終章
エピローグ① 三つの別れ
黒竜の襲撃から五日が過ぎた。
冬の季節には珍しく朝から晴れ間が広がったこの日、竜の谷村の一行が城を出立した。予定よりもだいぶ遅れた帰郷だった。
城の通用門まで見送りに行ったエルマは、勇気をふりしぼって、ジャズグル宛ての手紙をイエルに預けた。
イエルは無言のまま不機嫌な顔で手紙を受け取ってくれたが、ジャズグルに渡してくれるかどうかはわからない。どこかで捨てられてしまうかも知れないが、字の読めないジャズグルがエルマの手紙を読むには、結局のところイエルに頼むしかないのだ。
エルマは複雑な気持ちでハリムの一行を見送っていたが、彼らの姿が見えなくなるとすぐに踵を返し、今度は城の正門へ向かって駆け出した。
今日はミンツェ王女がアズールへ旅立つ日であり、そのアズールまで、エドゥアルド王子の一行について行くことにしたアールとシシルの旅立つ日でもあった。
(王女さま、大丈夫かな?)
ミンツェとは昨日のうちに別れの挨拶をすませたが、いつも前向きな彼女が昨日は元気がなかった。
今回のアズールへ行きはただの訪問であり、嫁ぐ訳ではない。
『暖かいアズール王国で冬を過ごしませんか』という、エドゥアルド王子の申し出を受ける形で、兄のテミル王子や、ヌーラを筆頭とした侍女たちを引き連れての避寒の旅だ。
それでも、エドゥアルド王子との意に沿わぬ結婚から逃れられる訳ではなく、ミンツェの気持ちを考えるとエルマは心配だった。
エルマが正門広場にたどり着くと、
ミンツェとテミルの前には、すっかり元気になったアルトゥン王がいて、子供たちとのしばしの別れを惜しんでいる。
国王一家の周りには貴族らしき人々が取り囲んでいたが、その中には、あの目立つ王弟ユルドゥスの姿はなかった。
彼らの邪魔にならないようにエルマは人垣の外側で立ち止まり、今日旅立つもう一組の旅人を探した。
「エルマ!」
「あ、アール! シシル様も!」
竜車の列の最後尾に立つ二人に駆け寄ると、エルマは真新しい紺色のマントを纏ったアールをしげしげと見上げた。
今日別れたらしばらくは会えない。アールの姿を目に焼き付けておこうと、エルマが目を大きく見開いていると、アールは訝し気な顔で首を傾げた。
「何だ、どうした?」
「え、ううん。何でもない。冬の山越えは危険だけど、アズール王国の竜騎兵の皆さんと一緒に行けるから安心だね?」
「ああ。アズールまで行けば、ベルテ共和国行きの船が出ているらしい。心配ない」
「それでも、気をつけて行ってね」
「ああ……そうだ、エルマ」
アールはサッと周りを見回して、シシルがマイラムと別れの挨拶を交わしていることを確認すると、マントの中から小箱を取り出した。
「これは、ソー老師から預かった大切なものだ。俺が持って行こうかと思ったが、持ち歩いて失くしてしまったら困る。だから、エルマが預かっていてくれないか?」
そう言って、エルマの手に小箱を押しつける。
「いいけど、中身は何?」
「詳しいことは、箱の中に入れた手紙に書いてある。後で、誰もいない場所で読んでくれ。この中身は、どんなに信用できる人にも見せてはいけない。マイラム竜導師長様にもだ。わかるか?」
「え……うん。わかった」
エルマが不思議そうな顔で頷くと、アールはホッとしたように笑顔を見せた。
「体に気をつけろよ」
「アールもね」
冬晴れの空の下を、青い軍服を着た竜騎兵に前後を守られて、ミンツェの乗った豪奢な竜車が出発してゆく。侍女たちの竜車や、荷物を載せた竜車などの車列が続いた後、シシルとアールが乗った最後尾の竜車が動き出す。
その最後尾の竜車の窓が開き、アールが顔を出すのが見えた。
笑って送り出そうと思っていたのに、最後の最後に涙が滲んできて、アールの顔はよく見えなかった。
エルマは竜車が見えなくなるまで大きく手を振った。
「行っちゃった……」
胸にぽっかりと穴が開いたような気がした。
でも、ここでグズグズしてはいられない。エルマは服の袖で涙を拭い、アールから預かった小箱をズボンのポケットにしまうと、治癒院に向かって駆け出した。
朝と晩、仕事の合間に治癒院に行くのがエルマの日課になっていた。
バハルを見舞う為だが、あれから五日が経ってもバハルが目覚める気配はない。
自分が見舞いに行ったところで、役に立つことはほとんどないが、バハルの容体が気になって行かずにはいられない。
第二城壁をくぐると、治癒院の白い建物が見えてくる。
治癒院の前にある針葉樹の傍にセリオスが立っていた。彼はルース王国の民と同じ黒髪だけれど、アズール人だからか遠くからでもすぐわかる。
「おはようございます! セリオスさんもお見舞いですか?」
エルマが声をかけると、セリオスは一瞬だけ驚いたような顔をした。
「いや。ここにいれば、おまえに会えると思って……本当に、王女様と一緒に行かなかったんだな」
「行かないって言ったじゃないですか! そりゃあ、王女様に誘って頂いた時は驚きましたけど、異国に行くのは不安だし……ほら、あたしがアズールに行ったら、アールが来ても会えなくなっちゃうし」
「彼にも会えなくなるから、だろ?」
セリオスが治癒院の方へ顎をしゃくる。
「え、まぁ、それもありますけど……」
「彼のことが好きなのか?」
「ひぇっ? や、違いますよぉ!」
エルマはカァッと顔を赤らめた。
「バハルさんには何度も助けてもらったんです。だから、何か恩返しがしたくて……それだけですよ! あっ、ちょっと前に、セリオスさんが忠告してくれたじゃないですか。アズールには気をつけろって。それも気になってたから、アズール行きをお断りしたんです!」
アタフタしながら言い訳がましいことを言い連ねるエルマ。
セリオスは何だか面白くなかったが、それを顔に出してしまうと、またエルマに怒っていると勘違いされてしまう。
「……俺が言ったのは、エドゥアルド王子には気をつけろってことだったんだが、まぁ、とにかく行かなくて正解だ。じゃあ、また昼にな」
「はい!」
ひらりと手を振ってセリオスが走り出す。
アールが頼んだのか、ベックやカールと交代で、セリオスも下級衛士の食堂に頻繁に来てくれるようになった。どうやら、エルマの護衛兼話し相手を買って出てくれたらしい。
エルマはペコリとお辞儀して、近衛府へ戻ってゆくセリオスを見送った。
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