部署移動≒異世界召喚では?

 はぁ……。会社についてしまった。


「おはよう田中君」


「あ、ああ。おはようございます……」


 帰りたいという帰巣本能が俺の脳内を満たしていたその時、俺の背後から声が聞こえ、反射的に返事をしてしまう。


「橋本部長、今日は朝早いんですね」


「まぁね。君は毎日早すぎるんじゃないのかい?」


「ええ、まぁ……。新人の頃の癖が抜けてなくて」


 俺の線の先には何とも人のよさそうな50代の男がコーヒーをすすりながらくつろいでいた。

 そして、今この瞬間この場にいるのは俺と部長の二人だけだ。

 部長は別に何とも思っていないのだろうが、クソ気まずい。

 何か気の利いた一言でも言えればいいのだろうが、何も浮かばずに軽く頭を下げて自分のデスクに向かっていく。


 一見綺麗に整理されている俺の机は、よくよく見てみると雑に書類を雑に重ね隅っこに押しやっているだけで整頓とは対極の位置にいた。


 昨日めんどくさくなって途中で投げ出した書類に手を付けようと椅子に腰かけると、橋本部長が声を掛けてくる。


「ああ、田中君。悪いんだけどさ、その……田中君今日から異動になったんだよね」


「……え? 僕がですか?」


「その……。ほんとの急で悪いんだけど、君からの視線が嫌だって言う子がいてね……」


 俺からの視線が嫌?

 一体何の話だ? 別に見るくらい良くないか?

 減るもんじゃないだろうし。なんだったら俺のことも存分に見てくれていいのに。

 って言うか、行ってくれれば、隅から隅まで俺の生まれたときの姿まで見せるのに。


「視線って、どういうことですか? そんなに失礼なことした覚えないんですが……」


「おっかしいな……。」


 口に手を当てて何かを考えこむように数瞬の間黙り込む橋本部長。

 その姿からは先ほどまで体の端々からにじみ出ていた人の好さは無くなり、『部長』という肩書に恥じない程度の何かを放っていた。


「田中君、君が向けてるつもりが無くても、他の社員の子たちは感じてるんだよ。申し訳ないんだけどさ。これ」


 つい数行前にも言っていたセリフをもう一度繰り返す。

 橋本部長はデスクに就いたまま俺の方に向かって手を伸ばし1枚の紙を差し出してきた。


「何ですかこれ?」


「異動辞令だけど? ……この体勢きついから早く受け取ってくれない?」


 よく見ると、腕がプルプルと細かく震えてる。

 心なしか部長の息遣いが荒くなっている気がする。

 ……おじさんの息遣いなんて一部界隈でしか需要無いぞ……。


「あ、ああ。すいません」


 はぁはぁと少し色っぽい雰囲気をまとい、俺のことを上目遣いで見つめてくる橋本部長から目をそらしてその書類を受け取る。


 書類に書かれた文字を上から順に追っていくうちに、今度は俺の息が激しくなり腕が震え始める。


「田中君、その……残念だけど今日からここには君の居場所はないんだ」


 部長のその慰めの言葉は右から左へときれいに抜けて行ってしまい、俺の脳に何一つとして情報を残さないままに霧散していく。


「橋本部長……ほんとに、本当にここに移動なんですか……?」


「ああ……その……気の毒だが……」


 現実だと認めないためにお、書類に書かれている文章を何度も読み返す。

 しかし、その文字列は何度読み返しても変化することは無く、現実を俺に嫌というほどに叩きつけた。


「田中君。本当に申し訳ないが今日からに異動だ」


 

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