第60話 惑う心
黒竜の襲撃があったその日の夜。
白亜の王宮の一室では、近衛府の幹部による会議が開かれていた。
「まさか……肉体だけでなく、着用していた衣服までが塵となってしまうとは」
ユルドゥスは、深い愁いの表情を浮かべてそうつぶやいた。
会議場の長方形のテーブルを囲むのは、王弟ユルドゥス、近衛府長官ガルムとその副官二名、竜導師長マイラムと、たまたま王宮に滞在中だった竜導師ギルドのシシルの六名だ。
議題はもちろん「黒竜の襲撃」についてだが、彼らが一番興味を持っているのは、腐臭を撒き散らしながら塵と化したサリールと、彼を操っていたであろう〝
「誠に不可思議なものですな。東国では、あのような怪異が頻繁に起きているのでしょうか?」
やや後退した頭髪をガシガシと搔きながら、ガルムが鼻の頭にしわを寄せてシシルを見る。
「魔道自体は珍しくないが、屍を操る魔道は禁忌とされる黒魔道だ。さすがに東国でも聞いたことがないよ……ああ、そう言えば、先ほど本国から伝書竜が来たのだが、どういう訳か東国の黒竜も消えたそうじゃ」
「それは本当ですかシシル殿? まさか、我が国を襲った黒竜と、東国の黒竜は関係があるのでしょうか?」
マイラムが思わず追及した時、会議室の扉が開いた。
「────あの、僕も参加して良いですか?」
「テミル? そなたには、エドゥアルド王子の接待を任せたはずだが?」
突然現れたテミルに、ユルドゥスは険しい目を向ける。
「それなら、ミンツェが買って出てくれました」
テミルは許しを待たずに会議室に入ると、ユルドゥスの対面に腰かけた。
「城下へ出かけていたとはいえ、エドゥアルド王子は黒竜の襲撃も、それを叔父上が撃退されたこともご存知でした。城中が大騒ぎでしたからね。変に隠し立てするよりは事実を認めた方が良いと思って、彼の質問にはサラッと答えておきましたよ。
ああ、もちろん、叔父上が召し抱えていた者が、死人使いに操られた屍だったことまではご存知ないようでしたので、その話はしませんでした」
「良い判断だ」
ユルドゥスは平静を装って頷いたが、内心ではテミルの物言いに憤っていた。
「殿下方の仰るとおり、あの男の件は隠しておいた方が良いでしょう」
ガルムも頷いた。
「我が国は黒竜の襲撃にあったが、それを見事に撃退した。対外的にはそれで十分でしょう。もちろん、シシル殿が黙っていてくれたら、の話ではありますが」
ガルムに視線を向けられて、シシルは思わず肩をすくめた。
「ルース王国とは長い付き合いだ。むろん協力するとも。わしも長いこと生きてきたが、実際に死人使いを見たこともなければ、操られた屍を見たこともない。こんな近くに居たのなら会っておきたかったが……そう言えば、その男が香水臭かったというのは本当かね?」
「ああ……今思えば、彼の過剰な香水は、腐臭を隠すためのものだったのだな。知らなかったとはいえ、私があの者を召し抱えたせいで、我が国にいらぬ混乱を招いてしまった。本当に申し訳なかった」
ユルドゥスは、皆に向かって頭を下げた。
本当に、こんな事になるとは、夢にも思っていなかった。
兄王が臥せっている間に黒竜を斃し、人心をを掌握する。その計画が成功した瞬間に、まさか、あんなことが起こるなんて。
ユルドゥスの脳裏に、ゆっくりと崩れ落ちてゆくバハルの姿が蘇った。
もしもバハルが間に合わなかったら、あの場に崩れ落ちていたのは自分だったろう。
(私の足を引っ張る者を消すと言いながら、もしかしたらサリールは、私が死んでも良いと思っていたのではなかろうか? 〈王の石〉さえ手に入れば、私のことなどどうでも良かったのでは?)
一瞬、そんな考えが頭を
兄よりも、自分の方があらゆる面で優れている。なのに、生まれた順番のせいで、なぜ自分がたいして豊かでもない西の太守のならねばならないのか。
そんな不満を抱えていたユルドゥスに、サリールはするりと忍び寄って来た
彼の言葉はユルドゥスの自尊心を満足させ、長年の不満を解決に導いてくれた。ユルドゥスは彼を疑うことなく、彼の言葉通りに行動した。
その結果────長年尽くしてくれた充実な従者、バハルを失ってしまった。
(私は……何という事を)
ユルドゥスは後悔していた。
(今からでも遅くない、兄に尽くせば……いや、それはダメだ)
兄の部屋から盗み出し、サリールに手渡した〈王の石〉は見つからなかった。サリールと共に塵と化したのか、それとも、
(もはや、後戻りはできない…………でも)
二つの相反する想いがユルドゥスの心を惑わせる。
「────何を仰います! ユルドゥス殿下のせいではありませんよ。例え死人使いがあの黒竜を呼び寄せたのだとしても、被害が出る前に殿下が退治してくれたではありませんか! こう言っては何ですが、竜衛士たちにとっても、今回の戦いは得難い経験だったことでしょう。なぁマイラム竜導師長? おぬしもそう思うだろう?」
「え、ええ。まぁ」
突然同意を求められて、マイラムはしどろもどろになった。
「頭を上げてください殿下! 幸い、我が国に被害はありません。殿下を庇った従者も、どうやら一命を取り止めたらしいではありませんか!」
「え?」
ユルドゥスは顔を上げてガルムを見た。
「まだお聞きになっておりませんでしたか? 先ほど治癒院から使いが参ったのですよ?」
「それは……本当なのか? すまぬ! 私は席を外させてもらう!」
ユルドゥスは椅子を倒しそうな勢いで立ち上がると、会議室を飛び出した。
王宮を取り巻く第一城壁を抜け、近衛府と行政府の建物と並び立つ治癒院へ向かう。
(まさか……あの状態で、命があるとは)
倒れたバハルを抱き起した時、ユルドゥスはその体に冷たさに絶望した。彼の命が失われてしまったのだと直感したのだ。
(神よ!)
ユルドゥスは治癒院に駆け込んだ。
「バハルはっ! 私の従者はどこにいる?」
「お静かに! ここは治癒院ですぞ。殿下の従者はこちらです」
白いローブを着た年配の男に促され、ユルドゥスは建物の奥にある部屋の扉をくぐった。
「初めに診た時は凍ったように冷たくて、強い呪いの痕跡がありました。正直助かるとは思っていなかったのですが……とにかく良かったです」
そこは小さな個室だった。ひとつしかない寝台にバハルが眠っている。そして、その傍らには、床に膝をついて寝台にもたれかかるように眠っている者がいた。
「ああ。付き添って来た子も眠ってしまったようですね。バハル殿には助けられた恩があるから看病させてくれと頼まれまして……仕方なく許可しました」
ユルドゥスは目を瞠った。
ランプひとつだけの薄暗い部屋で、うつ伏せになったその者の顔は見えなかったが、布団の上に散る白金の髪には見覚えがあった。
眠るバハルの手を、少女の小さな両手が握りしめている。
その光景を目にした途端、ユルドゥスの心には深い安堵の気持ちと、それとは相反する不思議な苛立ちが浮かび上がってきたのだった。
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