第130話 清めの一族

 ケダモノ共がひとつの肉塊につぎつぎと喰らいつき。皮膚を裂き、血しぶきをあげながら肉を裂き、骨にまで牙を突きいれかみ砕きし、既に息の根のとまった肉塊ではあったがあたかも生きて藻搔いているかのようにびくびくと動かされ。四半時もかからずに肉の喰いつくされて骨だけとなり、その骨も奪いあい、手にいれられたものは噛みしめ噛みしめして味わい。ときに玩具としてもてあそび。地面には血痕とわずかな残骸だけを残し。青バエどもが遅れてあつまり、手をすり足をすり。青みどりに光る点々。風雨もあるわけだから、そのうち何事もなかったかのように跡形もなく消しさることだろう。その存在自体が、もともとなかったかのように。いや、そもそもこの世にあったものと認識されていることの希薄な存在であり、いようがいまいが大抵の人らにとってはなんの関心もひかぬもので、はじめからなかったようなものであろうけれど。薄情だとか無関心だと眉をひそめたりため息をついたりすることのなく、それは他人にも吾にも。詮ないことではないだろうか。喩えば、葉がおちたとき、虫を踏みつぶしてしまったとき、いちいち気にとめていたら、とても生きてゆかれるものではないだろう。そういう現実を認識しながら生きてゆくことになれば、とうてい正気を保ってゆくことなどできなさそうで、考えてみれば正気を保てないということもひとつの救いの手段であるのかもしれない。それはそうであるとして、あまりに無関心に、無頓着にすぎたのではないか、とリウは自己を省みる。さりとてイヌどもを憎んだり厭うたりするわけでなく。惨たらしく咬みつき砕き裂き貪りつくしたりしないだけで、吾もまた他のいのちを口にして生きながらえているわけだから。


 コラダーイトショだいだいと飾られたやなにより目出度いと


 春のはじめの初夢はきさらぎ山のくすのきで


 フネを作りしいま降ろし


 しろがね柱を押し立ててコガネの千両含ませて


 綾やニシキの帆をあげて 宝の島にはせ込んで


「どないしたん。キズ痛むん?」

 うしろから女声に問いかけられて。ずだ袋を被らされた格好で地面に投げだされ、そうでなくとも不意のことであった上に視界が遮られていたこともあり受け身をとることのかなわず、顔面や右腕をしたたかに打ちつけてしまい。幸い骨にヒビや折れ、脱臼などはせず、擦りむきや打撲だけですみ、それもべろりと皮がむけたりするほどのものでもなく。そのいわばかすり傷のところに、どろどろと黒ずんだ薬草を煎じたものを塗ってもらってあり。なにがはいっているのだろう。トチの実、ヤマユリ、とまではかろうじて判るが後はつかめない。あまりにドクダミの臭いが強烈で。カメムシを押しつけられたかというほどの。乾かしたものではなく、ナマのものを磨りつぶしたものらしく。もって来られ塗りつけられているときは思わず眉をひそめそうになったものの、慣れたのか臭いが落ちついてきたのかさまで気にならなくなり。不快ではなく、むしろ懐かしさすらあり。母と父とともにいた時分、家の裏に十字の白い花をつける草が群がっていて、踏んづけてしまったことを思いだしたりして。

「痛むなら、もっと塗ったろか。たりへんかもやし」

「いや、いい。だいじょうぶ」

 塗られまいとするかのようにリウは前かがみになると、

「冗談やて。そんなにいやなんや。くさいもんなぁ。そやけどきくんやでぇ」

 色が黒くて細い女わらべがあげる笑い声。橋の下、かろうじて柱と屋根のあるもののなか、ムシロを敷いた上にリウはいて、イヌの群れがなにか(何であるか分からなかったが、知りたいとも思わず問わなかった)を食したり戯れたりしているのを眺めていて。残飯だとか屍肉にたかり忌まわしいもののように言われるが、はたしてそうなのだろうか、とふとリウは思い。それらはイヌの他に、カラスがいて、ハエがいて、アブラムシがいて。とり去り、いわば掃除をし、腹をとおして自然に還してゆく一環としてあるだけであるというのに。リウが思いめぐらしているなか、女わらべが笑いころげていて。女わらべの家族であるのか仲間であるのか、雰囲気としては似た老若男女が十数名ともに。拐かされた最中、突如ノライヌどもに囲まれた物音気配がして、逃げるに邪魔であったからか、オトリにして逃げのびやすくするためか、投げだされ置き去りにされ。ニワマキ含むごろつき連中が馳せ去った後、ずだ袋がはがされる。イヌどもが咬みつき引っぱりあげているものか、とり去られながら、喰いころされるのだろうかと目を見ひらいて待ちうけていて。死にたくない、生きていたいと強く願いながら。なんとか逃げおおすことができぬものだろうか。とりあえず喉もとを裂かれないようにして、近くの家屋に駆けこめば。うまくゆくだろうか。それしか手だてはないだろう。せめてもう一度だけでもシュガと会いたかった、と思いかけ、その思いを振りはらう。会うのだ、なんとしても、生きて。躰があらわになり外気にふれたとき、牙の群にむかえられ。さりながら牙をむいているものはなく、威嚇して唸ったり吠えたりするもののなく、むしろキュンキュン鳴いてあげた尾をふったりしていて。

「ほんまにろくでないやつらやなぁ。あんちゃんも、ええとこのボンボンなんやから、のこのこひとりで歩きまわったり、ついていったりしたらあかんで・・・・て」


 春のはじめの初夢はきさらぎ山のくすのきで


 フネを作りしいま降ろし


 しろがね柱を押し立ててコガネの千両含ませて


 綾やニシキの帆をあげて 宝の島にはせ込んで


 つんだる宝を数々とこのやのお蔵におさめおく


 一匹がうしろ脚二本で立ちあがり、人語で話しかけてくる。というわけでなく、小柄な女人がひとりいたもので。まだ若い、というより稚いくらいの、粗末な格好をし、全体的に薄汚れたものが、目をまるく見ひらき。声いろといい、見た目といい、憶えのあるもので。

「あ、あんちゃん、あんときの。リ、ユ、いうたか」

 すこし前、タマ、ハナ、トリ、カゼ、ツキのいるところまで案内してくれたコッコと名のった女わらべで。コッコはしきりにすり寄ってくるイヌどもの頭や背を撫でてやりながら、

「まぁはなしは後やな。ケガしたはるし」

 助けおこされたリウは、コッコについて河原までくる。守るかのようにイヌどももついてきていて。なんでも、コッコの属する人らとイヌは親しい間柄なのだそうな。使役しているとか飼いならしている、という距離のあるものではなく。しょっちゅう声をかけあったりしていたりもなかったが、意思の疎通がはかれているのが傍目にもそぞろに見てとれる。橋の下にいた人らは、リウがあらわれても特に注意をはらうでなく、おのおの、釣りざおだとか面を作っているものら、唄ったり踊ったりしていて。リウはムシロに坐らされ、異臭をはなつ液体を右頬や右肩に塗りつけられ。

「ケガもたいしたことなさそうやし、キモノもやぶけたりしてしてないし、なによりやったな。で、なにがあったん」


 サーサ舞いこんだ舞いこんだ


 なにが先に立ち舞いこんだ コラ


 ・・・・が先立ち若・・・・が舞い込んだ


 よもの棚を見わたせば鏡のモチも十二重ね神のお膳も十二購


 コラダーイトショだいだいと飾られたやなにより目出度いと


 春のはじめの初夢はきさらぎ山のくすのきで


 フネを作りしいま降ろし


 しろがね柱を押し立ててコガネの千両含ませて


 綾やニシキの帆をあげて 宝の島にはせ込んで


 つんだる宝を数々とこのやのお蔵におさめおく


 サア何よりも目出度いと


 コラ目出度い目出度い商売繁盛ごかない繁盛みなさまおまめで金もうけどっさり


 先ほどまでのあらましをざっと語り。語りながら、あの攫われかけている最中は自分を利用する目的であったのではと思ったものだったが、そもそもはリョウヤであったのかもしれないと心づく。リョウヤを攫って身代金狙いはむつかしいだろうから、監禁するなりしてうちの子がいないのはどういうことだとねじ込み強請るつもりであったのか。大けがを負わせたり、最悪殺めて、ということも、あり得たかもしれない。吾がいたものだから、より確実な駒だということで引きぬかれたのだろうが、とりあえずリョウヤを守ることはできたわけだからよかったのかもしれない。偶然とはいえ、こうして救われ無事であったわけだし。コッコと話しているうちに頭のなかが整理されてきて、胸中も凪ぎはじめてきて、ようよう礼を言っていなかったことに気がついて謝し、ツムリをさげ。

「ええて、ええて。ニワトリやったか、ニワトコやったか、あのオババだとかごろつきはちょっと知られたやつらでなぁ。うちんとこのもひどい目にあわされたりしてたから、いっぺんしばいたらなぁな、ていうてたんや。まさかあのザコ連中なあんなんまでするとはおもわへんかったけど、ワンころたちと見まわりしているときでええあんばいのおりやったな」

 コッコがムシロの上でアグラをかき、飛びまわったり川の水を飲んだりしているイヌらを眺めやりながら笑って言い。イヌが苦手なこともあってそれまでリウは注意して目をとめることなくきたが、そんなリウにもこの辺りにいるケモノどもは穏やかに見えていて。牙をむいたり毛を逆立てたりするものなどなく、澄んだ瞳で、寝ころがったり、仔イヌはたわむれ追いかけっこをしていたり。鼻さきに赤トンボをとまらせて睡るものあり。それは四つ足のみならず、そこの人らの醸しだす和やかなくうき。


 しろがね柱を押し立ててコガネの千両含ませて


 綾やニシキの帆をあげて 宝の島にはせ・・・・


「ちゃうちゃう、いうたやんなぁ。しろがね柱を押し立ててぇ、いうとこは、こうやろ。手だけやなく、腕だけでもなく腰いれて、こう、や」

 頬骨のはった壮年の男が、ひょろりと背の高い若人に踊りを指南していて。わらべらが、水面に石をなげ水きりし歓声をあげたりして遊ぶ。セキレイが石ころの間をつついて歩き。ススキとオギの群生が、白い穂をたらし。陽光をすいこむ岩たち。心なしか、蒼穹のいろが淡くなってきたような。うたかたの集合体のようなウロコ雲の見えて。久かたぶりに天を仰ぐ。実際そんなことはないとわかってはいたものの、そんな心地がされて。そして、ひさかたぶりに深く呼吸し、水やケモノや草木の香を味わい、脚をのばし、両腕あげて伸びあがり。躰のなかが換気されてゆくような感覚。滞留し、濁っていたのだろうか、とすずろに感じ。極上なものにかこまれ、至れり尽くせりにされていて不満などもてようはずもない環境におかせてもらってはいたが、どこかで窮屈さを感じていたことに気のつき。そも、不満をもつことを躊躇われることからして佶屈なわけではあり。

「こら、うまいことやらんとなぁ」

 何をうまいことやらないといけない、と言っているのだろうか。リウは速やかに呑みこめず、コッコの顔を眺め、思いめぐらせようとして訝られ。

「ほんまボンなん。おぼこい、いうんか、おっとりしたはる、いうんか。・・・・そりゃそうやろ?ほんまやったら、そとよう歩かれへんわけやんか。ただでさえそんなんなか、ひとりで。で、さらわれそうなって、でかいもんやないけどキズおったわけやんか。店(水戸や)の人らがなんかいわれたりするんちゃうの。なんでひとり残し対応させた、とか、ひとりゆかせることした、て。あんちゃんはいわれないとしてな。いわれても、たいしたことないやろ。そやけど、いわれる店の人らはそうはいかへんわ。クビにされるかもなぁ、されるやろ」

 あッと声をあげそうになり、赤面しそうにもなり。まったく思いいたらなかったため。無理からぬところもあり、そも何もかもきれいさっぱり忘れはてていたものであったから。どうしてここにいるのかという経緯、おかれた立場、これからどうすべきかという思案をまるっきり置き忘れて、河原でのびのび手足をのばし風物を眺め、おだやかに満ちたりて呼吸していて。風や土や水や草や木や、それらと等しく無心になって、ただそこにあるものとなっていたことも少なからずあって、いや、それが主であったのかもしれぬ、不意に言われて理解できずに応えられなかったのは。さらにべつの角度から、深部というのか、ひだに隠れたところには、あそこには戻りたくないという望みが隠れているようでもあり。意識できるところでは、リウは決して気づかない(認めない)ものではあったが。

「・・・・ごめん。ぜんぜん考えてもいなかった。なるたけだれかに迷惑かけないようにもどるには、どうしたらいいかな」

 もどるということ葉に、たてつけの悪い戸を無理やり引くような抵抗感を覚えながらリウは訊ね。

「そやなぁ。オサがいるからきいてみるか」

 コッコが下に手をつかずに、跳びあがるように勢いよく立ちあがり、行こうと目で言われ、うながされ。オサとはだれだろうと疑問になりながらも付いてゆきながら、オサとは名前ではなく「長」ということかと思いあたり。その翁は、いくつくらいであるのだろうか。肌は茶のいろが濃く、シミとシワにおおわれて、垂れたまぶたの下の目は存外鋭い。皮膚はなべておなじい感じではあったが、シシヅキがよく、おおきく力強い手。その太い指が俊敏にうごき、繩をなうている。リウとコッコをむかえ、話を聞き、目をむけながらも手は休めずに。

「なるほど、そら難儀やなぁ。どうするこうするというはなしの前に、ひとつ確認しときたいんやけどな、なんで、出たらあかんてわかっていながら出たんか」

 それはニワマキにまたぞろ大騒ぎするのを防ぎたくて、とこたえようとするも射すくめるような目にたじろぎ。そのとき、それはいい訳、ごまかしにすぎないと自身の行動の意味にはじめて心づき。宥めるために、とか、騒ぎたてられないために、そして強引に誘いだされて、と思っていたが、おのれが出たからであったのではないか、と。責めるようなもの言いでも、目つき面つきでもなかったが、目線をあわていることのあたわずにうつむき、

「いまのいままで気がつかなかった、いや、見ようとしていなかったけれど、出たかったんだ、とおもいます。あの人らがきて、どこかて、わたりに舟とのった、ような気がされます。とても大切に、親切にはしてもらっているんですけれどね。すごく、身勝手ですよね」

「勝手かどうか、人とか、なんかの集まりにとってどうかは、当人しかほんまのことはわからへんもんなんやしな。じぶんがどうしたいかだけやし、わしが訊いてるんもそれだけやからな。ほら、そこに立ってないで、腰おろしたらどないや。影になって手もとよう見られへんねん」

 そう言われ、リウは膝をおってムシロに坐し。気のせいか、老人のおもてに満足げな笑みが見え。もっとも顔いろの変化が見てとりにくく、光の加減だとかのせいであったのかもしれぬけれど。コッコはすでにアグラをかいて、くちぶえを吹いていて。影になるとか、そのせいで手もとが見えにくくなると言われたが、それは坐らせるための口上であったろう。壁がなく四方から日光がはいっているし影は翁にかかっていたわけでなく、目をおとさずになうていたわけであるし。彼なりの優しさの表現なのだろうと察し。造作から険しい表情に見えなくもなかったが、その声いろやまなざしにリウはあたたかいものを感じとれもしていて。もの腰ももの言いもやわらかで、身につけているものも姿も品位がありながら、つねに緊張感をもたせられる水戸やの人らとまったく異なり。水きりがうまくいったのか、わらべらの歓声のひとしきりあがり。カワラヒワのさえずり。

「こうしたらええな、という案はそやなぁ、この繩しあげてしまいたいし、いったんおいて、おっちゃんのはなし聞いてんか。たわいない、老いのくりごとやけどなぁ」

 唐突なことにかすかに戸惑いを覚えながらも、ここまで来て焦って早くもどろうとしなくても良かろうと腹をくくり、また、助けてもらい今からも助けてもらうわけだから。さりとていかなる話であるのが好奇心はわいているし、単純にここにいたい思いもあって、けっして致し方ないとかしぶしぶというわけでもなく。重たげな牛皮を思わせる面の皮のなか、覗く目と歯の皓さの際だち。実際のところ真っ白ではなく、黄ばんでいるわけではあったが。さりながら歯のがっちりと生えそろい欠けのなく、もしかしたら翁ではなく、壮年くらいの齢であるかもしれない、と思わされるほど。

「どこまで知っているんか、うんにゃ、聞いてるんか、かな。かつてマツリゴトをつかさどっているのは、天を冠にした三かたとな。長、礼、授。三人やなく、三種族な」

 語りながらもやはり弛みなくふとい指ははたらきつづけ、ワラから繩を編みだし成していて。均一な太さの整った長縄を。クチナワのようにも見えてくる。その、長く生みだされてゆく茅いろのものを見やりながら、話を聞いてゆく。天長、天礼、天授がマツリゴトをおこなう、見方をかえれば統治する立場になった以前にも、言うまでもなく天はあり地はあり、生きものがあって、生きもののなかに人があって。特殊な能力をもつ人も、三種族ばかりではなく。幾つかある種族のひとつに、長けた祓いの能力をゆうするものがあって。いかなる穢れ、わざわい、怨念、怨霊であろうととり憑くことのあたわずに、そしてとり憑かれたものから除くことを容易におこない。いっときは隆盛を極めたことのあったものの、三種族が結託して統治するようになってから暗転し転げおちて(突きおとされて)ゆくこととなる。立場の脅威となる種族に従うか否か選択をせまり、否とした一族は最下層の賤しい民ということにされ、それに反抗し立ちあがった者らは殲滅させられることとなり。その民のひとつであるこの翁たちは、代々遊芸をもって身をたててきたのだそうな。いつの頃からか分からぬが、イヌと親しくなるようになり共に暮らすようになり、おたがいの意思疎通も訓練次第(人、イヌ、双方において)だが、可能な状態となっていて。イヌの賢さ、情報収集力は侮れぬ、ものだそうで、都のなかでのことであればたいていのことは知れるのだとか。知ろうとすれば、いかなる場所のことであっても。

「ああ、そうだったんですね。みんなのために、お三方が協力してマツリゴトをおこなうも、しだいに仲たがいして・・・・とおもっていたわけですが」

 深いため息をついてリウはそう言い、コヅキらの話が間違いではないにしろ、偏っているのではと気づかされ。初めは天長と天礼が結束して天授を追いやり、その天長と天礼とも不仲になり、天礼を追いだし。そして天礼が返り咲くために画策している。国土の支配をあたかも三種の人らのなすべき当然のこととして語られるのを聞いてきたものであったが、そうではないのだと。人であるだれかの所有物ではないものを、我のものだと主張し相争っているだけなのではなかろうか。視界を塞いでいたものがはらりと落ちたような気のされて。なにか、軽くなったようでもあり。そして思いあたるのが、ずっと感じていた自身のなかにくすぶっていた違和感の正体で。誰のものでもないもの、いや、誰のものでもあるもの、その誰は人に限定されるものではなく。人自体がともにある存在価値であり、所有するされるだのは本来なく、人の都合で得手勝手に決めつけている、思いこんでいる、錯覚しているだけのこと。そんなものは卑小な幻想でしかなく、とらわれから外れたならば、広々と区切りのないアメと、深々と豊穣なツチのうちにあることを知ることのかなう。吾らひとりびとりがツチであり、アメであることを。

「なんかしら、響くものがあったんかな。そやからなんだ、いうことやなく、じぶんがどないかんじるか、それだけやから」

 リウは返事をしようとして肯きながら、はッと愕く。喉になにか詰まったのか思うように声がでず、頭をさげた拍子にしずくがぽたぽたと下にこぼれおち。膝のうえにおいた手の甲にあたったものは弾け、布にあたったものは染みいり。なぜに涙があふれ出てくるのか、自分がでによく分からず。ことさら哀しいだとか悔しいだとかうれしいだとか、感情の盛りあがりがあったわけではなかったのだったが。ただ、締めつけがほどかれたような開放感、と言えるような心地があるばかりで。泪のわけを問われたり、からかわれたりもしないためほっと安心して、こぼれ落ちるままにして。花びらからしたたり落ちてゆく、朝露。日をやどし、耀い光彩をはなちながら。

「あの、ありがとうございます」

 なにに対しての感謝であるのか判然としないながらも、それはゆめさら偽りではなくて。ツカえがとれたような感覚で、それに対してのものであるのかもしれない。そして、もしかするとそれは彼らの受け継いできた祓い清めの力によるものでもあるのかもしれない。目をあげ、目線がかさなったとき、火花のようなものが散り。現実の火花よりもやわらかくゆっくりと、大きく光輝をはなつもので。七いろの紗がひろがる如きもの。リウは目を瞠るも、翁はさらに驚愕した顔色でのけ反り。いったい、何がおきたのだろう。と、老人は手をたたいて哄笑し、

「こら、ほんまもんやなぁ。べつだん疑っていたわけでもないけど、ここまでのチカラとはなぁ。そら、眼のいろかえるわけやなぁ」

 なにを言われているのかよく判らなかったものの、感触としては吾と彼とのあいだでおのおのの持つものが衝突したものらしい。それらが陽炎の如き光の屈折を編みだしたもよう。

「さて、繩もできあがったことやし。コッコ、あのおひとがまだいてるはずやから、連れてってあげてんか」

「あいつにどないさせるん」

「あいつやないわ、ああ見えてえらいおひとやで。あんひとに送ってもらったらええ」

「ええんかなぁ」

 本気で言っているのかと不審そうな眼をむけるコッコに、

「ええてな、いうこときいといたらええねん。あんひとに任せといたら」

 不承不承に女わらべは肯き、リウは翁に低頭してゆこうとしたとき、

「これもってったらええわ」

 と細い繩をわたされて。なんの変哲もないものではあったが、受けとった刹那、身内に清涼なそよ風が吹くような感じを覚え。礼を言ってフトコロのうちにおさめ。去ってゆくふたりをじっと見守る翁。垂れたまぶたをおろした顔には、なんの表情もなさそうで、裏をかえせばさまざまな色が混合しているようでもあり。心なしか悲がつよいのだろうか、さりながら微かに首を左右にふり(ふるえただけなのか)、またぞろまぶたをあげて、ワラをひと掴みする。

「おっちゃん、おきてな。ちょいと頼みごとあんねん」

 ムシロを被って横たわっているものを、コッコは揺さぶりおこし。動きだしたかと思うと、あくびをするのが聞こえ、

「あァーあ。あァーあ。ナムサンだァー」

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