命の順位

千羽稲穂

トリアージ

 今日で二回連続、動物が轢かれた死体を見た。道路に横たわる灰色の物体はいつも原型をとどめていない。ぺったんこになって毛並みだけがその動物って分かる程度。それなのに猫だって分かるのは、型抜きみたいに形をそのままにして地面にひっついているからだ。地面に猫の形をプレス、象られた猫は毛並みは血が乾いて黒ずんで顔も口もないけれど耳の三角形は見受けられ、にょろんと伸びた尻尾だけ黒い塊から外れている。ふっと風が吹くと塊から伸びた毛並みがさらりと草原のように揺れた。死体は、誰にも供養されずに踏み潰されどんどん小さくなり消えていく。それを朝に一回、大学から帰る帰宅途中に一回、計二回、別々の場所で見てしまった。その都度気持ち悪くなり、蹲ってしまう。襲いくるとてつもない大きさの虚無感で心の隙を広げられていく。隙間に死体の悲しみが放り込まれた。私の瞳の中から勢いよく雫がこぼれ落ちる。うっ、うっと、嘔吐えずいてしまう。めまぐるしく上下左右に揺さぶる感情を対処する方法は見つからず、どっと頬を濡らしてしまう。悲しみは留まることを知らないで次から次へと流されてしまう。

 命が潰えるところを見るのは苦手だった。

 距離は関係ない。どこか知らない場所で地震が起こったとニュースが流れたときは知らない間に涙で服が濡れていた。噂伝で聞いた、同級生が自殺したことを聞いたときにはその日はベッドから起き上がれなかった。友達の犬が寿命がつきてしまうかというところをちらっと見てしまった時がある。犬は弱々しく部屋の隅で寝ていた。寝息が弱々しく今にも消えそうだった。しまいに犬と友達の前で瞳を濡らして頭を擡げた。黒い何かに襲われるときどうしていいか分からない。黒い何かの中に感情が放り込まれて、ぐちゃぐちゃになる。

 幼いとき、友達が蟻塚に水をそそぎこみ遊んでいて、蟻が水たまりにぽつ、ぽつ、と浮いているのを見て耐えきれず友達を叩いてしまったことがある。理由は蟻がかわいそうだったから、とかそういうことではない。ただ命が潰えるところが怖かった、というのもそうだけれど違う。沸き上がる感情には、深い怒り、深い悲しみ、深い虚無感、と深度が大きくて、幼い私にはどう言い表していいものか分からなかった。

 バッタが人間の足で踏み潰されて地面に横たわっていても、蚊が叩かれてぺしゃんこになって掌に張り付いて死んでいても、バルサンをたかれてゴキブリが部屋の中で苦しんで死んでいても、私の感情は反応する。日々消えていく遠くの人を想って胸を痛めて、授業中にノートを濡らして、教科書に載っている歴史を読み解き、第二次世界大戦で消えていった多くの人々に「苦しかったね、つらかったね」と胸をつかれてしまう。「こんなことがあっていいものか」と怒って、どうしようもできない自分を許せず、「どうして生きているんだろう」となじって、「ごめんなさい」と哀れむ自分を見て、「どの口が言えるんだろう」と判断する自分を殺してしまいたくなる。

 命に対して感情が制御できないのだ。

「繊細なんやろ」

 母は私のことをそう言って責め立てやしなかった。命が消える前で立ち尽くす私に何も言わず、「あなたが言葉を持ったときにゆっくり今の気持ちを言えばいいわ。お母さん、それまで待てるから」と、言ってくれている。

 とめどなく流れる、とか、自分の中に穴が開いていろんなものが詰め込まれていっぱいになる、とか、頬が知らないうちに濡れている、とか待っていてもそんな言葉でしか表現できないのに。

 今日で二回、死体を見てしまい身体が重かった。地球の重力が肩に全てかかっているかのよう。家に帰るのにいつもの三倍もの時間をかけてひきずって、玄関ドアを開けると、母が立ちはだかっていた。

「落ち着いて聞きぃ。

 おばあちゃんが亡くなった」

 私の姿をみるなり母は、端的に言った。

 これで今日は三回目。

 私の感情は凪ぐ。さきほどまで重力がかかっていたのに、全部とっぱらって、海のさざなみすらも消え去って、きんきんとした耳鳴りも、ぐちゃぐちゃの感情もまっさらになった。

 何も、感じなかった。

 今まであった、あの感情の乱気流はどこかへ吹っ飛んで、呆然と目の前の事柄を受け取るしかない。淡々と今ある事柄を踏みしめて、祖母の死を眺めている。こんなに身近な死であるのに。これまで教科書に載っていた名もつかない死ではない。虫のような小さな命ではない。祖母だ。身近な命だ。それなのに。

 瞬きの間に祖母の葬式が行われる。カシャッ、と瞬きでシャッターを切る。遺族の言葉。泣きながら話す弔問客。次第に響き渡る鼻をすする音。すん、すん、と鼻を吸って、祖母の死をこらえている。遠くだと思っていた音は意外と近くにあって、目を落とすと、母が蹲って泣いていた。

「お、か、あさん」

 苦しく漏れ出す声にも、カシャッとシャッターをきる。どこか壁一つ隔てた先に感情がある。分厚い壁によりかかるけれど、うんともすんとも言わない。カシャッとシャッターを切って、立ち上がる。祖母の遺体に父が添う。母が額をなでてキスを落とす。私は無表情のまま棺が運ばれるのを眺める。何回も、シャッターを切って、最高の一枚を選んでいる。棺が火葬場にたどり着いても、今から燃えるのだな、とだけ考える。私は一体どうしたのだろうか。今から死んでもいいくらいに、深く深く感情が揺さぶられるはずなのに。父が私の手を握った。震えていて、汗がじんじんと浸透する。ごつごつと骨張った掌が私の指の関節にぶつかった。掌の青い血管が浮き出ていた。どく、どくと脈うつ音がする。

 生きている。カシャッ。生きているのだ。カシャッ。

「大丈夫か」

「うん、なぜか分からないけど何も感じん。いつもは、とっくに身体が崩れ落ちてるはずやのに」

 祖母とはあまり関わっていなかったのもあるのかもしれない。記憶がないわけではない。蟻塚の一件で泣いて帰った私を祖母は力強く抱きしめてくれた。あの温もりも覚えている。「大丈夫」と囁かれた声は鼓膜をなでつける。記憶を掘り起こすと、何度も「大丈夫」と聞こえてくる。漠然とした大きな感情は、周囲の人間が包みこんでくれた。

 今も、父から「大丈夫」と手を握ってくれているのに。

「そっか。でも、大丈夫や」

「大丈夫?」

 父は、喉仏をごろっと動かして、

「あまりに大きな出来事に会うと、逆に冷静になってしまうことがある。だから待てばええ。そしてゆっくり受け入れていけばいい」

 母が、私の背中から抱きつく。震えていた。鼻をすすって、和やかなトーンで、

「あんたがいつもと違うのはそれだけおばあちゃんのことが好きやったからやろ」

 途端に、ごうごうと燃え立つ音が響き渡る。頭上に散開する灰色の煙が空に消えていく。あれが祖母だと思えなかった。手を伸ばせば追いつくような気がした。ジャンプしたら、ひとっとびで隣に立てる。昨日までいた記憶の影がすぐにも消えそうになっている。

 忘れてしまう。忘れたくない。

「おばあちゃん」

 言葉に意味がはらむ。今まではただ虚無感に支配されていたのに、祖母の存在が大きすぎて感情が消えてしまっていた。

「あんたが、おばあちゃんのことそんだけ好きやったんや」

 とめどなく流れていく悲しみ、怒りは一気に吹き出す。頬が歪んで、瞳にうっすらと水の膜が張られる。潤んだ視界はこぼれ落ちない。

 私は思わずうつむいて顔を手で覆った。

「かなしい」

 父がもっと力強く握る。「ああ、悲しいな」と同意してくれ、「ええ」と母は待っていた言葉を歓迎した。

 そうじゃないのだ。

 私は、泣いていない。

「わたし、かなしい」

 バッタと祖母なら、祖母だ。蟻と祖母なら、祖母なのだ。今日死んでいた猫二匹と祖母なら、私は祖母の方が想っているのだ。

 私の中で命の順位があるのが悲しくてしかたないのだ。

 ぐちゃぐちゃだった感情が整理されていく。祖母への悲しみが区切られ、どどどどと押しよせる波が大きくなる。シャッターをきる私の瞼は落ちていった。涙の海が迫り来る。温かくて触れたくなる。分厚い壁などない。こちらに迫ってくるのを待てばよかったのだ。大きな津波にさらわれていくのに身を任せて、私は大きな声で生まれたての赤子のように泣き叫んだ。

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