5.闇への扉

 その後暫くは何事も無く、咖逢彩と顔を合わせる事も無く夏樹は日々を過ごす事が出来た。しかし、あの香りを何故か忘れる事が出来ずに自分の体に残り香を探してしまう自分に少し戸惑ったりもする。気にする事など無い筈なのに……平凡な時間は好きて行く、会社での仕事の時間も同様に。


「あっ、はぁぁぁ……」


 職場のデスクで夏樹は大きく伸びをする。


「夏樹さん、なんかお疲れですね」


 彼女に向かってそう声を掛けたのは野田のだまる祐樹ゆうき、同じ部署で働くサッカー大好き青年で、休日は地域のクラブで競技に参加し汗を流す爽やかな年下男子だった。


「え、あ、そう見えちゃう?」

「疲れた時には逆に体動かすと良いみたいですよ。血液の流れが良くなって乳酸も排出されるそうです」

「そう、でも、体動かすって言ってもなぁ、私、スポーツとか苦手だし……」

「別に意識して体動かさなくても座りっぱなしにならなきゃいいんですよ」

「ふ~~~ん」


 シドニー大学の研究者達が世界20カ国で地域の成人を対象に平日の総座位時間を調査した結果、日本人の平均は約7時間でサウジアラビアと同率一位を獲得したのだそうで1日9時間以上座っている成人は、7時間未満と比べて糖尿病をわずらう可能性が2.5倍高くなるという結果が出ているそうだ。


 ちなみに20位はポルトガルの2.5時間だそうで日本人の半部にすら届かないのだそうだ。夏樹も典型的な働く日本人、デスクワークに従事する彼女の座っている時間はおそらく日本人の平均とほぼ変わらないであろう、最近腰痛が出て来た事に少し戸惑いを感じたりもする今日この頃だった。


「じゃぁ、野田丸君のご意見を拝借して少し歩いてみましょうかね」


 そう言いながら夏樹はよっこいしょという雰囲気でゆっくりと席から立ち上がった。


「はい、それが良いですよ。できれば一時間に一回くらいは立ち上がって血行良くしないとね」

「そうね、自販機でコーヒー買ってくる」

「はい、行ってらっしゃい」


 笑顔を残して夏樹は部屋を出て行こうとゆっくりと歩き出す。今手にしている上司から与えられたミッションは比較的軽い物でそれ程考え込むような案件では無いが、根が真面目で努力する事を惜しまない夏樹だから必要以上に突っ込みを入れてややお疲れモードに突入していた。


 業務時間中だから廊下の人通りは閑散としている。営業部門が入っている階はかなりにぎやかなのかも知れないが、研究開発部門は人の出入りはあまりなく、大学の授業中みたいな雰囲気が漂っている。窓から見える東京の風景は高層階から見る景色だからだろうか意外と緑が多くて初夏の風に揺れる木々達が何事かを囁き合っている様にも感じられた。


 そんな眺めにほんの少し癒されながら夏樹は自販機の前に立ち、好みの飲み物のボタンを押して、カード決済用のセンサーに首からぶら下げた身分証明書を少し腰を屈めながらタッチすと取り出し口にカップが落ちる音がして、その後飲み物が注がれる音が静まり返った廊下に響く、そして珈琲の芳醇な香りが始め、それを感じた夏樹は深呼吸と共にその香りを鼻腔に満たす。その香りに心も体も癒されるはずだったが、その瞬間、訳の分からない立ち眩みの様な揺れを感じた。


「……地震?」


 ゆっくりと上半身を起こして周りの様子を伺ったが目に見える変化は無い。眉を少し大袈裟に上げて見せながら夏樹は自分向けて心の中で呟いた。


「錯覚か……疲れてんのかな」


 自販機の取り出し口から珈琲が注がれる音が消え、抽出中のランプが消える。夏樹は腰を屈めて取り出し口を開き中からカップを取り出して一度口元に当てる。最近自販機で売られている珈琲も本物志向が高まっているせいか、その香りは豊かで彼女の心にじんわりと染み入った。そして、中身を一口啜ってから胸元のあたりまで下すと自分のデスクのある居室に向かって廊下を歩き出した。


 そして、居室のドアの前で身分証明書をドアロックのセンサーに押し当てる。かちゃりとロックが解除される音がしたので何気なく何時も通りにドアノブを回して夏樹は扉を開ける。そしてその奥に広がる光景に彼女は思わず目を疑い絶句する。


「え?」


 扉の向こうに広がっているのは星々が輝く無限の宇宙。そして真正面に見えるのは神秘的な光を放ちながらゆっくりと回転する大きな天の川銀河だった。その光景を目の前に脳髄の奥で何かがプチンと弾けた様な気がした夏樹は何事も無かったかのごとくに扉を極めて静かにぱたりと閉めた。


「……え、え~~~と」


 現実とあまりにもかけ離れた光景を見た時、処理しきれない情報は無視して無かった事にしてしまうのが大方の人間の脳内アルゴリズムと言ってよい。そして、夏樹もそのロジックに従った。今見た事は幻であり疲れた心が作り出した物だとしてそれを別の次元に追い払った。そして、早鐘のように暴れまくる心臓の鼓動が落ち着いたのを見計らい、彼女は身分証明書を端末にタッチして息を整えると再び扉を開く。


「……あ」


 そして、扉の向こうに見えたのは宇宙の闇に浮かび上がる純白の鎧に意を包んだ者の眩い後ろ姿だった。

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