第50話 王と王弟


「ユルドゥス……そなた、まだ西へは戻らぬつもりか?」


 昨夜と同じように、棚から二つのグラスを取り出しながら、アルトゥンは弟に視線を向けた。

 長椅子に座って酒のコルクを抜いていたユルドゥスは、お道化どけたように肩をすくめた。


「西は私が居なくても大丈夫ですよ。もうすぐ新年ですし、行ったり来たりするのは面倒だから、年明けまで滞在するつもりです。ダメですか?」


「仕方のない奴だな」


 アルトゥンは、ユルドゥスの向かいに腰かけながらため息をついた。


 ユルドゥスは若くして西の太守になったが、彼が太守の椅子に座っている時間は一年のうち半分もないだろう。見聞を広める為と言っては、西のことを臣下に任せてあちこち旅してばかり。つい先日も東国を漫遊して戻ったばかりだ。



「そうだユルドゥス……そなたが東方諸国を巡っていた時、氷男アイスマンの噂を耳にしなかったか? こちらに入ってくる情報では、何のことやらはっきりしなくてな」


「……へぇ」


 優雅な手つきでグラスに酒を注いでいたユルドゥスは、スッと表情を引き締めると、今までとは違った種類の微笑を浮かべた。


氷男アイスマンの噂をご存知でしたか。兄上の情報網も馬鹿に出来ませんね」

「やはり知っていたのか。それで、詳細はどうなのだ?」


 身を乗り出したアルトゥンに、ユルドゥスは肩をすくめた。


「まずは、兄上の知っていることを話してください」


「ああ……私が聞いたのは、東国の北の山中で氷漬けの男が見つかったという事だけだ。東国の民の間では、その男が目を覚ましたという噂話が飛び交っているというが……とても信じられん」


 アルトゥンは難しい顔で首をふる。


「でも、兄上は気になるのですね? 私が東国で聞いたのもそんな話ばかりですが、氷男が蘇ったのは本当のようです。黒魔道が……関わっているようですね」


「黒魔道が?」


 アルトゥンは眉をひそめた。


「五十年前に隣国イリスを滅ぼしたジュビア王国が、今また南に攻勢をかけていますよね? たしか、レラン王国は東ラン川の北側を切り取られてしまったんじゃありませんか?」


 ユルドゥスは、テーブルの上の焼き菓子に手を伸ばしながら言葉を続ける。


氷男アイスマンを掘り出したのはジュビアの兵で、その氷男が目覚めたという噂が流れたとたん、南のレラン王国で飛竜が狂い始めた。これも黒魔道のせいだという話です」


「なんとも信じがたい話だな」


 アルトゥンは険しい表情のままため息をつく。


「ジュビアが本気で領土を広げ始めたのなら、わが国で起こっている竜目石の破壊も、案外ジュビアの仕業かも知れませんよ」


 ユルドゥスがニヤリと笑いながら、兄王の目をのぞき込む。

 アルトゥンは「何を馬鹿な」と言おうとしたが、実際に口にしたのは別の言葉だった。


「もしそうなら大問題だ。まさかとは思うが、ジュビア王国は……この大陸の、すべての国を手に入れようとしているのだろうか?」


 そう問い返すと、ユルドゥスも揶揄うような笑みを引っ込めた。


「その可能性はあるでしょう。我が国も防衛力を強化する必要がありますね。それと同時に、ジュビア王国の真意を探ることも大事かと」


「真意を探る? 大陸西端の我が国と、大陸東端の彼の国は、今まで直接的な交流を持ったことはない。どうやって情報を得る? 今さらあの国と国交を始めるのは無理だぞ」


「ハハッ、でしょうね! そんな事をしたら大陸中の国々から総スカンだ!」


 肩を揺らして笑う弟に、アルトゥンは眉をひそめる。


「笑い事じゃないぞ、ユルドゥス!」


「わかっていますよ兄上。私が言いたかったのは、ジュビア王国に間者を潜り込ませる必要がある、ということです」


「間者か……」


「兄上が悩むことはありません。適任者がいなければ、私の方で見繕っておきますから。さぁ、飲みましょう! 今日の酒は、大陸の中央に位置する、森に囲まれたモラード王国の果実酒です」


 ユルドゥスはそう言って、先ほどから手の中でクルクルと弄んでいたグラス────血のように赤い酒が入ったグラスを、アルトゥンに差し出した。


                      (第六章「黒竜と英雄」に続く)


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