【第一部完結】エルマと炎の竜目石

滝野れお

序章

プロローグ① 拾い子


(────ああ、なんてそらが近いんだろう)


 顔を上げる度に、アールの口からはため息がこぼれ落ちる。

 高山の草原。視界いっぱいに広がる山々の青い峰。その、悲しいほどに美しい山の稜線は、すぐに涙で滲んでぼやけてしまう。


 この景色を見るのもこれが最後。そう思うと涙がこぼれそうになり、アールは下唇を噛みしめた。


 トボトボと山道を下る黒髪の少年アールの前には、彼の師匠であった白髪の老人、ソー老師が歩いている。彼は杖をついているのに、よどみなく山道を下ってゆく。


 老師は背が高くて、十歳のアールの目の高さに大きな広い背中が見える。

 その背中で揺れるパサパサに乾いた白髪が、「もう決まった事なのだ。諦めろ」とアールに告げているようで余計に悲しくなった。


 本当は山を降りたくはない。けれど、アールがどんなに一所懸命頼んでも、ソー老師はこの決定を変えることはなかった。


 ピィーウー ピィーウー


 遠くに見える山々の稜線を背景に、羽を広げた大きな鳥が滑空してゆく。

 自由自在に空を行く鳥があまりにも羨ましすぎて、アールは空を見上げたまま足を止めてしまった。


「どうした?」


 立ち止まったアールに気づいて、ソー老師がふり返る。

 アールは小さな拳を握りしめると、覚悟を決めたように老師を見上げた。


「お願いです、ぼくを家に戻さないでください! どんな仕事でもやります。だから……」


 感情が込み上げたとたんに、目に熱いものが溢れた。


(泣かない、泣いちゃダメだ)


 そう思うのに、アールの意志に反して、ボロボロと涙がこぼれ落ちてくる。

 アールの視界は涙で霞んでいたが、ソー老師が困り果てたように笑みを浮かべたのがわかった。



 アールがソー老師の山小屋で暮らし始めたのは、半年ほど前の事だった。

 竜目石を使って飛竜テュールと人とをつなぐ竜導師。ソー老師の弟子となるため、アールは山で暮らしながら飛竜と竜導師について学び、岩山を登っては竜を呼ぶために必要な竜目石を探し続けた。

 大変なことも多かったけれど、楽しいこともたくさんあった。何よりも、食べ物に困らない生活がアールは一番嬉しかった。


 けれど、そんな暮らしの中で、アールにも段々とわかってきた事がある。

 十歳になったばかりの自分がこの先どんな努力をしても、竜導師にはなれない。そもそも、初めから才能が無かったのだ。

 それでも山に留まりたい理由は、貧しい両親のもとに戻っても迷惑になるだけだとわかっていたからだ。


 アールがソー老師の弟子になれるかも知れないと知った時、両親はとても喜んでくれた。幼い弟や妹を抱えた両親にとって、それは単に口減らしが出来るという喜びだったのかも知れないが、それでもアールは、両親に喜んでもらえたことがとても嬉しかった。


「すまないな、アール。だが、今のうちに普通の生活に戻った方が、おまえのためには良いことなのじゃ」


 白髪と白髭に縁どられたソー老師のしわしわな顔が、申し訳なさそうにくしゃりと歪む。


「さぁ、早く行こう」


 ソー老師の大きな手がアールの黒髪をくしゃくしゃと撫でたあと、彼の小さな手を握った。

 老師に手を引かれてしまえば、アールは歩き出すしかない。


 枯草と低木と岩しかない高山。連なる山々の尾根を歩いていた時だった。今までアールの手首をがっちりと掴んでいたソー老師の手が、ふいに離れた。

 驚いて見上げると、ソー老師は見たことも無いほど険しい顔をして辺りを見回していた。


「どうしたんですか?」

 アールが尋ねると、ソー老師は微笑みを浮かべた。

「呼び声がするのじゃ。おまえに聞こえないのが残念だよ」


 呼び声。

 それは、竜導師なら聞こえるという竜目石の呼び声のことだ。アールには無い才能だった。


(風の音しか聞こえない……)


 アールがうつむいている間に、ソー老師は杖で器用に草をかき分けながら、緩やかな斜面をかけ下りてゆく。ソー老師の行く先に目を向けると、山の斜面には鎧竜オンゴが一頭、草を食んでいた。

 アールが駆けおりて行くと、ソー老師は鎧竜の固い甲羅の上から籠のようなものを下ろしていた。


「驚いたよ。赤子じゃ」


 ソー老師が籠を下ろすと、布にくるまれた赤子がすやすやと眠っていた。色の白い顔にくるくるの金髪がはりついている。


「か……かわいい」

 アールは思わずしゃがみ込んで、赤子の頬をつついた。

 それから、不思議そうに首を傾げた。

「この子が、呼んでいたんですか?」

「いいや、これが呼んでいたのじゃ。まったく、何の因果かのぉ」


 ソー老師は一瞬だけ遠くを見つめた後、握りしめていた手をアールの目の前でそっと開いた。

 彼の手のひらの上に乗っていたのは、スベスベの白石に赤い虹彩のある竜目石。

 炎のように美しいその石に、アールはしばし見とれた。


「ううむ……おまえ、赤子の世話は出来るか?」

 いきなりソー老師に尋ねられて、アールは目を見開いた。

「でっ、出来ます! ぼく、弟の世話も、妹の世話もしてましたから!」


 自分にもできる仕事があれば、家に帰されないで済む。その思いだけで、アールは必死にアピールした。


「よしよし。それじゃぁ、帰ろうかの」

 アールの頭を優しくなでてから、ソー老師は籠を抱えてゆっくりと立ち上がった。




 ────あの日から十三年。

 老衰で起き上がれなくなったソー老師の口に粥を運んでいるのは、背中まで伸びた白金の髪を三つ編みにした色白の少女。

 十三歳になったあの時の赤子、エルマだった。

 木の匙から何度粥がこぼれても、エルマは根気よくソー老師の口元に匙を運ぶ。


「じいちゃん、ちょっとでいいから食べてよ」


 エルマの声が震えている。

 後ろで見守るだけのアールにも、エルマが顔をゆがめて涙を堪えているのがわかる。


「水を、くれんかのぉ。冷たーい水じゃ」

 ソー老師の擦れた声が聞こえると、エルマの体が跳ね上がった。

「冷たい水ね! すぐ汲んで来るから待ってて!」


 エルマがドタバタと小屋を出てゆくと、ソー老師の手がアールを呼んだ。


「あれを……」


 ソー老師が何を言いたいのか、アールにはすぐわかった。

 机の下にある鍵つきの引き出しを開けて、四角い小さな木箱を取り出す。アールはその小箱をソー老師の枕元に乗せた。

 蓋を開けると、そこには粘土を固めたような茶色い小さな石塊が一つ。


「これは……あの赤い竜目石ですか?」


 光沢のある丸い白石に炎のような赤い虹彩のある竜目石だったものは、今は土塊つちくれにしか見えない。


「……そうじゃ。わしが封印した。わしは意図的に、あの子からこの石を遠ざけた。だが、それは間違っていたかも知れぬ。すべてをあの子に話し、その上で、竜を呼んではならぬと教えるべきだった。が、今となってはそんな時間もない」


「ソー老師」


「アール……この石を預かってくれないか? いつかあの子が、本当に、これを必要とするまで」


 厳格なソー老師の声が、苦し気にかすれる。


「わかり、ました」

 震える声で、アールは答えた。


 この竜目石が何なのか、ソー老師はなにも話してはくれなかった。

 しかし、エルマを拾ったあの日から既に十三年の月日が流れ、幼かったアールは立派な青年に成長した。


(わかっています老師。出来ることなら、エルマがこの石を必要とする日が来ないように、あなたはそう願っているんですよね?)


 心の中でそう語りかけ、アールは苦しそうに目を細めた。


「あとは、頼んだぞ」

「はい、老師」


 アールが頭を下げると、枯れ木のような手がふわりと頭に触れた。

 それが、最期だった。

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