第2話 笑えるじゃないか

「あなたが気持ちよさそうに寝ていたから起こさずに、そのかわり鍵はかけないでおいたんですよ。だからなんでまだここに居るのか、もう帰ってるだろうと思ってました」

 女性は手を止める。


「もしかして、終電で寝ているサラリーマンを起こしてあげたときに、ブチ切れられた経験でもあるのかい」

「いえ、特に」

「ならよかった。そういうときは起こしてくれて構わないんだぜ。きっと感謝されるよ」

「覚えておきます」


 女性は姿勢を正し、上半身をひねってストレッチをする。肩にかかる程度の髪は雉の尾のように後ろでまとめられており、化粧は薄く、肌は白い。

「まあ、おかげで普段無いような経験が出来たのは事実さ。その意味では君に感謝しないといけない」

「どういたしまして」

 ストレッチをしながら、軽く女性は受け流す。


「ところで君は留学でも行ったことがあるのかい」

 さっきの英語の発音は、英語圏で留学でもしないとそうそう身につかないものに思えた。

「いえ、中学生のころ一週間ホームステイしたくらいです。ミシシッピで」

 女性は言いながらバッグを開き、何かを両手でワシ、と掴んでカウンターの机に置いた。そこには、十部くらいの新聞が綺麗に重なっていた。


「なるほど、君は天才というわけだ。一週間で英語をマスターするとは」

 いえ、と女性は言いつつ、席を立ってカウンターを出た。佐賀はそれを目で追う。

「その頃は英語で自己紹介するのがやっとです。でも誰だって大学まで十年も勉強すればある程度は普通に喋れるようになると思いますけど」

 女性が歩いて行ったのは、十個ほどの新聞が洗濯物のタオルのように干されているコーナーだった。佐賀は昨夜そこから一つ拝借したため、一つだけ何も挟まれていない新聞ばさみがある。


「それを天才と言うんだ。ある程度とか普通っていうことが、他者からすれば常軌を逸している」

 女性は「ありがとうございます」と言って、十個ほどの新聞ばさみを外して次々に新聞を回収する。とても素早い作業だ。


「なかなか大変そうだね」

「ええ、大変じゃない仕事はありません」

「残業があったとは」

「残業のない仕事もありません」

「俺は大変も残業もない絵師なんだけど」

「じゃあそれは仕事じゃないと思います」


 十個ほどの新聞を手に、十本ほどの新聞ばさみを胸に抱えて、女性はカウンターへ戻って来る。どうすればそんなに持てるのか不思議なほどだ。

「手伝おうか」

 佐賀は席を立とうと前傾姿勢になる。


「いえ、これは私の仕事なので」

「でも、前業なら給料は出ないんだろう」

「ええ、私が進んでやっていることなので」

「じゃあ、給料が出ないものを仕事とは呼べないな。つまりそれは君の仕事ではないかもしれない」

「どういうことですか?」

 女性はただ、話に合わせて聞き返しただけだった。


「俺の仕事かもしれないってことさ」


 カウンターに座った女性は、作業を始めようとする手元を止め、佐賀をチラ、と見た。感じ方によっては、睨まれた、そんな風にも見える、強い目だ。

「否定はできませんね」


 女性はそこで初めて微笑んで、佐賀に新聞ばさみを三つ渡した。なんだ笑えるじゃないか、と佐賀は思った。

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