第19話 上級衛士
朝食が終わると、ちょっとした休憩を挟んですぐに昼食の下ごしらえが始まる。
エルマはカーラに言われて、食堂の脇にある食料貯蔵庫から、丸芋の大きな麻袋を引っ張り出していた。
「よいしょっと、重たいなぁ」
丸芋の大きな麻袋はとても重い。地面よりも一段低い貯蔵庫から外の芝生まで運ぶだけなのに、エルマの細腕ではなかなか大変だ。
曲げていた腰を伸ばして、ふーっと息をついた時だった。
「ようエルマ。食堂の仕事はどうよ?」
嫌な奴の声が聞こえてきて、背筋がゾワッと
エルマが恐る恐る振り返ると、偉そうに腕を組んだイエルが意地悪そうなニヤニヤ笑いを浮かべて立っていた。
「……べつに。いま忙しいから、イエルと喋ってる暇ないの」
エルマが丸芋の袋を持ち上げようと手を伸ばした瞬間、ドンと、勢いよく背中を押された。
「わっ」
バランスを崩したエルマが芝生の上に倒れ込むと、イエルはエルマの背中に馬乗りになって、エルマの髪を包んでいた白い布帽子をつかんで投げ捨てた。
「流民の子のくせに生意気なんだよ! おまえ、まさか、このままお城の給仕係になろうなんて思ってないよなぁ?」
そう言って、カーラがきれいに結ってくれた髪をくしゃくしゃにする。
「やめてっ、やめてったら!」
必死にもがくが、背中に乗ったイエルの体重が重すぎて動けない。
「おまえは山の上で
ほどけてクシャクシャになった金色の髪を、イエルが容赦なく引っぱる。
エルマはお城に残ろうなんて考えたこともなかったけれど、イエルからはそう見えたのだろう。
(あたしが流民の子だから、何をしても腹が立つんだ……)
そう思うと、じわりと目頭が熱くなった。
イエルに意地悪されたからというよりも、芝生の上に転がったまま反撃もできずにいる自分が情けなかった。
(あたしがイエルよりも強かったら……)
アールのようにケンカが強くなれば、きっとイエルも意地悪してこなくなるのに。
そう思った時、ふっと背中が軽くなった。さっきまで「バーカバーカ」とうるさかったイエルの声もしなくなっている。
体を起こして振り返ると、イエルは黒い軍服を着た長身の
「失せろ」
衛士がポイと手を放すと、地面に転がったイエルは一目散に逃げて行った。
エルマが芝生の上に座り込んだままポカンとしていると、衛士は落ちていたエルマの白い布帽子を拾って、ほこりを払いながら近づいて来た。
「大丈夫か?」
衛士はエルマの前に片膝をつくと、布帽子を差し出した。
「あ……ありがとうございます!」
布帽子を受け取った時、エルマはその衛士が見たことのある人だと気がついた。
長い前髪に隠れてこめかみの傷は見えなかったけれど、昨日の早朝、食堂の窓際の席に座っていた上級衛士だ。
(そうだ、襟の階級章が緑だもん)
「ずいぶんやられたな。髪がくしゃくしゃだ」
痛まし気な視線を投げかけられて、エルマは我に返った。
「だ、大丈夫です!」
慌てて髪をつかんで手櫛でどうにかまとめると、そのまま布帽子に突っ込み始める。
「そんなんじゃ駄目だろう。貸してみろ、やってやる」
「え? いや、大丈夫ですから。偉い方にそんなこと……」
「いいから貸せ」
衛士はエルマの手から布帽子を奪い取ると、せっかくエルマが詰め込んだ髪をほどいてしまった。
大きな手がエルマの髪を梳き、キュッキュッと手際よく引っ張ってゆく。
エルマの目からは見えなかったけれど、たぶん三つ編みを編みなおして、それを頭の上に結い上げているのだろう。
(女の人の髪を結える上級衛士がいるなんて……)
エルマは心の底から驚くと同時に、恥ずかしさが込み上げてきた。
アールに髪を結ってもらうことには慣れているけれど、よく知らない男の人に髪を結われ、頬や耳の辺りに大きな手が触れる度、訳の分からない緊張感で一杯になる。
「あ、あのぉ……お上手なんですね」
気を紛らわせようとエルマが遠慮がちに尋ねると、衛士は笑ったようだった。
「妹が、いたんだ」
「妹さんが……」
なんだ、そうなのか────そう思ってから「いたんだ」という言葉が気になった。
「俺の母親も流民でな。おまえと同じような髪の色をしていた。俺は父親に似たらしく黒に近い髪色だが、妹は母に近い髪色だった。体が弱かった妹の髪を、よくこうして結ってやった」
つぶやくような言葉は淡々としていたが、どこか哀しかった。
(不思議な人だな……)
昨日の早朝も今も、この人の纏う空気は暗くて哀しい。
自分よりもずっと大人で強そうな男の人なのに、泣いているのではないかと思ってしまう。
「助けていただいた上に、髪まで直していただいて、本当にありがとうございました」
ぺこりと頭を下げてから、エルマは衛士の顔を見上げた。
「あのっ、お名前を教えてくれませんか?」
勢い込んでエルマがそう言うと、彼は驚いたように目を見開いてから表情を緩めた。
「そうか……おまえに名を聞いておきながら、自分は名乗っていなかったな。俺はバハルだ」
「バハル様。ありがとうございました」
もう一度ぺこりと頭を下げると、バハルは少し困ったように笑った。
長い前髪にかくれた左のこめかみにある、引きつれた傷跡。あの傷は、流民だという母親と深く関係しているのではないだろうか。
エルマを助けてくれたのも、きっと同じ流民の子だからだ。
(訊いてみたいけど、触れてはいけない気がする……)
バハルの姿が見えなくなるまで、エルマは頭を下げて見送った。
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