プロローグ② 氷男(アイスマン)


 夏でも雪が解けぬ最北の地────大陸の北東に位置するジュビア王国。

 その、普段ならば人の往来などない北限の山谷に、ジュビア王国の兵士が百名ほど集まっていた。


 カツン カツーン


 聞こえるのは、斧をふるう兵士たちが氷塊を割る音だけ。

 細かくされた氷は別の場所へ運ばれ、兵士たちはただひたすら氷を割り続け、氷塊の奥へ奥へと突き進んでいる。

 目指すは、不純物のない透明な氷の奥に眠る、黒衣の男。


「ったくよぉ、氷漬けの男の死体を掘り出して、いったい何に使うってんだよ?」


 斧をふるう若い兵士がぼやくと、年かさの兵士が「しっ」と口元に人差し指を当ててたしなめた。


「これは、国王陛下お抱えの魔導師様のお指図だ。滅多なことを言わん方が良い」


 年かさの兵士は割れた氷を手押し車に放り込みながら、天幕の中にいる黒いマントの男を盗み見た。


 マントの黒いフードからこぼれる銀髪と白皙の美貌は、どうみても二十代にしか見えないが、魔導師の年齢ほど見た目で判断出来ぬものはない。

 魔導師は長く生きれば生きるほど魔力を高め、高められた魔力は肉体の衰えさえも緩やかにしてしまうのだから。


「おまえら若造は知らないだろうが、あの氷漬けの男はな、五十年前にイリス王国を滅ぼした魔王だ。その魔王を掘り出そうとする魔導士様のお考えが、俺は恐ろしくてならないよ」


 年かさの兵士は、額に流れてきた嫌な汗を手の甲で拭った。



 一週間に及ぶ氷割り作業で掘り出された黒衣の男の遺体は、まさに氷の棺のような長方形に切り出され、布を丁寧に巻かれて王都へと運ばれ、王城の地下室に安置された。


「────サール! 本当に〝魔王〟を蘇らせることが出来るのだろうな?」


 毛皮のマントを翻して螺旋階段を降りてきたのは、ジュビア国王グラントだ。短く刈られた金髪の上には、瞳と同じ青い宝石をはめ込んだ王冠が輝いている。

 王である彼が従者も連れずに地下室へ来たのは、魔導師サールの行っていることが禁じられた黒魔道であると知っているからだ。


「この通り、体を覆っていた氷は溶けました。この体が機能するかどうかはわかりませんが、意識は戻るはずです。私は彼の真名マナを知っておりますので」


 サールは長い銀髪をかき上げて、緑色に光る瞳をフッと細めた。薄暗い地下室でも、彼の類まれな美貌は光を放っている。


 グラントは眉間にしわを寄せたまま、石の寝台に横たえられた男の傍へ歩み寄る。

 氷漬けにされていたせいか黒衣に劣化は見られない。男の肌は白く瑞々しく、短い銀髪も艶やかで眠っているだけのようにも見える。


 だが、この男が氷漬けにされてから既に五十年が経っている。

 そもそも蘇るのかどうかも疑わしいし、万が一蘇ったところで、サールが男の力を御せるかどうか怪しいものだ。


(だが、すべては、このジュビア王国にかつての繁栄を取り戻すためだ────)


 内心の疑念を振り払い、グラントは氷男に向けていた鋭い視線をサールに向けた。


「……そなたを疑っている訳ではないが、この男は一人で一国を滅ぼしたほどの魔導師だ。この男の力を、本当にそなたの意のままに出来るのか?」


「もちろんです。氷に封印されたとはいえ、彼の魔力はまだこの器の中に残っております。私は彼の魔力が欲しい。この莫大な力をわが身に取り込んだ暁には、陛下の足下に、この世をひれ伏させてご覧に入れましょう」


 左手を胸に当てて、サールは恭しくこうべを垂れる。


「よかろう。そこまで言うなら、この男を目覚めさせてみよ!」


 グラントは毛皮のマントを翻し、壁際に置かれた長椅子にどかりと腰を下ろした。


「御心のままに」


 もう一度恭しくお辞儀をすると、サールは横たわる男の目の上に手をかざして、何事かつぶやいた。


『我は招魂する。現世うつしよと黄泉の間に留まりたる魂よ。偉大な魔導師×××××よ。銀の魔導師サールの呼び声に応え、現世にある器に戻り来たれ!』


 薄暗い地下室に青白い光がほとばしる。

 グラントが思わず腰を浮かせた瞬間、氷漬けになっていた男の瞳がカッと開いた。

 光のような黄金の輝きが、青白い光を凌駕してゆく。


「俺の眠りを妨げたのはおまえか? おまえのような若造が俺を支配できると本気で思っているのか?」


 地獄の底から聞こえるような低い声だった。

 男の目の上に手をかざしたまま動けなくなっていたサールの手の先を、男の手がつかんだ。


「ちょうど良い。この身体はまだ動かせない。代わりにおまえの身体を貸してもらおう」


 離れた場所に座るグラントからは、何が起きているのかわからなかった。ただ、指先をつかまれたサールの身体がブルブルと震え出したのはわかった。


 サールの秀麗なおもてが恐怖に歪み、元々白い肌が屍のごとく血の気を失ってゆく。


「はっ……あっ、やめっ……やめてくれ! うわぁぁぁーっ!」


 悲鳴を上げるサールの腕が、釣り上げられたばかりの魚のごとく波打った。

 波のごとき不自然な震えは、サールの指先から上腕に向かって伝播してゆく。それは、たっぷりとした魔導師のマントの上からでもわかるほどだった。


(まるで……指先から、何かが侵入しているようだ)


 いつの間にかサールの悲鳴は止んでいた。

 体はまだ不気味に震えていたが、瞼を閉じた彼は、立ったまま事切れているように見えた。

 次の瞬間、閉じていたサールの目がカッと開いた。

 今までとは違う光を放つ緑の瞳が、ゆっくりとグラントを捉える。


「さてと……ここは何処で、おまえは誰だ?」


 サールの姿をした別人がそう問いかけてきた時、グラントの背中がゾクリと震えた。


 自ら戦場に立つ戦神。剣も槍も弓も一流の腕を持ち、どんな敵でも恐れたことなどなかった。相手が魔道を使う者であろうと、気迫でねじ伏せる自信があった。魔導師サールもそうして手の内に引き込み従えてきた。

 それなのに────今、彼の身体は震えていた。


「見たところ、王族のようだな。おまえがこいつの雇い主か?」


「わ、我は、ジュビア王国国王グラントだ!」


 震える唇を噛みしめながら、何とか名乗りを上げると、サールの姿をしたモノはフッと笑みを浮かべた。


「おまえがのジュビア王か。俺はかつて、ジュビア王に仕えていたこともある。場合によってはおまえの力になってやらないこともない。おまえの望みは何だ?」


 美貌の魔導師が浮かべる凄絶な微笑。

 グラントは体の震えが止まらなかった。


 

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