第13話 UNZENメンタルヘルスケア
仕事に生活がある。
夕方になって佐賀はある場所へと向かう際中、そんなことを考えた。
絵師でも、図書館司書でも、英雄でも、その仕事に合わせた、多種多様な生活が営まれる。だから仕事に生活がある。
佐賀は、絵師の生活をしている。
何をしているのか、と聞かれればいつでも、「絵を描いている」と答えられるだけの絵の思索を頭の中で展開している。寝ても覚めても、ずっと絵のことを考えている。一分前も一分後も、これが途切れることはない。
だから絵師という仕事に残業はない。二十四時間三百六十五日、絵師は常に絵師であり、常に感覚は仕事をしている。何をしているのかと聞かれれば「絵を描いている」と答える。残業が無いというより、本業しかない。
これが仕事じゃなければ。佐賀は考える。
考えながら歩いていると、並木が桜の木であることに気付く。つぼみが頭を被っていて、あと少しで咲き始める季節だ——。
これが仕事じゃなければ。きっとこの桜のつぼみを見ても、そこからどうにか浮世を探ってみたり、そこに隠された何かはないかと思案したりはしない。ただただ、純粋に「ああ、もうすぐ桜の季節だな」と咲いて散る桃色の季節の花に思いを馳せるだけだろう。
仕事だから、絵の制作に結びつけようとする。仕事じゃなければ、感想を持つだけだ。ヘロ、彼は英雄という仕事をしている。それで、街の様子を観察するという共通点が英雄と浮世絵師にはあるが、仕事としてもっと根本的な部分、つまり、仕事じゃなければそんなことはしないのに仕事だからやらなければならないと使命感を持たせる所以のところが、英雄にもあるはず。その所以というのは、——いま、佐賀が向かっている目的地にある。
階段の麓に来ると、佐賀は考えている思考ページにしおりを挟んで奥の方にしまった。そこから数分かけて長い階段を階段を上ると、頂上に大きな日本家屋が見えてくる。
——本日の受付は終了いたしました。
入り口の少し前に立ててある看板を素通りして、佐賀は入り口の前に立つ。
いつ見ても質素で荘厳な建物「UNZENメンタルヘルスケア」、そう木彫りの看板が入り口の上に掲げられているドアを、佐賀はスライドして開ける。
開けると、伝統的な日本家屋の玄関が左右に二つある。正面を見ると下駄箱の上には小さな鉢が置かれ、淡い紫色のヒヤシンスが一つ育っている。
右側からは地を踏む音や気合声などが聞こえてくるが、佐賀が用があるのは左の方だ。向かって左側の玄関に靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて奥へと歩いて行った。
待ち合い室には患者が一人いるのが分かった。出来るだけその患者が視界に入らないよう、佐賀は真っ直ぐ受付カウンターの女だけを見て、歩いて行く。
「佐賀です」
やがて受付の女にそう小さく言うと、
「佐賀さん」
院長の娘である雲仙真希はそう言って、ちょうど後ろでカルテか何かの整理をしていた年下の女に「佐賀さん来られましたって院長に」と声をかけた。年下の女は「はいっ」と素直な返事をして奥に伝えに行く。ちなみに真希は佐賀よりも三つ年上で、未婚だ。
「すみませんが、二十分ほどお待ちください」
後輩の子が戻って来て真希に何かを伝えると、真希が佐賀にそう言い伝えた。
「分かりました」
佐賀は患者ではないが、待合室の席に座って、おとなしく静かに時を過ごす。精神病院の待合室は、とても静かだ。
何分かして誰かが奥の診察室から出て来て、入れ替わるように誰かの名前が真希によって呼ばれ、その誰かが奥に消えていく。
「佐賀さん。佐賀謙さん」
その誰かもやがて出てきて、ようやく真希はそう声をかけた。
「やめてください、患者みたいに呼ぶのは」
佐賀は診察室のある奥へ行く際に、受付の真希へ一声そう声をかけた。
「病気なんです。職業病という」
「突発性の」と言うと、真希は「後天性の」と返した。
営業が終わった院内は、片付けの雰囲気へと変わった。真希や、他のスタッフたちは勤務終了に向けて動き始めるが、そんな中で佐賀が診察室の暖簾をくぐると——
「どうだ。調子は」
UNZENメンタルヘルスケア院長、雲仙観、齢六十二が毅然とした姿勢で座っている。超然、その二文字が似つかわしい人物だ。
佐賀は「あの二枚は捨てました」と言った。
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