第5話 空想の美術館

 その「あ」と言った千尋の表情を佐賀は目の前で見ていた。佐賀は、界隈では名の知れた浮世絵師だ。日常の中でふとしたこのような瞬間に、いつか描きたい、と思える光景と出会うことがある。だから佐賀は、いつ、なんどき、コーヒーを啜っているときでも、図書館で会話をしているときでも、何をしているのかと問われれば「絵を描いてる」と答える。


「あ」と口を開き、何かを見る女性。


 たった数秒の内に、佐賀の頭の中で絵の下書きが出来上がる。この絵の中の女性がいったい何を見て「あ」と口を開けているのか。


 空想の美術館に展示されているその下書き。


「きっと恋焦がれている人が来たのだろう」

「いや、ただ知り合いが待ち合わせに来ただけだ」

「窓の外で落雷があったのかもしれないし」

「革命軍が銃を持って入って来たのかもしれない」


 それを見て、様々な反応が飛び交うのを想像する。



 

 その答えは、いまから佐賀が探しに行く。




「あ」と彼女が見ている人物を佐賀も見て、それが彼女にとって何者なのか、また、佐賀にとって何者なのか。


 その答えを、いまから佐賀は探しに行く。これからの数秒は、そのスタートラインを切る決定的な瞬間だ。


 千尋の知り合いとして、しかし、俺はただの知り合いじゃないぞ、と何かを主張するような表情で、佐賀は体ごと後ろへ振り向く。ドアを開けて入って来た人物を見る。




 あ?




 声に出さず、佐賀は口を開けた。浮世絵師として観察者でいようとこの場は心がけたつもりだったが、瞬時に視界に意識が集中し、思惑が染まるように脳を広がっていく。


「英雄です」

 耳の後ろから千尋の声がよく聞こえて、佐賀は二分なのか二秒なのか知れない、遠い時間から帰って来たような気がした。


「ああ、英雄だ」


 自分がこの街に来た理由。佐賀は、それを頭の中に思い浮かべている。

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