第32話 シシルの惑い



 ベックが飛竜を呼び戻す、ほんの少し前のこと。


 近衛府このえふの広場を囲む回廊で、アールはようやくシシルの姿を見つけた。


「シシル様!」


 息を切らせて駆け寄ると、シシルは小さな目を皺のようにして微笑んだ。


「アール。おまえさんも飛竜テュールの呼び戻しを見に来たのか?」

「いえ。実はあなたにお聞きしたいことがあって……」


 アールは用心深く言葉を濁した。

 先日、シシルに赤い竜目石のことを聞こうとしたら、彼は逃げるように去ってしまった。あの時の二の舞は踏めない。


『────忘れた方がいい。炎の虹彩は悪魔の竜だ。呼んではいけないものだよ』


 シシルの言葉は今もアールの耳に残っている。彼にとって赤い竜目石は忌むべき存在なのだ。上手く話をしなければ、先日と同じ結果になってしまうだろう。


「わしもアールに聞きたいことがあったのじゃ。おまえさんもソー老師の元にいたのだから、当然、賢者ソーが飛竜とどう接していたか知っているじゃろう。エルマの訴えは本当なのか?」


 シシルは回廊の手摺に杖を立てかけて、アールを見上げた。

 ベックの飛竜を解き放った経緯はエルマから聞いて知っていたので、アールは頷いた。


「本当です。ソー老師は必要な時だけご自身の飛竜を呼びよせていました。小さな山小屋暮らしでは、この王宮のように竜舎で飛竜を飼うのはどのみち無理でしたけど。ソー老師は飛竜のことを空の兄弟と呼んでいました。ソー老師にとって、彼らを家畜のように扱うことは彼らに対する冒とくだったと思います」


「そうか……飛竜を呼びよせる秘儀は、遥か昔に滅んでしまった〈飛竜の塔〉の巫女にしか出来ない技だと思っていたよ」


 シシルは腕組みをすると、回廊のアーチ型の柱から静かに広場を眺めた。


「わしらは、いつの間に、考え方を異にしていたのだろうな」


 淋しそうにポツリとつぶやく。

 アールは勇気をふりしぼって、一番の要件を口にした。


「実は、エルマが村に戻れないと聞きました。エルマはまだ子供です。あの子をひとり城に残して帰る訳にはいきません。シシル様から取りなしていただけませんか?」


「ん、ああ、エルマのことは聞いたよ。わしの知り合いのマイラム竜導師長が、彼女を預かると言っている。彼に聞いてみても良いが、王族が関わっとるからの。まぁ無理じゃろうな」


「そう……ですか」


 アールは肩を落とした。シシルで駄目なら、自分がどんなに訴えても無理だ。そもそも訴えすら聞いてもらえないだろう。


「では……俺に、赤い竜目石のことを教えてください。ソー老師は俺に何も教えてくれなかった。なのにあの方は、死の間際にあの石を俺に預けたのです!」


 俯いたまま思いの丈を吐き出すアールに、シシルは小さな目を見開いた。


「なっ……なんじゃと? ソー老師が、あれを、おまえさんに預けた? 彼が、炎の竜目石を持っていたのか? いったい、いつ、どこで見つけたのだ……」


 シシルの問いは、いつの間にか独り言のようになってしまった。


 赤い竜目石の出所は秘密だ。

 いくらシシルがソー老師の知り合いでも、簡単に信用は出来ない。彼がエルマに危害を加えないと確信できるまでは、何があっても教える訳にはいかないのだ。


「今も、持っているのか?」


 シシルは喰いつくような形相で顔を上げると、血走った目でアールを見つめた。


「持っています。ソー老師から、竜目石が必要になるその時まで、おまえが持っていなさいと言われましたから」


「なぜだ……ソー老師は、なぜ赤い竜目石が必要になると……アール、その話を、もう少し詳しく聞かせてくれ。いや、ここではダメじゃ。場所を変えて……」


 シシルはすがりつくように、アールの服をつかんだ。


「詳しくも何も、それだけです。でも俺は、自分が預かった竜目石がどんな物なのか知りたいのです。教えてくださいますね?」


「あ、ああ、教えよう。教えるとも」


 シシルは震えながら何度も何度もうなずいた。


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