第14話 秘密の診察
「捨てた」
表情を変えることなく雲仙は佐賀を見る。
なぜだ?
その言外の詰問が、沈黙のまま雲仙の気配に映る。
「この街で描くべき浮世を見つけたので」
佐賀がそう返すと、雲仙は「なんだそれは」と佐賀に問うた。佐賀は雲仙の言った「なんだ」と「それは」の間に、微妙な間があるように感じた。
「この街には英雄がいるようで」
佐賀が質問気味に窺うように訊くと、雲仙は、「ああ」と言って「ヘロを描くのか」と佐賀の目を見る。還暦過ぎでも、芯のある、強い目をしている。
佐賀が思っていたよりもだいぶ早く答えに直結したため、僅かに虚を突かれた佐賀は「はい」と短く答えるほかない。
雲仙はしかし、佐賀の言ったそれはこちらの想定内であるとでもいうように「それは。私の意図を組んでいると言える」と言った。
雲仙がそう言っているのを聞きながら佐賀は、ヘロ、という名を少し特別なものとして雲仙が口にしたな、と別の思考軸で思う。この街では、英雄というのは日常的な存在であるが、日常的な存在であるがゆえに非日常性が失われているのではないか、その感覚の麻痺具合を、特にこの街の中年以上の大人たちに対して佐賀は見ていたのだが、雲仙はそうではないように見えた。
「いえ、しかしあの二枚を捨てたのは勝手なことをしました。すみません。しかしその覚悟で依頼の絵は仕上げるつもりですし、期待には応えます」
雲仙の表情は変わらない。急に笑い出すのか、急に怒りだすのか、急に「お腹が空いたな」と言い出すのか。不気味で、超然としている。
「あの麒麟の絵は、いいと思っていた」
雲仙はそれほど問い詰めるでもなく、「しかしいい気合いだ、期待している。具体的には、どんな絵になるんだ」
雲仙がそう聞くと、
「英雄のいる街の浮世、とでも言いましょうか。それはまだ、完成まで待っていてください」
千尋のあのときの表情が、佐賀の思考の泉に浮かぶ。入り口の扉を開けたヘロを見たときの、あの表情が。
「ほう」
雲仙のその「ほう」は、佐賀には少し満足げに聞こえた。雲仙がそれ以上、作品のことについて聞いてくることはなかった。その後、特に訳もない話をして、ちょうど時機が来たところで佐賀が「ではそろそろ」と言って立ち上がり、暖簾をくぐって出て行こうとすると、
「ん、どうした?」
佐賀はくぐろうとした暖簾をゆっくりと戻して、雲仙を振り返る。
「カーテンがなくてですね。できれば」
佐賀がそう言うと、雲仙は、分かった、とでも言うように一度、頷くのだった。
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