第15話 お誘い

 午後七時まえ、春の入り口はこの時間帯でも辺りが明るく、UNZENメンタルヘルスケアから見渡す街の景色は、茜色に染まる海底の珊瑚礁のように綺麗だった。


 ——! ——!


 背後から、地を踏みしめるドン! という音や、大きな気合声が聞こえてくる。


「佐ー賀さん」


 振り向くと真希が両手を後ろに組んで、佐賀に近寄ってきていた。仕事着の白い半袖、紺の長ズボンは少し寒そうだが、真希の元気さにそんなものは関係ないように見える。


「何されてるんですか」

 佐賀の横に立って、佐賀の見ている景色と同じ景色を見るように少し背伸びし、真希はそう聞く。絵を描いています、とはここでは答えず、佐賀は「この街が日本一ゴミの少ない街だって、ご存じですか」と答えた。三つ上の姉がいる佐賀にとって、真希はちょうどそれと同じ年齢に当たるため、こう横に自分よりも背の低い少し年上の女性が来ると、なんとなく姉に話しかけているような気持ちになる。


「それは、ヘロさんのやつですね」

 真希は察してそう言った。ヘロさん、やはりこの街では英雄が日常なのだな、と佐賀は思う。

「割と知られていることです。全国的には何も言われませんが」

「何者ですか、ヘロという人物は」

「さあ、話したことはありません。でも、この街の人たちならみんな、ヘロさんのことは誰でも知っていると思います」

「日本一ゴミが少ないっていうのは、ヘロが言い出したんですか」


 佐賀が聞くと真希は、そうですね、と斜め上を見て考えてから、

「ある日、ヘロさんがやって来てそれが発覚したというか。その前からずっと、この街はゴミが少なくて、治安も良かったんです」

 あ、と言って、「呼び捨てにしてるってことは」と真希は言う。


「この前、街を案内されました」

「へえ、それは」

 真希はどう反応するべきか、一瞬だけ頭の中で取捨選択をして「珍しいですね」と言った。


「珍しい?」

「はい、そういうことはないので、最近——」


 確かに、この前ヘロと街を歩いていて、ヘロがときたま見かけた誰かにサッと手を挙げたりしても、相手はどこか疎外的というか、距離を保っているというか、英雄と言っても人々とそれほど近い関係にはないのだな、という印象を受けた。


「それは、ヘロが英雄だからですかね。人々の認識の中で、英雄という存在が神格化されている、だから畏れ多いため、人はあまり話しかけない」

 真希はまた斜め上を向いて、そこで数秒考えていると。


「こんにちは!」


 紫帯をした子供がそう挨拶してきた。小学三、四年生くらいの男の子だ。真希は「怜太、もう少し早く来なさい」とその怜太という子に注意する。怜太は「はーい」と言って通り過ぎ、UNZENメンタルヘルスケアの扉をスライドして開ける。右側の玄関に靴を脱ぐのが見える。稽古が始まるのは六時だが、ここの道場生はその三十分前には集合して、各々、自主練しているらしい。佐賀は自分の過去を思い出す。


「元気で何よりですね」

 佐賀がコメントすると、「ええ、元気が一番です」と、様子を見送っていた真希は気を取り直して話を続ける。

「畏れ多い、でしたね。確かに、それはあるかもしれません。学年でズバ抜けた学力の子がクラスにいたとき、確かにクラスメイトではあるんですけど、無意識的に皆からは、ちょっと崇められてるみたいな」


 その説明に、なるほど、とやけに佐賀は腑に落ちる。というのも、空手の修行に明け暮れていた高校時代、あまりにストイックな日常を送る佐賀に対して、クラスの皆はそういう気概で自分に接していたなと振り返って感じるものがあるからだ。ヘロもそういう感じなのか。


「ただ」

 真希は続ける。

「いまは、ちょっとそういう意味ではないかもしれません」

「いまは?」

 佐賀は問い返す。すると真希は、それまで街の景色を見ていたのが、焦点を徐々に手前に持ってきて、すぐ下の地面を見て少し逡巡した。


「たぶん人によって、違います。英雄のいる街に住む人、それぞれで考えることが、いまはあるんです」

 佐賀がそれに対してすぐには何も返せないでいると、

「ところで、どうですか。ウチの稽古に参加するのは」

 ああ、それの誘いに来たのだな、と理解した佐賀は苦笑いして、「いえ、また今度お願いします」と言った。

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