2章 星の裏側(3)

†††


「仕合終了~」

 ぼくの住む町上空、高度百メートルくらいにふわふわ浮かびながら、公安警部補、征矢原リリカはそう告げた。

「……………………」

その傍ら、繭状の皮膜に包まれ、リリカによって強制的に空中に浮かされたまま、ぼくは言葉が全く出てこない。

 ただ何度も目をしばたいて、眼下に広がる無惨な廃墟と、燃え広がる炎と、崩れ落ちた母校を見やり、自分が宙に浮かんでいることも確認。

 これはバーチャルリアリティだ。

 さっきからそう思おうとしている。だが、それにしては音と匂いと温度がリアルすぎる。足下に広がる火災から立ち上る火の粉は、触れると熱い。煤煙も、吸い込めば喉の奥まで苦みが充ちて、むせる。唾が、すごく苦い。VR効果は視覚と聴覚だけのはずだが、ここでは嗅覚も触覚も味覚もイヤになるくらい機能している。

「降りっか」

「………………」

 リリカの言葉と同時に、降下開始。

 足下の燃える町並が近づいてくる。

 倒壊したビルから噴き上がる粉塵と噴煙、割れた窓ガラスから吹き出る炎、散乱したコンクリート片から突き出た鉄骨、横転して荷物をぶちまけたトラックと、ひん曲がったボンネットから火を吐く自動車、路面に散らばる雑貨、衣類、ひしゃげたシャッターと割れたガラス。

 高度が下がるほど町の様子が細かいところまで目に入るが、その質感は現実そのもの。

 さっき、あの火球から生じた衝撃波が町を破壊する様子を上空から見ていたが、壊れ方に不自然さが全くなかった。飛び散るガラス片、ドミノ式に倒れていく建物、それに伴う鳴動、軋み、内臓が裏返るくらいな爆発音、渦を巻く火柱、町を覆い尽くす煤煙……。いまのVR技術で、あの動き、精密さ、匂い、熱を表現できるのか?

――もしかしてこれ、現実なのでは……?

 そんな予感を抱きつつ、ぼくは変わり果てた路上へ靴底をつけた。

 降り立つと同時に、ぼくの周囲を覆っていた繭状の皮膜が消えた。

 目の前に、倒れた校舎が横たわっていた。転がっているコンクリート片には、ガヤ校の校章があった。どうやら最初の爆心地、ガヤ校の跡地らしい。

 ガヤ校の校舎も、通学路の街路樹も、道沿いにあった住宅地も、視界を遮るものがすっかり消え失せ、夜空が広い。

 その広い夜空から、自分の背よりも長い剣を担いだカヲルが舞い降りてくる。

「……………………」

 普通に空を飛んでいる。いや、ぼくもさっきまで浮いてはいたが。

「やー、強かったよ、さすが東京の魔法使い」

地に降り立ったカヲルはいつものようににこにこしながら、こちらへ歩み寄ってくる。五人もの人間を殺め、ぼくの住む町を壊滅状態にしておきながら、全く罪悪感を抱いていない。

「ツカサくん、感想は?」

「……………………」

 問いかけられるが、ぼくの思考は凍ったまま。

 万が一これが現実だった場合、目の前にいるのは剣で首や胴体を断ち切る殺人鬼であり、街を破壊するテロリストだ。できるだけ早く、ここを逃げねば。

 無反応なぼくを指で示し、カヲルはリリカに問う。

「理解できてる?」

 リリカは紫煙をくゆらせながら、

「できるわけねーだろ」

「そっか。まだ無理か」

「最初はみんなこんなもん。時間経ちゃわかんだろ。それよか精霊、どーする?」

気づいたらカヲルの周囲に、あの五人の魔法使いが出した精霊が全部、集まってきていた。

おぼろな光芒をまとって、緑、赤、黄色、さまざまな色と形状をした精霊たちは、虚空をさまよっている。

 カヲルは黒い炎をまとった蛇型の精霊と、金髪少年が持っていた悪魔型、それから、いまは一メートルほどの大きさに戻った龍の精霊をそれぞれ指さし、自分の近くへ呼び寄せた。

「アーリマン、アスタロス、アースドラゴン……。レアだよね。欲しいなあ……」

 愛おしそうに、彼らを間近から仔細に観察して微笑む。

「ぼくも取ってくれニャ!」

呼ばれなかったネコ型の精霊が、カヲルに抗議の声をあげる。

「あはは、ごめん、もちろんあなたも欲しいよ! ていうかここにいる精霊、みんな自分のものにしたいけど……全員、放流で」

そう告げると、場に残った精霊の一部、表情を出せるものたちが不満そうな色を見せた。

 ネコ型と人型の精霊は、露骨に声に出して文句を告げる。

「なんでそんなことするのニャ! ぼくらそんな雑魚じゃにゃいにゃ!」「んだよ、せっかくおれと組めるってのによ!」

 カヲルは困り顔で、「まあまあ」と人語を話す精霊をなだめ、言い聞かせる。

「取ったり取られたりするから、魔法使い同士の争いが現実世界にまで行っちゃうわけで。そういうの、重いんだよねー。さっきの五人とも現実世界で会ったら、仲良くしたいしさ。だから、ごめん。前の持ち主のところへ帰って」

宣言すると、がくーん……と精霊たちは、落胆を露わにする。

 すぱー、と煙を吐き出し、リリカが告げる。

「お人好しすぎっぜ。果たし状送ってきたのはむこうだ、取られたからって文句は言えねえ、魔法使いなら堂々と奪え」

「うん、正直、すっごい欲しい子いるけど……。でも取っちゃうと、気持ち的にしんどい」

 はっ、とカヲルの返答を鼻息で吹き飛ばし、じろっ、とリリカはぼくを見て、

「王子さまに一体やる、ってのは? 精霊魔法、使えたほうがいいだろ」

「うーん。……でもいまのツカサくんの段階だと、侵食されそう……」

「雨女は? 初心者むけだし、持ち主もそんな執着してねーし」

「雨女かあ……。このレベルなら、侵食もないかな……」

 カヲルは一体、悲しげな表情をした女性型の精霊を呼んで、観察した。和服をまとって、長い髪の毛で顔を隠した体長三十センチほどの精霊は、青白い光芒をまとってがっくりとうなだれたまま宙に浮かんでいる。

カヲルが真顔を、ぼくにむける。

「ツカサくんさ。雨を降らせる力、欲しい?」

欲しいと言われても。

「精霊宿していきなり力が使えるわけじゃないし、しばらく副作用もあるけど、代わりに好きなときに雨が降る。欲しい?」

「……………………」

「お試しで一体、契約しとけ。気に入らねーなら外しゃいい」

リリカがテレビ通販みたいなことを言う。

 ぼくは正直、なんでもいい。

 ていうか、これたぶん、VRだよな。

体感型のゲームなんだろう、きっと。

 そういうことで理解して、質問する。

「ここ、どこ?」

カヲルは、「うええ」と露骨に面倒くさそうな顔をして、

「まだわからないの? 『星の裏側』だよ。長いから『ウラ』って略してる。ていうかきみ、理解遅すぎない?」

「いや、きみの説明が手抜きすぎる」

「めんどいな~。どうしようリリカ」

「デートしてこい。しながら説明すりゃいい」

 リリカの答えにカヲルは溜息を返し、精霊一体ずつへ手印を切り、切られた精霊はふわふわとこの場から流れ去って行く。放流、とか言っていたが、これがそのことなのか。

 ほとんどの精霊が虚空へ消えて、ただ一体、残っていた雨女へカヲルが手印を切ると、雨女はふわふわしながらぼくのほうへやってくる。

「……うん。雨女、ツカサくんを拒否してない。譲渡できるよ、良かったね」

 と言われても、なにが良いのか、そこからわからない。

「……雨女、喜んでる。どうする? 契約する?」

 そんな言われても。

「怖い。意味がわからない。もう少し状況を理解させてほしい」

「まだそこかあ。仕方ないなあ。デート行きますか」

「え?」

「散歩しながら説明するから。あと、わたしが東京見物したい」

そう言って悪戯っぽく笑う。ついさっき、おじさんとおばさんの首を斬り落とし、少年の胴体を両断した少女とは思えない、無垢で可憐な微笑み。

「聞きたいこともあるよね? 散歩しながら話そうよ」

まあ、どうせ歩いて家に帰らねばならない。ぼくのアパート、カヲルがさっき吹っ飛ばしたけど。

「……別に、いいけど」

「わーい。じゃ、手握って」

「……手?」

 カヲルはなんのためらいもなく、ぼくの左手を自分の右手で握った。

「……………………」

「散歩開始~」

カヲルは右手で手印を切った。

 刹那、ぼくとカヲルの足は地面から離れ、浮き上がる。

「…………っ⁉」

「手、放すと落ちるよ」

 五十センチ、一メートル、二メートル……。おのれの背丈を越えて、視界が広がる。

 さっき、リリカに浮かされたときは眼前で繰り広げられる光景がすさまじすぎて、自分が宙に浮いていることさえ忘れて自失していたが、今度はさすがに、飛んでいることに気づかざるを得ない。

「う、わ、わっ」

「怖い? すぐ慣れるよ」

「これ、落ちたら死ぬ」

「死なない。痛いだけ。リリカも行こうよー」

地上に残ったままのリリカを見下ろし、カヲルが誘う。

「まだ仕事あんだよ。気が向いたらあとで合流する~」

「わかったー。雨女、ついてきてねー」

精霊「雨女」はクラゲみたいにふわふわ浮かんで、カヲルのうしろからついてくる。

 カヲルはぐんぐん、夜空を駆け上がっていく。

 耳元に風切りの音。直下、遠ざかる地上を見下ろして、ぼくの足がすくむ。

 ぼくの住む町はあちこちでいまだ炎が上がり、煤煙が立ちこめている。そしてその周辺には金銀の細かな光を振りまく静寂の都市。

 住宅街の真ん中で大爆発が起き、ビルが数十棟も倒壊して電車が吹っ飛び、民家が数百件も火炎を吹き上げているというのに、街路には逃げ惑う人間がひとりも見えない。

「高度三百メートル。キレイだね~」

散歩するように飛行しながら、カヲルは呑気にそんなことを言う。ぼくは生きた心地もしないまま、風景を楽しむ余裕がない。

「これ、現実?」

 いまさらながら、それを問う。

「きみ、ひとの話聞いてる? 厳密にいうと、平行世界での現実」

 カヲルはぼくの手を握ったまま、東の彼方、ひときわ鮮やかな光の溜まりを残ったほうの手で指さす。

「あれが新宿?」

問われてぼくは、顔を上げる。

夜だが、空と都市の境界は明らかだった。銀河みたいに渦巻く光のただなかに、延べ板みたいな高い影が群れ集まって、その中心、光の刺股で天を指す特徴的な影が浮き立っていた。

「だね」

 乾いた喉からその言葉だけ絞り出すと、カヲルはきゅっとぼくの手を握り、

「田舎もんだから、新宿行きたい」

斜めに空を駆け上がり、十キロメートル彼方、光の城塞へむかい飛ぶ。

「速っ!」

甲州街道の上空、カヲルの速度がぐいぐい上がり、ぼくは大変恐ろしい。

 風がまともに顔に当たる。目をあけていられない。

「顔、痛っ!」

「あ、ごめん」

 カヲルが左手で虚空に文字を描き、ぼくの顔の前に指を置いた。

 すると、顔に当たる風が逸れた。かなりの速度で飛行しているが、身体全体、空気抵抗を感じない。

「きみを遮風するの忘れてた、てへっ」

カヲルはぼくを見て、ちろりと舌を出し、詫びる。

あざとい。だけど顔がかわいい。

「もう大丈夫だよね?」

「……うん」

ぼくは平静を取り繕って、カヲルと手を繋いで飛びながら、周囲の夜景へ目を送る。

 まだ恐ろしいことは恐ろしいが、空気抵抗がなくなったのでマシにはなった。

カヲルは右手でぼくの手を掴み、残った左手も水平方向へ伸ばして、鳥のように東へ飛ぶ。

 眼下、甲州街道では車列が静止していた。信号が青なのに、路上の乗用車、バス、大型トラックには動く気配がない。

「車、どうなってるの?」

思わずカヲルに尋ねた。

「無人だから、動けないの」

 説明されても、はいそうですか、と頷けない。

「……これ、VRだよね?」

ぼくに理解できているのは、それだけだ。

「正確には、いにしえの超強い魔法使いが作成した、同期型複製現実。人間を除外して現実世界をコピペした、魔法使い専用のダンスフロアなのだぜ、すごいだろ」

今夜、何度か同じ説明を受けているが、それでもぼくの感覚は目の前に広がる東京の夜景が模造品とは思えない。耳元に鳴る風の音も、銀砂をまとったような高層ビルも、新宿へむかう車列のテールランプも、あまりに現実的でありすぎる。

「ここなら地球を壊すような大魔法を使っても、誰も死なない」

カヲルはそう言って、さらに速度をあげる。

腹の底からすぅっと空気が抜き取られ、地上の灯火が足下を線状に流れすぎる。

 ぼくは思わず、カヲルの手を強めに握る。

「都庁、大きいねー」

カヲルは歓声をあげて、東京都庁舎の上層、天を指す刺股みたいなふたつの塔、その狭間をくぐりぬける。

「こわっ!」

 思わず悲鳴をあげた目線の先、色彩の洪水が広がっている。西新宿のネオンサインをめがけカヲルはぐんぐん高度を落とす。

「きゃー、きれいっ」

西新宿の飲み屋街、高度十メートル、地面すれすれまで一気に高度を落とし、ぼくたちは道の両側に並び立つ居酒屋の狭間を飛びすぎる。

「危なっ!」

「ぶつかっても死なないよ、痛いだけ!」

 カヲルはツバメのように低空飛行しながら、小田急デパートの直前で急旋回し、靖国通り方面へ翼を広げる。

 たくさんの自動車、ダンプ、タクシーが路上でじぃっと静止している。カヲルは路面すれすれを飛びながら、車のなかを指さす。

「誰もいないでしょ?」

 ぼくらが追い抜いていくどの車両も無人だった。わけがわからない。これも全部、魔法使いの力だっていうのか。だとしたらあまりに巨大な力でありすぎる。

 ぼくとカヲルは高度二メートル、地上すれすれを飛ぶ。現実の新宿と遜色のない夜景だが、通行人がひとりもいない。

「たのし~っ」

 歌舞伎町方面に入り、雑居ビルの狭間を縫いながら、カヲルは歓声をあげる。

 なんなんだ、この子。

 なんなんだ、魔法使い。

「ゴジラ!」

前方、ホテルの屋上に鎮座するゴジラの像を指さして、カヲルがぼくを振りむく。

 ぼくはこわばった顔を返すのみ。

 カヲルは顔を天頂へ持ち上げ、トーホーシネマの壁面に沿って垂直に上昇、ゴジラの頭上あたりで空中静止する。

 夜風が舞い上がる。恐ろしいことに、焼き鳥と焼肉と豚骨ラーメンの匂いがする。匂いまで再現するVRって、どんなだ。

「ここ、歌舞伎町でいいんだよね?」

 カヲルの問いかけに、ぼくは息をのんだまま頷くしかない。

 客引きも、通行人も、ホストもヤクザもキッズもいない、ただきらびやかなネオンをたたえた静寂の歌舞伎町が、ぼくの足下に広がっている。

 ビルの壁面を吹き上げてきた風が、ぼくとカヲルの髪を掻き上げる。

 ぼくは黙って、命の気配が全くない新宿の夜景を見下ろしながら、どこまでが夢でどこからが現実なのか、その境目を探しつづける。

「……で、どう? わたしの言ってること、理解できた?」

 空中静止したまま、カヲルがそんなことを聞いてくる。

「……わかったような、わからないような」

「まだそんなこと言ってんの? 覚え悪くない?」

明るい笑顔で、カヲルは遠慮のない言葉を紡ぐ。

「……きみの教え方が悪い」

 とりあえず減らず口を返しておくと、カヲルは呆れたように鼻息を抜き、それからホテルグレイスリーの壁面に沿って高度をさらに上げていく。

「わかんないときは、質問すること」

 先生みたいなことを言いながら、両手を広げ、副都心のビル群をめがけて飛行する。

 ぼくも頭のなかを整理しつつ、

「なんのために、こんなVR作ったの?」

気になっていたことを質問する。話を聞くに、ここは魔法使いが戦うための場所らしいが、それにしては手間がかかりすぎている。

 カヲルはぼくの手を引いたまま、高層ビルより高い位置まで上昇し、怪獣の卵みたいな東京モード学園ビルを眼下へ見下ろす。

「魔法使いは、いろんな相手と戦うことで、強くなれるの」

 そしてトンビみたいに弧を描きながら、副都心上空をゆったりと旋回。

「魔法戦闘も格闘技と同じで、体力、知力、技術を使った細かい駆け引きが大事で。その駆け引きは、相手と戦って学ぶしかない」

いつも路上から見上げていた高層ビル群が、いま、ぼくの遙か足下で小さくなって、ぐるぐる回ってる。

「相手が持つ精霊の種類から、相手がどんな魔法を使うか予測したり。相手の魔法の発動する気配を読み取ったり。相手の結界がどんな種類で、どのくらいの強度で、どこが弱点なのか見極めたり。そういう駆け引きは机の前で学ぶものじゃなくて、戦いのなかで修得するしかない。ここはそのための修行場」

カヲルはゆっくりと言葉を選び、噛んで含めるように伝えてくる。

 ぼくはだんだん飛ぶことに慣れて、この夜景を楽しむ余裕も少しは出てきた。

 カヲルが言っていることも、なんとなくうすぼんやりと、理解できる気はする。

 だから自然と、質問も出てくる。

「強くなる必要性が、わからない」

尋ねると、カヲルは微笑んだ。

「うん、いい質問です」

 先生みたいな台詞を紡いで、カヲルは頭を下へむけ、ぼくを道連れにして高層ビル群の狭間へ急降下。

「…………‼」

 胃の腑が縮む。血液が爪先へ流れ込む。並び立った高層ビル群と、屋上の航空障害灯がみるみるうちに迫ってくる。

「魔法使いがここで修行する理由。それは――」

いったん言葉を切ってから、カヲルはぼくを振り向き、

「『悪魔』と戦うため」

 言ってから頭を持ち上げ、緩い弧を描きながら高層ビルの狭間を縫って飛ぶ。

 全面に反射ガラスを張ったビルに、飛行するぼくとカヲルが映り込む。

 悪魔。

 その一語に、ぼくの記憶が反応する。

 カヲルは言葉をつづける。

「悪魔にもいろいろあって。精霊に乗っ取られた魔法使いとか。精霊が闇堕ちしたのとか。あとは――国に管理されるのを嫌って、行方をくらました魔法使いとか」

カヲルは副都心を抜け、新宿南口、NTTドコモ代々木ビルへ目をむけた。

 中世の時計塔のような偉容は、建築物群のなかでもひときわ目立つ。

「悪魔の存在を許していたら、秩序が維持できない。だから良識のある魔法使いたちは悪魔に負けないために、ここで戦って自分を強化しているの」

南口へむかって飛びながら、カヲルは淡々と言葉を連ねる。

 ぼくは目線を持ち上げ、迫り来る時計塔を見やった。

 いまだ現実とは思えない光景だが。

『「ウラ」で待つ』

赤髪の男が残した謎の言葉が、ぼくの耳元に鳴った。

七年前から、その意味を探しつづけてきた。

 いま、ぼくの眼前にあるものがその答えだというのか。

「……ん? どうかした?」

 カヲルが、ぼくの顔をのぞき込む。

「……少し……わかりはじめたかも」

「ほんと? 良かった。ちょっとあそこで休もうか」

カヲルは微笑んで、トンビのようにゆったりと右斜め方向へ旋回した。

「この建物、かっこいいよね」

 カヲルとぼくはNTTドコモ代々木ビルの頂上、電波塔に降り立って、そこから新宿一帯を見渡した。

 生命が存在しない。

 その一点を除いて、あとは現実世界と全く同じ夜景が東西南北に横たわり、視界の彼方で星空と境界を描いている。

「怖い?」

 隣からカヲルが聞いてくる。通常なら目がくらみ、足がすくむ高さだが。

「……慣れた。……と思う」

 ぼくは自分でも意外なほど落ち着いていた。空中散歩がはじまった当初は驚いたが、いまは感覚が麻痺してしまったのか、地上二百メートルほどの高さを問題なく受け入れている。

「きみが魔法使いである証拠だよ。普通のひとなら、平気じゃいられないはず」

 カヲルはそれだけ言って、夜景へ目を戻した。

 暗がりに沈む新宿御苑の彼方に東京タワー、左手にスカイツリーの明滅、銀河の中心に迷い込んだような、夜の東京。

「いいなー、都会。高千穂なんて山しかなくてさー。夜景最高。ロマンチック~」

脳天気な声でそう言って、カヲルは夜の景観を楽しむ。

ぼくも黙って傍らに突っ立ち、現実と似て非なる「星の裏側」を眺める。

 ここは魔法使いの訓練場であることはさっき聞いた。ということはいまも、この宝石箱をぶちまけたような色彩のなか、人智を超えた力を持つ魔法使いたちが闊歩しているということか。さっきみたいな爆発や竜巻や豪雨がいきなり発生する可能性もあるのか。

 ゴジラが市街地の真ん中で暴れ回るのと同じだ。あんな連中と同じ力が、本当にぼくのなかにあるのだろうか。

 物思いに沈んでいたぼくの視界に、妙なものが映り込んだ。

「……あそこ。……人間がいる……」

NTTビルの真正面、新宿駅南口あたりに、複数の人影があった。

目を凝らして見ると、人影は甲州街道の車列の狭間を歩き抜けていく。

「あー。あれ、魔物だね」

 カヲルはいつもの呑気な口調で、ふざけた単語をさらりと告げる。

「よく見るとわかるけど、翼生えてる」

言われてぼくは目を凝らす。カヲルの言うとおり、人影にしては大きすぎる。この高さにいるぼくには、普通の人影は豆粒くらいにしか見えないはずだが、いま甲州街道を歩き抜けていく複数の影は都バスより身長が高い。

「ガーゴイルの群れ。もうすぐ飛び立ちそう」

「……………………」

 カヲルの言うとおり、巨大な人影が五体ほど宙に浮き上がり、車列の上空を飛びはじめた。その背には、コウモリじみた奇怪な翼がはばたいている。

 五つの影はV字の隊形を組み上げて新宿駅の上空を越え、大久保方面へ飛び去っていった。

「………………」

 今夜はいろいろ驚きすぎて、ぼくは驚くことにもう疲れていた。よく見たなら、いまの以外にも、ビルの屋上や高架上にハゲタカやヤモリやワニに似た巨大な生物たちが居並んで、じぃっと周囲を観察している。

「人間のいないこの世界で、生きてるのは魔法使いと魔物だけ。魔物を倒すと精霊になって、倒した魔法使いは契約を交わせるの」

 カヲルの話を片方の耳で聞きながら、ぼくは新宿を徘徊する異様な生物たちを遠く見やるしかない。現実の新宿がこんなことになったら大パニックだろうが、ここには泣き叫ぶ人間が誰もいない。

「めちゃくちゃだ」

「楽しいでしょ?」

 問われて、ぼくは自分の胸に問うてみる。

 楽しいか、と言われたら。

「……まだよくわからない」

「うーん。まだかね」

「だけど、ちょっと……楽しい気はする」

 それが正直な気持ちでもある。これほど大規模な体感型仮想現実を、どうやって製作して維持して機能させているのか、ぼくの理解は全く及んでいない。だけれど目の前に広がるこの夜景が、ぼくの胸を少しわくわくさせていることも事実ではある。

「おー、良かったね! そう、楽しいとこだよ、ここ。どんだけめちゃくちゃやっても、誰も怒らないし」

 カヲルは脳天気に笑いながら、ぼくの背中をバンバン叩く。 高度二百メートル地点に剥き身の身体を晒しているので、やめてほしい。

「叩くな。怖い」

「落ちても死なないって」

そう言われても、いまぼくを取り巻いている世界はそこらのVRなど比べものにならないほど五感を刺激してくる。カヲルが言うにはここは「平行世界」だそうだから、VRよりもリアリティがあるのは当たり前かもしれないが。

 と、カヲルが虚空の一点を指さした。

「あ、リリカ来た。やっほー」

西の空から、リリカがポケットに両手を突っ込んだまま、くわえタバコで飛行してきた。手を振るカヲルに気づいて、かったるそうに高度を上げつつNTTビルへ接近してくる。

「東京、どうよ?」

ぼくの隣にハイヒールの踵をつけて、リリカはカヲルに問う。

「すごい広いし、キレイ! 超楽しい!」

「そのぶん悪魔もすげーのいっから、気ぃつけろ。王子さまも、慣れたか?」

 このお姉様はなぜかぼくを王子さまと呼ぶ。意味がわからない。

「ぼく、王子さまじゃないです」

「まだそんなこと言ってんのか。さっさと気づけ」

 勝手なことを言ってから、自分の背後へ目線を回す。

「雨女、連れてきたぜ。契約すんならさっさとやんな」

リリカの肩越しに、青白くぼんやり光る雨女が浮かんでいた。白無垢を身にまとってがっくりとうなだれ、猫みたいに胸の前でそろえた両手を折り曲げて、やるせなさそうにふわふわ、ぼくたちの周囲を漂っている。

「ツカサくん、どうする? 雨女を宿せば、国家公認の魔法使い――予備特務員として登録する必要が出てくるけど」

「なにそれ、聞いてない」

 カヲルいわく、ぼくが精霊と契約すれば、公安十三課はそれを感知して、呼び出しの電話をかけてくる。それが来たらぼくは警視庁に赴いて、『予備特務員』として認定を受けねばならない。予備特務員は悪魔と戦うための非正規戦闘員で、格付けに応じた手当がもらえると同時に、強力な悪魔が出現した際には報告、監視、拘束、排除する義務を負う……のだそうだ。

「にしてもほとんど強制的に登録させられる、って酷くない?」

 登録を拒否することもできるそうだが、その場合、毎日のように公安職員が電話してきたり家まで訪ねてきたりするのでとてもウザいらしい。やりくちが受信料と同じだ。

「気持ちはわかるけど魔法使いを野放しにはできないのよ。それだとリリカの仕事が大変なことになっちゃう」

傍ら、すっぱー、と紫煙を吐き出して、リリカはぼやく。

「魔法犯罪は年々増えてるってのに、十三課は人手が足りねえ。魔法使える人間を全員管理しとけば手間省ける。いいからさっさと契約しとけ」

促され、ぼくは雨女へ目を移す。

 正直なところ、こんな得体の知れないものと意味のわからない契約を交わすなど、腰が引けるが。

 さっきからずっと気になっていることを改めて、カヲルに尋ねた。

「……サユリを連れて行った赤髪は、ここにいるの?」

「ウラ」で待つ。あの男は確かにぼくにそう言った。

 あいつがここにいるのなら、サユリも、ここに……?

「わたしに聞かれても」

 ぼくはすがるような目線をリリカにむける。

 リリカはタバコをくわえたまま、

「言える範囲でいいなら、教えてやるよ」

「……はいっ、教えてください……!」

ぷは~……と紫煙を吐き出して、リリカは言った。

「名前は、赫焉。『ウラ』に住んでる悪魔だが、どういうわけか『オモテ』にも出てくる」

赫焉。覚えた。

「已己巳己機関つってな。戦前の特殊部隊の生き残りだ。八十年前にかなりの人数で『ウラ』に潜伏したんだが、時々『オモテ』に出てきて目ぇつけた人間をさらっていく。あんだけ長い期間『ウラ』に住んだら『オモテ』へ戻った瞬間消滅するはずだが連中は平気で出入りしやがる。バケモン中のバケモンに見いだされたのがお前の妹、サユリお姫さまだ」

 リリカの補足に、ぶるっ、とぼくの総身が震えた。

 ぼくが欲しくてたまらなかった情報を、あっさりとリリカは口にした。

 公安は赤髪の情報を掴んでいる。

 已己巳己機関。そいつらと一緒に、サユリはいるのか。

「サユリをさらった理由は?」

 カヲルはリリカへ目を送る。リリカは相変わらずつまらなそうに紫煙を吐き出し、

「……理由はしらね。後継者が欲しかったんだろ。サユリは上水流家直系の継承者だ、味方にしときゃ、あと百年は安泰だろうし」

「……なにが目的で?」

「国家転覆。すげーだろ。もう一回、226やる気だぜ」

 226……百年前ならともかく、現代の日本で同時多発的に政府要人を暗殺するなど不可能だ。それに、万が一出来たとして、そのあとどうする? クーデターで出来上がった政府など誰もついていかないし、国際社会も認めない。 

「理解できねえだろ? 百年前の理想を追い続けてる亡霊だ、理解しようと思うな」

 あぁ、全く理解できない。

 だが、そんな狂信者集団にサユリが捕まっている事実が耐えがたい。

「サユリを助け出すには、どうすれば?」

「あいつら見つけて、奪い返せ」

「………………」

「言ったとおり、公安は已己巳己だけに構うわけにいかねえ。いまんとこ連中に大きな動きはねえし、組織的な『悪魔』は他にもいる、妹を助けたいなら他人に頼るな、自分でやれ」

 冷たく突き放し、リリカはまたタバコをふかす。

 ぼくはいまだ、今夜目の前で起きた出来事の全てを理解出来ていない。覚えが悪い、とカヲルはバカにするが、こんなの普通の人間が即座に理解できる範疇を超えている。

 だけど。

「雨女と契約すれば、ぼくも魔法使いになれる?」

「まあだいたいそういう理解でもOK」

 七年間も探しつづけて、今日ようやくサユリへの手がかりに辿り着いた。そのことだけは、ぼくにでも理解できる。

 それならぼくは、足を前に進めるだけだ。

「わかった。雨女と契約する」

告げると、カヲルはにっこり微笑んだ。

「オッケー。ほんとは本人が自力で契約するんだけど、今回はわたしが代理で」

カヲルはそう言って、例によって人差し指と中指をそろえ、虚空になにやら文字を描いた。

 すると雨女が、すーっ、とぼくに寄ってきて、心臓のあたりにぶつかり、そのままぼくの体内へ潜っていく。

「え、え、うわっ」

ぼくはだいぶ混乱する。特に体内への異物感はないのだが、おぼろに光る物体が自分の体内へ浸透していくのは気持ち悪い。

「受け入れて。肉体に溶けてるわけじゃなくて、意識の深層に入ってるだけ」

 カヲルのアドバイスが、遠く響く。

「ビビんな。体内で飼ってるペットだと思え」

リリカのアドバイスが余計気持ち悪い。精霊というより寄生虫では。

そのうち雨女のすがたは完全にぼくの体内へ埋まって、消える。

 ぼくは自分の心臓あたりを両手で抑えて、目をしばたく。

 違和感は、ない。いまのところ。雨女は体内で跳ね踊ったり、内臓を食い破ったりすることもなく、ただ視界から消え失せた。

「おめでとー。最初の精霊だね。完全に雨女の力を解放できるようになれば、さっきのおじさんみたいに、ゲリラ豪雨も操れるよ」

 そういえばさっき、いきなりものすごい雨が降って視界が完全に閉ざされたが、あれが雨女の仕業らしい。ていうか、あのくらいの雨を自在に降らせることができるなら。

「……商売に使えそうな」

 例えば、農家相手とか。

「現実世界で魔法を悪用すれば、公安が黙ってねえ。細けーとこなら見逃すが、ほどほどにしとけ」

ぼくの思考に気づいたのか、リリカが脅しをかけてくる。ぼくは片手を上げ、

「警部補、質問」

「美しいお姉さまと呼べ」

「美しいお姉さま、質問よろしいでしょうか?」

「うるせえ、やめろ」

 美しいお姉さま、身勝手すぎる。あと「る」の発音が巻き舌なの怖い。

「商売で魔法使ったら、逮捕されたりするんですか?」

 リリカはタバコを指先で弾き、靴の底でもみ消す。警部補、意識低すぎ。

「やりてーなら予備特務員登録してから十三課に届け出ろ。公共の福祉を増進する内容であれば、通る場合もある。だが原則、魔法を使った営利活動は禁止だ。理由は、真面目にやってる一般人が働く意志を失うため」

「………………」

「遠隔視が使える魔法使いは司法試験も国家Ⅰ種も勉強せずに合格する。念動が使える魔法使いは野球やったら全打席ホームラン、透視できる魔法使いはポーカーで億万長者。……そんなの許せば社会を維持できねえ。よって魔法を使った営利的行為は全部公安が管理する。全権を持つコム班は格付けSSSの魔法使い集団だ、魔法が発動した瞬間に探知すっから、バカな考えは持たねーこった」

 うむむ、とぼくは曖昧な返事を鼻からこぼす。世の中知らないことだらけだと知ってはいたけど、今夜の出来事は知る以前に、実見したいまでもまだ信じられない奇妙さだ。

 とりあえず、わかることはひとつ。もうすでにぼくの脳味噌は許容量を遙かに越える情報を詰め込まれて、機能不全に陥っている。

 リリカがあくびしながら伸びをして、

「ふぁーあ。眠ぃ。王子さまも限界だろうし、おひらきにしようぜ」

 長いまつげの下、妖艶な朱色の瞳がぼくを映す。

 このお姉さま、口は悪いが黙って突っ立っていれば美人だし、伸びをしただけではだけたシャツの谷間が揺れて、ぼくのような青少年は目のやり場に困る。そしておそらく、めちゃくちゃ強い。まだ実力を見ていないが、近くにいるだけでぼくの直感がさっきから「この美しいお姉様だけは絶対に怒らせるな」と警鐘を鳴らしている。

「うん、ありがとリリカ、また遊ぼうね」

「遊んでねーし。ま、元気そうでなにより」

「できたら近いうち、ふたりで話したい」

「はっ。あいつのことか。あんたが期待する話は、ない」

「……わかってる。でもちょっとでも、手がかりあるなら」

「なんもねーよ。居場所がわかれば、とっ捕まえてる」

 なにやらふたりだけで通じる言葉を交わしてから、リリカはぼくへ顔を上げた。

「んじゃな、王子さま。これから大変だろうが、困ったらカヲルに泣きつけ」

 リリカはそう言って、来たときと同じようにポケットに両手を突っ込んで、くわえタバコのまま夜空へ足を踏み出した。そして直立したままでツバメみたいに高度二百メートルを滑り抜け、ネオンの彼方へ消えていく。

「さて、『星の裏側』は体験したし、はじめての精霊もゲットしたし。頭のなか、パンク寸前でしょ? 今日はもう帰ろうか」

 カヲルがぼくを振り向いて、手を握る。

 されるがまま、空中へ足を踏み出したカヲルと一緒にぼくはまた空を飛ぶ。

「ここからでも元の世界へ帰れなくはないけど、入ってきたゲートまで戻るのが一番エネルギー消費が少ないの」

 カヲルは飛行速度をあげる。ぼくはカヲルと手を繋いだまま、遙か眼下を流れ去る新宿を眺める。

 さすがに最初より慣れはしたが、それでも足下を流れ去っていく星の海みたいな夜景は見飽きることがない。もしも現実世界でこんなふうにふたりで空を飛べば、たちまち動画で晒され世界中で有名人になるだろう。

 カヲルは新宿から西へむかい、甲州街道の直上を飛びはじめた。停止したまま動かない自動車や大型トラックを見下ろしながら、尋ねた。

「現実の世界でも、こんなふうに飛べる?」

「飛べるよ。ここで出来ることは『オモテ』でもできる。ただし、公安クラスの魔法使いは魔法が発動した瞬間に探知できるから、すぐ捕まって、ひどい罰を受けます」

「罰ってどんな」

「うーん。いまはまだ知らなくていいよ。目下、きみの仕事は魔法を使いこなせるようになることだから。現実世界で魔法を使うのは基本的に御法度、ってことだけ覚えておいて」

 やや釈然としないまま、ぼくは顔を上げて、気づく。

 ぼくたちの行く手が、橙色の明滅を帯びていた。

 先ほどの戦闘による火災が収まっていない。消火するものがいないため、延焼が大変なことになっている。千歳烏山駅から上祖師谷方面にかけて濃い煤煙がたなびき、地上は漆黒と橙の斑模様だ。

「アパート、どのへんだっけ?」

「…………もうちょいあっち。……でも、跡形も残ってないよね、きっと」

 あの五人の魔法使いによる大爆発は、確実にぼくのアパートを吹き飛ばしただろう。ここは無人の平行世界だから大家のおばあちゃんの身を案じる心配はないが、しかしそれにしても、火災の様子が本物に遜色なく、熱く、焦げ臭く、煙を浴びると目が痛いし、喉の奥がイガイガする。

「まあ、建物なくてもゲートに近ければ問題ないから。このへん……だよね」

 カヲルはゆっくりと、ひなた荘の跡地へと靴底をつける。

 地面が瓦礫に埋まっており、ブロック塀は倒れ、散乱するコンクリート片の狭間、崩れ落ちた家屋が鉄骨の梁を突き出し、剥き出しになった屋内ではソファーやカーテンやテーブルがまだ燃えていた。

 カヲルは惨状など全く意に介さず、ぼくの前で中指と人差し指をそろえて立て、空間へ走らせる。

 朱色の粒子がぼくらの周囲を包み込み――

赤い霧が晴れると、ぼくらはふたり、ひなた荘203号室のトイレにいた。

「ただいまー」

 ぼくらは荷物もなにもない、がらんとした六畳間へ戻った。スマホの時計を見ると、午後十時三十分。

「『ウラ』の時間経過も、現実の時間経過と同じなの。トイレに入ったのは午後八時くらいだったから、約二時間三十分、『ウラ』にいたわけね」

 言いながら、カヲルはぼくと共に部屋を出て、外廊下へ。

「ね? なんともないでしょ?」

 カヲルはぼくを張り出し階段まで導いて、周辺の様子を手の先で示す。

 いつもの見慣れた光景だった。植木鉢が並んだ中庭、密集して立ち並ぶ民家、向かいの家のベージュ色の壁、建物に切り取られた空、電信柱と電線と放置自転車。火災も瓦礫も剥き出しの梁も、どこにもない。

「はーあ。疲れた。今日は忙しかったし、解散ってことで」

「……うん」

「銭湯、まだあいてる?」

「あいてる。夜十一時が締め切り」

「だったね、急がないと。一緒に行く?」

「いや、ぼくはいいよ」

オッケー、と答えて、カヲルは自分の部屋のドアへ鍵を差す。

「じゃ、明日の朝、また」

微笑んで、ぼくへ手を振り、さっさと自室へ戻っていく。

「……………………」

 まだ頭がよく機能しないながら、ともかく鍵を差し、ぼくも我が家へ戻った。


濡れタオルで身体を拭いて、流し台で髪を洗ってから布団にくるまったが、胸の奥がざわざわして眠れない。

 現在時刻、午前零時三十分。いつもならとっくに寝ている時間だが。

 今日一日、いろいろあったから神経が昂ぶっているんだろう……と思って気にしないようにしているが、夜が更けるほど身体の内側がざわつく。

 何度目かの寝返りを打ったとき、耳元で声がした。

『……もし………………』

なんだ? 

『…………もし…………もし…………』

 女性の声が耳の奥にはっきりと届き、ぼくは跳ね起きた。

 周りを見回すが、なにもいない。しかし、意識の内壁をまさぐられているような不快感。

 なんだこれ……と考えて、思い出した。

 ――雨女。

 はじめて宿したぼくの精霊。最初のうちは副作用がある、とか言っていたが、もしかしてこれがそうなのか。

 自分の内側に、自分以外の誰かが存在している。正直、不気味すぎる。救いを求めて、押し入れを見やる。

「………………」

 このアパートの構造上、隣の部屋とは押し入れが互い違いに嵌め込まれ、ぼくの押し入れのむかって右側面のベニア板は、カヲルの押し入れのベニア板でもある。

厚みが5ミリもない、あの薄いベニア板のむこうでカヲルが眠っている。

 昨夜、入居したてのカヲルはこの事実に気づき、押し入れに潜り込んで直接ぼくに話しかけてきた。

『押し入れ通信と名付けよう』

 カヲルの言葉が、ぼくの耳に舞い戻る。

 ぼくは日中、押し入れの下段に布団をしまっているので、いま、その空間はひらいている。

 ややためらったが、しかし、いま頼りになるのは……。

 ぼくは押し入れ下段に頭を突っ込み、隣の部屋へ呼びかける。

「……カヲル。起きてる?」

 返事はない。

 こんな時間だ、もう眠っているだろう。

 だが、胸の奥の雨女が耳元になにかささやきかけてくる。情けないが、しかし夜中にひとりでこれに耐えるのはなかなかの勇気が必要だ。おとなしくさせる方法はないのか。

「……カヲル……。身体のなかから、変な声が聞こえる……」

 呼んでみるが、返事はない。

我ながら臆病だとは思うが、しかし、いまぼくが経験しているこれは生涯で最高の気持ち悪さだ。このままではぼくの意識が雨女に乗っ取られてしまうのではないか。

 ぼくは焦って、敷いたままの布団を押し入れへ引き入れ、頭を押し入れに突っ込んで、足は六畳間に投げ出し、横になる。このほうが、頼みのカヲルに近い。

 しかし、雨女の呼ぶ声がだんだん強くなってくる。

『もし……ご主人……ツカサ様……。上水流、ツカサさま……』

 雨女はなぜか父方の姓でぼくの名を呼ぶ。いくらなんでも、怖すぎる。

「……おーい、カヲルー。起きてー……」

 大声を出すのもなんなので、小声で助けを求めるが、反応なし。

「なんだこれ、無理……」

 愚痴をこぼした、そのとき。

『きみ、もしかして押し入れ入ってる?』

至近距離から声が返り、ぼくは横たわったまま思わずのけぞる。

「どしたん、こんな夜中に」

 問いかけるカヲルの声が、非常に近い。

 ようやく欲しかった返事が届き、ぼくはひとまず胸を撫で下ろす。

「いや、ごめん、でも、なんか変な現象起きて……」

『ガサガサ音するから目覚めた。ゴキブリかと思ったら、きみかい』

 厚さ5ミリのベニア板越しの会話は、相手のすがたが見えないだけで、直接会話するのとほぼ変わらない。

 いや、ていうか、声の距離から言って、普通に話すよりもっと近い。

「ごめん、だけど胸の奥から、変な声がずっと話しかけてきて……」

『…………あー。雨女だね。最初はみんなそうだよ。無視しとけば黙るから、ほっといて』

「雑すぎ。対処法ないの?」

『ない。寝るだけ。雨女も引っ越したばっかではしゃいでるの。個人差あるけどだいたい三、四日で収まるから』

三、四日もこんなのに耐えるのか。すごくイヤだ。

「そう……でも、それにしても、気になりすぎる……」

『ひたすら我慢。馴染めば好きなとき雨降らせられるし。ていうか押し入れ通信、ちょっと楽しいね。もしかして布団ごと押し入れ入ってる?』

「…………うん。ちょっと、眠れそうになくて……」

『まあ最初はね……。仕方ない、師匠が付き合ってあげよう』

隣の押し入れからガサゴサ、音と振動が伝う。

 ややあって。

『わたしも布団、こっちにいれたよ。寝ながら話そう』

カヲルもどうやら、自分の布団を押し入れのなかへ敷いて、上半身だけ押し入れに突っ込んで寝るつもりらしい。端から見たなら珍妙な寝姿だろうが、見るものもいないし。

「……申し訳ない」

『いいよ。わたしも最初の精霊と契約したときは眠れなかったし。小さかったから、お母さんに抱っこしてもらった』

カヲルはそう言って、はーー……っとひとつ、溜息をつく。

 一方のぼくは、声の距離の近さにどぎまぎしている。ベニア板越しの会話だから相手のすがたは見えないが、しかし顔の位置はおそらく三十センチも離れていないため、お互い、ささやき声になる。

 かすかな吐息、わずかな衣擦れも全て、こちらに届く。

 夜風が部屋へ吹き込んで、風鈴が鳴った。

 静寂が、深くなる。

 なんだかとても、ドキドキする。この鼓動まで、相手に聞かれてしまいそうな。

『声、近いね』

カヲルのささやきが、耳元に鳴る。

「……近いね」

『スマホで話すのと、ちょっと違うね』

「……違うね」

 ぼくはなんだか、最低限の返答しかできない。なんというか、深夜のささやき声は、そこはかとなく、大人の匂いがする。

 でもなにを話せばいいのやら……と考えたところで、カヲルから提案。

『せっかくだから、質問タイムにしようか。まだよくわかんないとこ、ある?』

 わからないところ。

 そう尋ねられると、自分でもどこまで理解していて、どこからよくわかっていないのか、判断がつきかねる。今夜の出来事を振り返ってみても、いまだ夢のようにも思えてくるし。 

 少し考えてから、はっきりさせておきたいところを、カヲルに尋ねた。

「……正直、魔法のことはよくわからない。いきなり魔法使いだなんて言われても、戸惑いのほうが大きいし」

『きみもなかなか、頭堅いね』

「でも……サユリを連れ去った赤髪は確かに、魔法としかいえない力を持ってた。今夜、きみが見せてくれた力も、ぼくの常識にはなかったものだ。それに、胸の奥に雨女も住み着いてしまってるし……」

『そろそろ認めようよ~。魔法は存在します。実際、きみだってそれを使ったわけだし』

「そうらしいけど。それでも、やっぱり、普通に生きてきたぼくにとって、すぐに受け入れられないくらいにとんでもない話で。…………だから……いきなりじゃなくて、ゆっくり、魔法ってものを理解していけばいいのかな、と思ってる。本当にぼくにそんな力が使えるなら、その力でサユリを取り戻したいし」

 ぼくは素直な気持ちを言葉にした。押し入れのなかは真っ暗で、ベニアの仕切りも肉眼では視認できない。自分の指先も見えない暗黒のなか、ただカヲルのささやきだけが聞こえてくる。

『……うん、それが一番いいのかな。いきなり全部理解しろ、ってのも無理あるし。そうだね、わたしと一緒に生活してれば、きみも認めるしかなくなるし』

 カヲルはやや呆れたようにそう言って、衣擦れの音を立てる。

『……眠い。……雨女、まだなんか言ってる?』

「ん……。いまんとこ、聞こえない。……会話してると、気にならないのかな」

『……そうかね。……どっちかが寝るまで、話そうか。魔法のことでも、学校のことでも、なんでもいいからさ』

「……うん。……助かる。ぼくは魔法のこと聞くから、こっちの生活でわかんないことあったらなんでも聞いて」

『ZZZ……』

「……寝るし……」

『冗談でーす。おしゃべりする~。で、ツカサくんは好きな子いるの?』

 いきなりそんな話を振られ、暗闇のなか、ぼくは横になったままうなだれる。

「……いないよ。そんなの、興味ないし」

 修学旅行じゃないんだから。でもまあ夜中だし、ふたりだし、いまの雰囲気はそういう感じかもしれないが。でも恋愛の話なんて、ぼくしたことないし。

『クリスとどういう関係? お弁当のとき、ツカサくんを見つめてたよね、彼女』

 どうしてもカヲルはそれが気になるらしい。ぼくは溜息をひとつ挟んで、

「……小学生のときは仲良かったけど。中学くらいから全然、話さなくなった。いまではたまーに、少し話すくらい」

『ほ~。へ~。ふ~ん』

 カヲルの返事は、明らかにニヤニヤ笑いながら発せられていた。なにやら誤解があるようだから、解かねば。

「……あのね。クリスは高慢で冷血で無愛想で友達がひとりもいないけど、それでも学校の男子人気ナンバーワンなの。顔とスタイル見ればわかるだろ。ぼくはチビだし、うまいこというわけじゃないけど、身の丈をわきまえてる」

 ひといきに告げると、カヲルは「あはは」と声に出して笑い、

『身の丈っていったら、きみはとんでもない丈だけど。学校レベルじゃなく、国家レベルで』

 相変わらず、カヲルの話はスケールが無駄に大きくて意味がわからない。

「なに言ってんの、頭大丈夫? ……とにかく! ぼくとクリスはなんの関係もない。学校で余計な詮索いれるなよ、恥かくのぼくだから。それより、魔法の話しよう。ぼく、わかんないことたくさんあるし……」

 ぼくは強引にクリスティナの話を打ち切り、魔法の話題へと転換した。カヲルは不満そうだったが、「ウラ」のことや精霊のことなど尋ねると、面倒くさそうにしながらも一応、ぼくが理解できるまで説明してくれた。


 その夜、どちらが先に寝たのか、覚えていない。気がついたら窓の外が明るくなっていて、上体を起こしたぼくは押し入れの仕切りに頭をぶつけて悶絶した。カヲルは朝早くにぼくの部屋で朝食を作り、クソゲーして、一緒に登校した。

 ぼくはだんだん、カヲルとの奇妙な共同生活になじんでいった……。


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