第6話 この街の英雄
喫茶店に入って来た人物は、一人で読書している女子大生らしき女の子に何やら話しかけた。女の子は少し困りつつもそれに応答するといった感じだ。男子高校生三人組は遠慮なくその人物にスマホのカメラを向けて写真を撮影する。それに気が付いたその人物は、よっ、と気さくに手を挙げるように挨拶してみせる。それを受けた男子高校生たちは「格好え!」と無邪気だ。
「コーヒー、ね」
そう言ったのは喫茶女房で、それに対してその人物は「お願いします」と返した。喫茶女房はなぜか少し驚いたような、そんな息遣いをしたように佐賀には見えた。
そのまま店の奥へと歩いて来て、
「おはよう千尋さん」
そう言って千尋たちのテーブルに体を向いて、近くのカウンター席に座った。
「おはようございます、ヘロさん」
ヘロさん。やはりこの人が。
その人物の本名であるかのように千尋がそう返すので、それは自分と話す時よりも少し親しみある声のように佐賀には感じられた。
「えーと」
と言って、ヘロは千尋の前にいる男、つまり佐賀に気を配るようにして、千尋に彼の説明を求める。
「佐賀さんです」
察した千尋は、片手のひらで佐賀を紹介しながらヘロに言う。「どうも」と佐賀は軽く会釈をする。
とてもわけの分からないことだが、佐賀の態度はこのとき、一瞬の判断のバグによって、なぜか自分が千尋と交際をしているという誤った自覚をしたようなのである。
はーなるほど。
綺麗な女性を彼女にしている男が同性へと放つ威嚇に対し、そんな意味ありげな納得した表情をヘロは顔に漏らしているようだった。
「初めまして、僕はこの街で英雄をやってるんだ。まあ、気軽にヘロと呼んでくれ」
誤解させたなと自分の態度や顔つきを顧みてすぐ佐賀は思ったものの、その誤解をあえて払拭などはせずに、佐賀は少し目線を切るようにしてまた軽い会釈だけしてみせる。
「英雄をやっている?」
ヘロではなく、千尋に対してそう聞く感じの佐賀。「誰コイツ」と彼氏が彼女に少し詰問するような語調だ。
千尋はというと、
ヘロさんに聞いて下さい。
と声には出さず、キッパリとしたジェスチャーでその質問の宛先をヘロに促すのだった。
「えっと、英雄をされていると聞きましたが」
なかなか、はっきりした女性なんだよな。そう佐賀は、千尋に対して思う。
「ああ、そんな丁寧にしないでくれ。大体、見た目で同年代って分かる。ところで、僕のことを知らないということは、佐賀君はまだこの街のことはあまり知らないのかな」
この街のこと、と聞いて、佐賀はなんとなくではあるが、この街には他の街とは異なるところがあるとは感じる。それは浮世絵師としてこの街にやって来て、観察している日常を総合的に俯瞰して感じるものだが、それはやはり感覚的なものであって、芸術がそうであるように、決定的なものは何もない。
決定的なもの——
「ああ、まだ越して来たばかりで」
確かに街中を歩いていて、街そのものに違和感を覚えることはある。この街は、ちょっとした規模の駅を中心にできている印象で、周りは田圃と畦道に囲まれた孤立都市のような造りをしている。それは、見知らぬ街で新生活を営む者としてナチュラルな違和感として心に浸透してくるものだが、それも直、慣れることだろう。佐賀がここで感じる、他の街と違う、というのは、もっと他のことについてだ。
なんだろうか、街を見つめていて、感覚として分かるこの違和感は。
「そうかい」
千尋のアズミセットは、もうじき食べ終わる頃である。
「じゃあ英雄として、僕がこの街を佐賀君に案内しようかな」
英雄として。
何か、英雄という単語が、佐賀の知っているヒーロー的、超人的、特異的なニュアンスとは違うものとして使われているのではないか、佐賀は、そんなことを考える。この街には普通に英雄がいる。それだけで、他の街とは異なっている。ここ二週間で佐賀が感覚として抱いてきたものが、いま目の前にギュッと凝縮されているような、そんな視覚体験をしているみたいだ。
「ああ、よろしく」
まだどこか、佐賀の言動から見て取れる態度には「俺は宮間千尋の交際相手だ」という堅実で冷静でバカバカしい主張が残る。
「よし、じゃあ」
「はいコーヒーお待たせ」
行こう、と言おうとしたであろうヘロの後ろから、カウンター越しに喫茶女房の手が伸びて来る。ヘロは、あ、どうも、と会釈を返す。心なしか、佐賀にはその喫茶女房の口調は、出鱈目なものに聞こえてきた。
「これを飲み終わったら行こう」
違和感。考えすぎか、と佐賀は思い、チラ、と千尋を見てみると、
いいじゃないですか。
そういうように一度、コクンと頷いてくる。
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