第3話 八時の魔法
女性の名前は千尋といった。
「千と、って思ったでしょう」
「いや。『贅沢な名だね』と思った」
佐賀がアニメーション映画に登場する顔の大きな老婆を連想させるように言うと、千尋は「よく言われます」と返した。
「サガケン」
千尋から名前を訊かれて、佐賀は県名を言うトーンで答えた。
「佐賀県? 出身じゃなくて名前です」
千尋はそう言って、細長い指でカップを摘まんでコーヒーをすする。時刻はちょうど八時前だ。
「サガケンだよ」
「ああすみません。芸術家は話が通じないんでした」
「大丈夫、これは言葉のマジックだ。イントネーション一つ変えるだけで通じる話が通じなくなるっていう」
千尋が視線も合わさず何も返さないので、外した佐賀は「んん」と喉を鳴らす。
「佐賀謙。謙虚の『謙』だ」
空に人差し指で文字を書きながら、今度は名前のトーンで言う佐賀。
「どうせなら本当に『県』だったほうが面白いけどね。箔が付くというか。サガケンという芸術家の名前が、人々の記憶に残る」
佐賀は三角に切られたトーストの端にスプーンでイチゴジャムを乗せ、かじる。二人がいた市立図書館の向かいの通りにこの喫茶店はある。新聞を挟む以外にもやることが一通り終わったころ、佐賀が「仕事を手伝ってくれたお礼がしたい」などと言って向かいにある喫茶店のモーニングへ行く提案をすると、何の温度の変化もなく断られるかと思ったのが、千尋は「いいですね」と誘いに乗って来た。少し意外だった。
「ハクは付いて来ないでほしいです。子供のころからそれで、からかわれたりしたので」
今度は「箔」と「ハク」のイントネーションの違いだ。
「名前を取られる前は白竜とかだったかな」
「見た目はそんな感じですね。でも名前はもっと古典的というか。ナントカノコハクヌシみたいな」
「ああ」
何度かしか見たことがないのでそれが正しいのか正しくないのか知らず、佐賀は適当に短く返事をする。千尋が悪戯っぽく唇をかむ。
「ニギハヤミ、ですよ。思い出しました」
「うん?」
千尋は、表情が生き返ったかのように動いていた。まるで魔法が解けた、みたいに。佐賀はそんな千尋の表情を見て、思考と返事が一瞬だけ遅れた。この一連の流れに一体、何があったというのか。時刻は八時を過ぎている。
「ニギハヤミコハクヌシ、ハクの本当の名前です」
「良かったじゃないか、本当の名前を思い出せて」
「はい。元の世界に帰れます」
千尋がフレンチトーストをフォークとナイフで切り取る動作には品がある。千尋は一口サイズに切り取ったそれにナイフでメープルシロップをペタ、と付けて、フォークで口へ運ぶ。佐賀は普通のトーストセットで、イチゴジャムを拭って口に入れる。
「さすが千尋なだけあって詳しいわけだ。俺は佐賀謙なのに、佐賀県のことは何も知らない」
特製コーヒーを啜る。不味い。
「佐賀県民以外で佐賀の何かを知っている人は、たぶんあまりいないと思いますよ」
千尋は正直なことを言う。佐賀は「確かに。じゃあ佐賀県民はこの佐賀という絵師を知ってくれているのかな」と適当なことを返す。千尋は「聞いてみないと分かりません」と言いながらもナイフとフォークを扱い、意識の大部分はアズミセットのフレンチトーストに向けられている。フレンチトーストセット、ではなくアズミセット。「喫茶アズミ」の屋号から商品名を付けているあたり、お店にとっては自信の品なのだろう。
「ところで、ここはフレンチトーストで有名な店なのかい」
千尋のフレンチトーストは、バターと卵が中までじゅわりと染みていて、とても美味しそうだ。街中の喫茶店の品というより、高級フレンチのスイーツみたいな。
「前のマスターが考案されたみたいで。確かにフレンチトーストで有名ですね」
佐賀は少し、内装を見渡してみる。近年の欧米チックでインスタントなカフェではなく、昭和レトロに年季を滲ませた趣が、即席では絶対に出せない価値を時代に生き残しており、それが不思議と現代にあっても違和感のない文脈を含んでいる。一体どんなマスターだったのだろう、と佐賀は気になる。
見渡していると、他のテーブルには一人で読書をしている女子大生らしき女と、これから学校に行くらしい紺のブレザーの男子高校生三人、それと、カウンターにはこれからゲートボールに行くらしいおじいさん二人が、焙煎機やジューサーなどが見えるカウンターの中にいる喫茶女房と話し込んでいるのが窺える。
「へえ、もうそのマスターはいないのかい」
残ったイチゴジャムを拭い、ひょい、とトーストの最後の一片を口に入れる佐賀。千尋のアズミセットはまだ、半分ほど残っている。
「はい、よくは知りませんが、不慮の事故で亡くなられたみたいで」
「そうか、会ってみたかった」
千尋はそのとき、店内の時計を見た。金メッキで荘厳な飾りが施された、大きな振り子時計だ。佐賀は、その視線の動きを見逃さない。
「分かった。あの時計は実は、歴史的に価値のある振り子時計だ」
視線を追い、同じところを見て佐賀は言う。お店の壁の真ん中に、堂々と置かれた大きな振り子時計。それも前マスターの趣味なのだろう。
「それは知りませんが、時間を確認しただけです。八時五分。本当なら、もう来ているはずなんです」
「うん? 誰が」
佐賀は有名人を頭の中で検索する。あいにく、もう何年もテレビを見ていない佐賀にとってピンと来る人物はほぼいない。
千尋はこのとき表情一つ変えることなくサラリと、
「この街の英雄です」
と言った。
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