気まずそうに、そんなことを言ってくる。
カヲルにつづいて新たな美少女の登場に、番台の親父のテンションが上がる。
「なんだい嬢ちゃん、はじめてかい⁉ よしわかった、特別サービスでサウナ無料、タオルとバスタオル貸しちゃおう! さあさ、入って入って!」
「……あ、はい。……入ります」
クリスティナは入湯料を払い、サウナ客専用の黄色いバスタオルを借りて、ぼくに目もくれずそそくさと女湯に入っていった。
ぼくは呆然と、幼なじみの背中を見送るしかない。
なぜクリスティナがここにいる?
まさか、ぼくとカヲルを尾行してた? いやいや、そんなことする動機がない。けれどタワーマンションに住むクリスティナが自ら銭湯など入るわけもなく、しかもタイミングが良すぎる。
「なんなの?」
しばらく女湯ののれんを見つめてから、ぼくはおとなしく男湯へ移動した。
カヲルが現れて以来の一ヶ月、不思議な出来事が次々に起きて、ぼくの感覚はだんだん、おかしな出来事に慣れつつある……。
†††
「クリスも銭湯来るんだ⁉ でも湯船大きくて気持ちいいもんねー」
ジェットバスに仰向けに裸身を浸し、下水流カヲルは笑顔を傍らへむけた。
「……え、えぇ。…………時々……気分転換に」
銀鏡クリスティナはぎこちない言葉を紡ぎながら、カヲルの隣に横たわって、噴き上がってくる泡に裸身を委ねる。
閉店間際の女湯に、ほかのお客は少ない。白くけぶった浴場内、あちこち剥げた富士山のタイル画を背景に、ふたりの美少女は仰向けになって、湧き立つお湯に裸身を浸す。
「クリス、スタイルいいよね~。お肌もすべすべ、鏡みたい!」
「……そんなことは。……あなたこそ、まるでロダンの作品のような」
「えー誰、芸人? てかちょっと触っていい?」
「な、なぜ」
「理由はない。触りたいだけ」
「ちょ、や、やめて」
クリスティナは伸びてくるカヲルの魔の手から、両手で身体を抱きかかえて身を守る。
じゃれあってから、ふたりでサウナへ。
アルミニウムの扉をあけて室内へ入る。並んで座ると肩がぶつかるくらいに狭い。室温も高めで、入って一分も経たないうちに額に汗がにじんでくる。カヲルは笑顔で、
「効く~」
「……室温が、少しばかり高いような」
「この容赦なさがいいのよ、東京のお風呂、お湯もサウナも熱くて最高~」
カヲルは手のひらをうちわにして自分をあおぎながら、明るく話しかける。クリスティナもぎこちないながら会話を交わし、五分経過。
世間話が途切れたところで、
「さっき『ウラ』にいたよね?」
カヲルはいきなり、本題を切り出す。
「…………………………」
クリスティナの表情が硬くこわばる。
カヲルは笑顔で、手のひらのうちわを動かしながら、
「あの大きい鎌、フランベルジュ? かっこいいよ、すごいクリスに似合ってる」
「…………………………」
カヲルと身を寄せ合うように座ったまま、クリスティナは表情を変えることなく、視線を虚空へ据え置いて動かない。
「狙いは、上水流家直系の血。あなたの母方、メスナー家と上水流家の血を引く継承者を産み落とすため、あなたはツカサくんに接近してきた」
カヲルはテストの答え合わせをするような気安い調子で、クリスティナの目的を推測する。
クリスティナはなにも言わず、冷たく凍えさせた表情も変えない。
カヲルは微笑んだまま、クリスティナの横顔へ目を送る。
「自分で望んだわけじゃないでしょう? たぶん、あなたの家系の誰かに言われて、小学生のツカサくんに近づいて友達になった。でも中学生になるころには自分のしていることがイヤになって、ツカサくんとも距離を取るようになった」
「…………………………」
「ツカサくんを騙すようなことをしたくない。だけどメスナー家の継承者である以上、稀少な血を絶やすことなく、優秀な血脈と掛け合わせる責任がある。……女の子には辛いよね。ちょっとだけ、わかるつもり」
「…………ねえ、カヲル」
突然クリスティナは全く表情を変えることなく、呟いた。
「うん」
「あなたに勝負を申し込みます」
「………………」
「真剣仕合で」
クリスティナは中指と人差し指を揃え、虚空へ「招待状」を書きつけた。
カヲルの笑顔が、消えた。
「下水流家の継承者がどれほどのものか、興味があるの」
カヲルを見つめる瞳には、高みから下界を見下ろす、貴種特有の冷たさが充ちていた。
「欧州の歴史は謀略と虐殺の歴史。メスナー家は中世期から一千年以上、闘争と殺戮を日常にして生きてきた。異民族との戦いとの戦いに敗れれば、血統が根絶やしになることも当たり前。同じ民族でぬくぬくと争っていた島国の魔法使いとは、血に込められた覚悟が違う」
それだけ言って、クリスティナは腰を浮かせた。
「あの、クリス。たぶん、誤解してる」
クリスティナの背に、カヲルは真面目な口調で訴える。
「わたし、あなたの邪魔をするつもりない。てか、邪魔したいと思ってもできない」
カヲルの言葉を背に受けて、クリスティナはなにも答えずにサウナを出た。
ひとり残されたカヲルは閉ざされたアルミニウムの扉を眉根を寄せて見つめ、「うわー……」と後悔が詰まった溜息をつき、うなだれる。
「まいったなー。抱きしめたとこ見られちゃったかー。失敗したなー……。そういうつもりじゃないんだけど……」
さっき「ウラ」で死にかけのツカサを思わず抱きしめてしまったが、あそこも全部クリスティナに見られていたようだ。おそらくそのことがショックで、クリスティナは思わず銭湯にまで入り込んでしまった。
カヲルとしては、クリスティナと敵対するつもりはない。
ただ同じ魔法使い同士、友達になれればいいと思って、ずっと言いたかったことを彼女に告げた。
それは見事に逆効果となり、全力で仕合するための「招待状」を出されてしまった。
「軽はずみだったなー。その場の思いつきで行動するの、良くないなー。うわー……。どうしよう……」
サウナ室に残されたクリスティナからの「招待状」を見つめて、カヲルは文字通りに頭を抱えた……。
†††
「なんか……あった?」
銭湯を出て、夜道を歩きながら、ぼくは傍らのカヲルに尋ねた。
いつも元気なカヲルが珍しく、明らかにへこんでいた。どうやらクリスティナとなにかあったらしい。てっきりふたりで出てくると思っていたけど、待合スペースで待っていたぼくの前に現れたのはカヲルひとりだけだった。クリスティナは先に帰ったらしい。
「あぁ……。うん。……わたしが悪い」
がっくりと肩を落とし、カヲルはうつむく。
常にへらへら笑っているカヲルがはじめて落ち込んでいる。
「……クリス、ちょっと繊細なとこあるから。……悪気はなかったんでしょ? だったら、明日、学校で謝ればいいよ」
「…………うん。…………ちょっと、謝ったくらいじゃ許してもらえそうにない感じ……」
どうやらぼくが思っている以上にクリスティナは怒っているらしい。このひといったいなにをしたんだ。
「あーー……。……最低。……恥ずかしい。……うー…………」
カヲルはとぼとぼ歩きながら、ぶつぶつそんなことを言う。いつも無駄に明るいぶん、落ち込むときはとことん落ち込むらしい。
「なにがあったかわかんないけど……。明日、ぼく、クリスと話してみようか。なにかの誤解だったら、解けるかもしれないし」
そう提案したところ。
「絶対やめて」
真顔で強めに拒否されて、若干へこんだ。ぼく、そんな頼りにならないかな。
結局カヲルは家まで「うー」とか「あー」とか言いながら歩いて、ぼくのほうを振り向きもせずに「おやすみ~」と言い残し、とぼとぼ202号室へ消えていった。ぼくは心配しながらも、201号室のドアをあけた。
平日の日課は、昼は学校、夜は遅くまで特訓、閉店間際の銭湯に入って、そのあとは疲れ切って寝ている。カヲルは独りで眠ることにまだ慣れないらしく、ぼくと押し入れ通信しながら眠るのが常だった。
いつものようにぼくは敷き布団を押し入れの中に敷き、上半身を押し入れに突っ込むかたちで毛布を肩まで引っ張り上げた。
ほどなく、薄い板越しに、「うー」だの「あー」だの、カヲルの呻きが聞こえてくる。このままだと一晩中、この声を聞かされそうだ。
「だいたいでいいから、なにをしたのか教えて欲しい」
ベニア板のむこうのカヲルに、問いかけてみる。
「あー……。……うーん……。うあ~~…………」
「どんだけやらかしたの? 裸のクリスに興奮して襲いかかったとか?」
なにを聞いても答えないので、そんなわけがないと知りつつ尋ねてみると。
「……うへ~……。いやー…………。あう~~……」
てっきり怒鳴り返してくると思ったが、特に反論もない。ほんとに本気でなにをしでかしたんだ、このひと。
カヲルはなにを尋ねても一切答えることなく、好きなだけ呻いたり手足をじたばた悶絶させたりしてから、ようやく。
「……ツカサくんさあ」
まともな言葉を発した。
「……明日、修行休みね」
「え? ……なんで?」
修行はキツいけど、出来なかったことが出来るようになるのは楽しいから、毎日でもいいのだけれど。
「なんででも。晩ご飯も作れそうにないから、適当に食べてて。……あと、絶対にひとりで『ウラ』に入らないこと。『ウラ』に行くときは、必ずわたしと一緒に。わかってるよね?」
それはこれまで何度も言われてきた。「悪魔」の魔法を食らった場合、「ウラ」での死傷がそのまま「オモテ」に持ち越されるとか。確かにそれは怖すぎるので、ぼくはいまだひとりで「ウラ」へ行ったことはない。
「……うん。……わかってる……」
「……うん。……そういうことで、よろしく…………」
カヲルは消え入りそうな言葉でそう言って、静かになった。どうしていきなり休みなのか気になりつつも、ぼくはそれ以上問いを重ねることなく眠りについた。
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