1章 隣の魔法少女(8)
カヲルと一緒にアパートを目指して歩きながら、過去の出来事を振り返って、改めて胸の奥がうずく。
「……サユリがさらわれたとき、赤髪の男と老人の幻覚を見た。あれは誰?」
カヲルは困ったように肩をすくめ、
「わたしも詳しいことは聞いてない。この界隈の偉いひとたちって、すごい秘密主義でさ。後ろめたいこといっぱいやってるっぽいから、聞いても教えてくれなくて」
そう言って、唇をもにょっと曲げて、鼻息をついた。
「ぼくにできることはなんでもする。サユリを取り戻すには、どうしたらいい?」
「今夜、教えてあげる」
裏路地に入るとすぐに、ひなた荘へ辿り着く。張り出し階段を上がるカヲルの背中へ、文句を投げた
「いま教えてほしい」
「口で説明するより、体験するほうが早いから。晩ご飯食べてから、ね」
焦るぼくを片目で見下ろし、カヲルはいたずらっぽく微笑む。釈然としないまま、ぼくはその笑みを見上げるしかない……。
そしてカヲルは当然のように午後六時半にぼくの部屋を訪れ、ミートソーススパゲティを作ってくれた。タマネギ、挽肉、トマトを混ぜた手作りソースが絶品で、ふたりでおかわりして全部食べた。
「時間までクソゲーさせて!」
やはりカヲルは「ダンス・クリムゾン」に取り憑かれたらしく、食後すぐにクソゲー再開。
白いTシャツにスリムジーンズのカヲルがマットの上で跳ね踊るたび、ゆさゆさしたものも左右互い違いに踊り狂い、ぼくは相変わらず赤面して目のやり場に困る。
「やった、コウモリ五匹倒した‼ 次どっち⁉」
「左。ゾンビが来る」
「ぎゃー」
指示とほぼ同時にカヲルの悲鳴が響く。テレビ画面には昨日から何度見たかわからない『GAME OVER』の表示。
「あったまくる~。なにいまの、ゾンビ? ハニワにしか見えなかったけど」
「ぼくもハニワだと思ってたけど、公式によるとゾンビらしい」
「手足なかったしハニワでいいよ。あ~、でも悔し~、ハニワ倒したら終わりにするから、こんなクソゲー」
そののちカヲルはハニワと壮絶な戦いを繰り広げ、午後七時四十分。
疲れた面持ちでゲームをやめて、カヲルは壁の時計を見上げた。
「そろそろ時間か。ツカサくん、その格好で203号室に来て。パーティー、二時間くらいで終わると思う。あ、無くしたり壊れたりするといけないから、スマホとか財布はここに置いといて」
カヲルに促され、ぼくはよく意味を理解しないまま、スマホと財布を部屋に残し、ジャージのまま外廊下に出る。
西に面した角部屋がぼくが住む201号室、その隣にカヲルの202号室、さらにその隣が空き部屋のはずの203号室だが。
「実はわたし、この部屋も借りてるの。一部屋じゃ狭くて」
カヲルはそう言って、203号室の鍵を差し込み、なかへ。
室内は、なんの家具もなくがらんとしていた。引っ越してきたのが昨日だから、まあこんなものだろう。
「まだなにもないけど、この部屋を今後の活動拠点にするね」
カヲルの笑顔へ、ぼくは問う。
「で、なにするわけ?」
「一緒にトイレに入ろう」
「え?」
「このトイレ、ゲートに作り替えてあるから。早く」
カヲルはトイレのドアをひらき、ぼくを見つめる。
「意味がわからなすぎる」
「説明より経験。来て」
カヲルはぼくの手を取り、ぼくを個室内へ引きずり込む。
スリッパが、なぜかふたりぶん用意されていた。ぼくは混乱しながらもそれを履き、カヲルと一緒にトイレのなかへ。
「きみ、なにを……」
こんなところにふたりで入れば、当然狭い。カヲルの胸がぼくにあたりそう。カヲルは挑むようにぼくを見つめ、
「きみの知らない世界を教えてあげる」
「……⁉」
どきん、と心臓が脈打つ。
同じくらいの背丈だから、カヲルの顔が近い。うしろで束ねた黒髪からいい匂いがして、知らず鼓動が早まる。
カヲルはトイレの蓋をあけ、間近からぼくを振り向き、手を握った。
「……準備オーケー?」
準備もなにも。
なにをするつもりだ。まさかここで大人になる気か。いやでもこの子、そんな下品なことする感じに見えないけど。
混乱するぼくを置き去りに、カヲルは手を繋いでいないほうの人差し指と中指を揃え、虚空へ文字を書いた。
刹那、火の色が個室内へ爆ぜる。
「……⁉」
一瞬、火事かと思ったが違う。この火の粉、熱がない。百万の蛍みたいな、明滅するオレンジ色の粒子だ。
「日本の神話って、下ネタが多いの、知ってる?」
冷たい火の粉に包まれたまま、突然カヲルは真面目な声音でそう言った。
「古事記や日本書紀だと、イザナミの身体からは糞尿や吐瀉物の神が生まれ出て。スサノオは天照大神に人糞を投げて世界を暗闇に変え。神武天皇の皇后はトイレで水神と出会い。そのお母さんはトイレで女性器を矢で射貫かれて皇后を生んだ。……先人たちはなぜ、自らのルーツを語る神聖な物語に、トイレに関わる話を数多く残したのか」
ぼくの視界が炎に包まれる。冷たくて清浄な匂いが、ぼくとカヲルを完全に包む。
「……正解言うね。トイレから出現する物の怪や神々は、トイレのむこうにわたしたちの知らない世界があることを暗示してる。……古代の魔法使いたちは、トイレが『異世界への入り口』――わたしたちの世界に折り重なって存在する『平行世界』へ通じる次元の扉であることを知っていた」
カヲルは至極真面目な口調で説明するが、ぼくの耳には入ってこない。
「ちょ、なに、これ……」
視覚というか、モノの見え方がおかしい。朱色の粒子が視界に入るだけで、個室内の情景そのものがのっぺり、平坦に見える。うまく言えないが、トイレとして見えているものが、寸劇の舞台裏を覗いたみたいに、意味を失うというか。
「物質って、すごい小さい粒、原子の集まりなのは知ってるよね。その原子を、一ミリの百万分の一のさらに百万分の一以上、限界の限界まで拡大して見ていくと、最終的に『波』になるって話、聞いたことある? 物理学では常識なんだけど、わたしたちの身体は粒であると同時に波で、ここに存在して見えるのは五感がそう捉えているだけで、五感を外したなら物質というものは存在せず、ただ『波』があるのみ……なんだって」
カヲルとつないだ手の感覚が、異常に研ぎ澄まされていく。
手を繋いでいるだけで、彼女の鼓動、体温、血の巡りまで、五感を越えたなにかが認識するみたいな。
「わたしたちが認識している世界もあくまで、五感が捉えただけのすがた。実際は、五感が捉えきれない世界がいまこのときもここに折り重なって存在してる。最先端の素粒子理論では、物質の振る舞いを理論的に説明するには、九つの平行世界を想定する必要があるんだって」
変じていく視覚のなか、カヲルの言葉だけやけにはっきり、耳元に届く。
「要するに現代物理学では、パラレルワールドなしに物質の存在を説明できない、ってこと。アリストテレス以来二千三百年以上の時間をかけて、世界で一番頭のいいひとたちが何世代も研究成果を継承して辿り着いた答えが『異世界は存在します』って、なんだかステキだと思わない?」
カヲルが微笑む。朱色の奔流が、勢いを増す。視界が一気に朱色に塗り込められる。血の海で溺れているような。頭の奥で、なにかが振動をはじめる。
「そして……わたしたち魔法使いは物理学者に先んじて、遙かな古代から、別次元と行き来する方法を知ってた」
カヲルのすがたが、微粒子の集合体に見える。いや、ぼくの腕もまた、微少な粒――というか、霧状のぼんやりした膜になっている……!
「異世界への鍵は、トイレなのであった」
波のような、霧のような、あるいは超高速で振動するなにかのような、そんなあいまいな存在に、ぼくとカヲルはいつの間にか変わっていた。
なにも見えない。ぼくはどうなった。トイレのなかって、こんな真っ赤なの?
「到着」
カヲルの言葉と同時に、火の粉が収まった。
視界が元へ戻り、ぼくの目の前ではカヲルが微笑んでいる。
「ようこそ、『星の裏側』へ」
ぼくは呆然と、カヲルの微笑みを見つめるしかない。
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