第129話 母
綿毛のような淡紅色の花と、紐のようにのびた茎につぶつぶとついた紅梅いろの花。フジバカマとミズヒキという控えめなくみ合わせで活けられてあるそれらが、ほの明るいカスミのような彩りを室内の一隅に刷き。背後には掛け軸のかかり、矩形の画布のうちには、葛の花が堂々と咲きほこり。風の吹きぬけたところを捉えたものか、一葉、二葉、ひるがえり、しろい葉裏を見せ。画面いっぱいに描かれたあか紫の花房のつらなる派手やかなものであるため、活けるものにはつつましやかな花々を択んだ、ということなのであろうか。沈香と伽羅を主にして調合された香のうっすりと漂い、涼やかなクサヒバリの音がながれこんできて。
「よう休めたやろか。きのう、あんな知らせあったもんやから、そうそう落ちついてもいられへんかったやろけども」
朽葉いろに黄をあわせたキモノにえび茶いろの帯を締め、白髪をひっつめにしたおトモが、茶碗に口をつけ卓上へおき、目をあげ問いの形をとったいたわりの言をかけてきて。室にはコヅキもミズクミも、カクももいずに二人きり。
「ええ、それなりに。・・・・それで、スケさんのゆくえは」
「シラギ山をこえた・・・・ところやろねぇ。あやめたりはせえへん思うわ。カクによると、覆面をかぶったもんらやったらしい・・・・にやとわれたゴロツキやないかいうてたけど、そうやろねぇ。じかに手をくだすより足つかへんし、処分しやすいからなぁ。ほんで、どうやらはじめから乱暴しよとしたわけやないみたいで、おとなしくついてこい言われて、カクは腕におぼえがあってカッとなりやすいとこがあるから、わざわいしたんやなぁ。なんや、おまえら、だれの差しがねやいうて逆らったらしくてな。いくらカクでも、スケもそれなりに武術ができるいうても多勢に無勢、あいては刃物だの棒もっているとなればなぁ。カクも無茶しよってからにしょうもない」
「カクさんは平気なんでしょうか」
直後は興奮状態で痛みもなにも紛れて振るまうことのかないながらも、落ちついてきて痛みや不具合が噴出してくる(気づかされる)ということは往々にしてあること。酔っぱらって橋から転げおち、まわりから心配されながらも笑ってちどりあしで帰宅した男が、翌日片足を骨折して腫れあがり杖をついてあるいていたと、いとけない時分、囲炉裏で父が笑いながら話していたことを憶えていて。シラギ山にいたとき聞いた話では、足をすべらせ勢いよくあお向けに倒れこみ、運わるく岩のあるところで頭を強打し、出血もせず、その者は決まりわるがって笑ってごまかしていたが、その日の夜にみまかる、といったことがあったそうで。むしろ血が出たほうがよかったらしく、頭のなかに血が溜まって脳が圧迫されたことが死因ではないかと。リウ自身は骨をおったり、ヒビのはいったり、もげてしまったり、というまでの損傷はなかったものの、忙しなくはたらいているさ中にカベや柱に手や足をぶつけ、その刹那痛みを感じつつもドヤされたり催促されたりするなかでとりまぎれ忘れ去り、気がつくと血がたれていたとかアザができていたということが幾度となくあったもので。
「そやねぇ、さすがにあるくのがすこし不自由にしととったけど、さっき兄さんやミズクミについて出かけていったし、案ずることはなさそうやなぁおもうけどなぁ」
なんだろうか。背の皮膚にクロガネをじかに当てられたような寒気が、さまで強くはないもの走り。もの言い、しぐさらやわらかく優しげではあったが、もしかするとただ単に表現・感情、考えを露わにしないだけでいるだけではないのかという思いのわき。あたたかさがひとかけらもないようにも感じられていて。目下、と見なす者に対しては。いや、丁重にあつかってくれているようで、吾に対しても、なのだろうか。そんな風な思いがよぎりはするものの、それはひが目にすぎぬものだろうとうち消そうとす。自分のうちのよこしまな部分がそう見せて(捉えて)いるだけではないのか。自分自身の問題でしかないのではないか、という思いはいずこから発生するのか。自信のなさからか。他を疑うことにまだまだ慣れていないからか。たしかにそれらもなくはなさそうだったが、なかんずく信じたかったからであるらしく。おトモらは、母と、もとより自分の血縁の人らであり、ゆかりを感じさせられ受けいれられるものが、見た目にもしぐさにも現行のはしばしから見いだせていたために。母に繫がるもの、思わせるものを容易に否定できるものだろうか。リウにはできそうもなく、いや、したくなかったもので。それらは意識の表層にしるくあらわれてくるものではなかったのだが。
「なんとか、スケさんを助けだしてあげられないものでしょうか」
気をわるくさせないか(暗にろくに手をうっていないのでは、だとか、非情だととられる可能性を思い)とリウはおそるおそる訊ねると、
「さっきいうたとこも、あくまでもそうやないかてことで、そこやとしたらうかつな手はうてへんしぃ。いま、八方さがさせているところでなぁ。目に立つような真似してあいてさん、刺激して、万が一になったらあかんやろぉ。いまはじっと待つしかないんやないやろか。もうすぐアラタマ祭くる。そんときに、あらわになるやろから、それまではなぁ」
いまさら言われなくとも為すべきことはなしている、後は待つほかはない。そうやんわり窘められた思いのされて、恐縮して目を落とす。
「まぁ、気ぃもんだからというて、ええようなるもんでなし。であれば、ええようなるようおもって、願ってやったほうがええかもしれへんねぇ。まてばカイロの日和あり、カホウは寝て待て、急いてはことを仕損じる、いうしなぁ」
なにとなくコヅキを連想させられて。言いぐさであるのか、ちょっとした素ぶりであるのか、両方ともにあるものかまではリウは分からず、見定めようという気にもならず。目敏く察せられそうなため、というのが主な恐れで、それしか自覚できてはいなかったが、自覚せぬ奥底で理由なく拒むもののあり。視点を変えれば、見たくもないという思い。知り、認識するとは、腹落ちさせる行為。畢竟、呑みこみ、留め、消化し、血肉にするということ。血肉にまでしないにしろ、受けいれ難いものを生理的に近い感覚でもっていた、ということで。コヅキに、なのか、おトモふくめてか、ミズクミにもなのか、もしくは水戸や、天授というものに対してのものなのか。おのれの血縁であろうに。血縁であるから、であるのか。近親憎悪、というものともまた違うようではあったが。母と通じるものを感じつつ、同時に相容れぬものも感じていた、ということであるかもしれぬ。知覚できる(知覚をゆるせる)部分では、なにかすっきりしない突っかかるものを感じながら、なんだか分からずにやり過ごそうという働きとして現れていて。そのとき、何ゆえにであるのか、不意に母の顔を浮かび上がり。怒っているような気色の。母独特のようすで。
「あの・・・・あちらに・・・・いる、人たちはこれから」
あちらに置いてきた、と口から出かけて改め、名を挙げてゆくのも躊躇われて、人たちと濁し。言わでものこと、あちらとは昨日までいた別墅のことであり、人たちとはタマ、ハナ、トリ、カゼ、ツキ、そしてシュガのことであり。彼らの今後のあつかいがどうなるのか訊きたく、思いきって切りだしたわけだったが、歯切れわるく、自分がでに分かりづらいもの言いになってしまっていて内心歯がみするも、
「ゆくゆくはうちとこではたらいてもろてええんやないか、おもっとるけど」
伝わることは伝わっていてほっとしつつも、「けど」の後に何が続くのだろうか。使えるようになればということなのか、おトモひとりでそう思っているといことなのか、吾次第ということなのか。いささか緊張しながら待つと、
「さっきいうたんとおなじやろねぇ。いま、決めたりすることやない。なんにでも、おり、しおどき、いうもんがあるやろ。たとえば、そやねぇ。染めものしてたようやから、それでいえば、ひとくちに染めるいうたかて、染料を水にといて糸なり布なりつけておけばそれですむいうことないやろ。その日その日の気温、水温、糸だとか布の質、それらで、それらにさらにいろいろあるんやろ、よう知らんけど、で、変わってくるもんやろ。それはなんにでも通じるもんでなぁ。うごかしてええとき、ようないときあるし、それは判断がつくときつかへんときでもあるもんやなぁ」
「はい、すいません」
おなじ轍を踏んだということか。うなだれると、またぞろ母の風姿の見え。吾とむきあい光景。
「なんも謝ることあらへんわぁ。そら心配やろしなぁ。親しいお人らなんやろ」
顔をもたげ、はっと息をのむ。ほお笑む媼の面のあり。睨んだり、怒ったり、あざけったり、そういう好ましくない面つきではないわけだから何も驚くところなぞないはずなのだったが、だしぬけに異様なものを突きつけられたかの如くにたじろぐ部分のあって。いろに出でてしまったろうと気のつき、慌てて、
「すみま・・・・。気にしすぎですよね。さっきいわれたとおり、あれこれクヨクヨしていてよくなるものでもないわけですし。よいようになると信じて、祈っとこうとおもいます」
おトモが口もとを隠しながら、ほほほと笑い声をあげて。何気ないもの言いではあったが、刺されるような鋭いものを受けとり。何なのだろうか。小心翼々として過敏になっているだけのことなのだろうか。何でもないようなことに、裏だとか含みがあると邪推しがちになっているのか。都の人、といっても身近に接した主は、おのが奴隷であったから下働きをするいわゆる河原者で比較的あけすけなもの言いをするものたちではあったが、それでももって回った言いぶりにはじめは戸惑わされたもので。そうは言っても、静かに思いかえしてみると、北の地の、純朴だとか朴訥といわれるものらもさまでかわらぬように思われる。すこしでも利を得たい、不利はこうむりたくないと汲々とし、上のものには逆らわず(逆らえず)押しつけあいにもって回った、下手ないいわけ、でっち上げをしたりする。実際に、母と父が亡くなると、吾を養うという条件のもとに田んぼ、家、家畜、家財いっさいゆずるという約束になっていたというのに、その父の今際のきわのこと葉も、父の親族は平気で反故にして、吾を人買いに売りに出したわけであり。父に貸しがあったとか、どこのウマの骨とも知れぬオナゴを娶り肩身の狭い思いをした、それはもうかまわないが、こんなところにいたらお前がつらいだろうなどとあざとくも言われ。反駁するつもりはなく、そも気力もなかったものだったが、したところで結果は変わらなかったことだろう。逆らいきったところで、鳥やイヌや魚のエサにされるのが関の山だろうし。いずこの人であろうが、さまで変わらない。
「なんですか、困ります」
「なにいってる・・・・。あちきのかわいいかわいい子に・・・・らぁ」
女声の言い争う騒がしいもの音に、なにとなく足をむけてゆく。意識がむかいゆくは、先ほど心にうつった光景のほうへ。ぎゅっと口をつぐみ、なにも言わずにじっと目をのぞき込む。肩か頭をつかまれていたかもしれない。目を逸らさせないように。母の怒ったときの態度。他のものに対してはどうであったかは知らぬが、吾へはそうしたものであり。声をあらげるまくし立てるでなく、目をつり上げたり睨みすえるでなく、掴む手を握りつぶさんかのように力をこめるわけでなく、まず視線を合わせて見つめあうことをし。眸子から、つたえ伝わりするものがあるということなのか。なにがあって、もしくはして怒らせたものか、今になってはほとんどその内容は憶えていなかったが、ひとつだけ鮮明にのこっているものがある。村のわらべらにからかわれ、泣いて帰ってきたときのこと。そういうことは頻繁にあったもので、卑屈になっているところを見とがめられたものであったものか。
ーーあなたがなにかわるいことをしたのか。わたしがなにか後ろゆびさされるようなことをしたからか。思いあたるものがなければ、あなたやわたしの問題ではなく、石をなげたりツバをはいてくるものらの問題。それでちいさくなることなどさらさらない。言いかえしたりやり返したりすることはないけれど、堂々としていればいい。
そういう意味のことを言われたもので。その折りはよく分からずにいたものだったが、今になってみればそれなりに分かるような気のされる。何ゆえにその母の目のいろの蘇ってきたものだろう。もしかしたら、不必要にちいさくなり、縮こまっているのが、現在の自分の状態、ということなのだろうか。仮にそうだとして、たしかにそう見なせるありさまであることは否めそうになく。タマ、ハナ、トリ、カゼ、ツキ、リョウヤ、そしてシュガを匿ってもらえるよう頼みはしたが、吾が留まっているのはこちらから頼んだわけでなし。意識を失いなしくずしで、であり。助けてもらい、世話をかけていてありがたいことではあるけれども。そうするのは血縁であり、身も蓋もない言い方をすれば利用価値の見こまれるからであろうし。感謝してはいるが、恐縮したり唯々諾々と従わなければならぬことなどないのではないか。ほかの人は知らず、少なくとも母であれば、自分に軸足をおき、他人(血縁であっても)に軸をわたすなと言ったにちがいない。そして、だからこそ母はここを離れ。そこに今、吾はいて。
「あんまりやったら人よびますよ」
「よんだらいいだぁよぉ。あちきの腹をいためてうんだかわいい子に会いたいてだけだぁよォ。なんもおかしなとこない。オヤならあたりまえのことズラぁ」
しゃがれ声で喚きたてているもの。聞き憶えのある声色と訛り。どうやら勝手口でのことらしい。間近になり、厨のそばまで来ると、柱の陰にたたずむ者のいて。木肌にかるくではあったが、額を打ちつけ打ちつけ。後ろ姿ながらリョウヤと認められ。ほんの少しの間見なかっただけであるのに、背がのび、伸びた分でもあるのか心なしか瘦せたようにも見える。瘦せたというのか、引き締まったというのか、やつれた感じはなく。リウはそばにより、肩にふれ、
「痛くないのか。なにも、じぶんでじぶんを傷つけたりすることないよ。してほしくない」
リョウヤの動きがとまり、さりながらこちらに向くでなく。女親の騒ぎ立てる声がつづいていて、平静でいられるわけがないだろう。
「ゆかなくて、いいんだからね」
多分、いや、間違いなく、リョウヤにひと目でも会いたくてというわけではないだろう。雇いいれるという名目で金子が支払われたものらしいが、さらに求めてきているといったところが狙いであろうから。
「(万一なかをぞき込むようなことになって)見られたりしたらよけい大変だとおもうし、どこか(室内にでも)にいたらいいよ。だいじょうぶだよ」
ふれた肩をかろやかに叩き、かるい調子をつくって言い。こくんと肯いたリョウヤの両肩をもち、外から屋内にむきをかえさせ。抵抗をうけることのなく。青ばなをたらさぬようになっていたが、ふせたまつげは湿っていて胸を締めつけられ。感情を引きずられこみ上げてくるもののありながらも、ぐっと呑みこみ、
「ここでこうしていてもね。もどりたい、というものがあったりするのかな」
首を傾けてその双眸を見つめ。そうだとしても、もどすべきではない、とは思う。さりながらそれを決められるのは自分自身でしかないわけで。いったん売られたりして身分なり立場が決定してしまえばそれに従うほかなく、変えるのであればそれなりの手続きが必要となり、その「それなり」はかなりな難事、まず不可能事となるのが世のならいではあるが、リウはそんなものは当たり前のように受けつけずにいたものだから。
「そんなわけないら」
かんしゃくを起こしたようにも、ふて腐れたようにも見える面つきで、ぼそりと吐きだすようなもの言い。そう言う(そういう態度をとる)のが、いまは精いっぱいの状態、ということだろう。身内の醜態は、我がことよりキツい恥ずかしさがあるものではあるし。本人が択べているのであれば、後押しするだけであり、
「わかった。ごめんね、訊いたりして。それであれば、なかへ行ったほうがいい。なにかしらすることはあるだろうし」
と、リョウヤを屋根のあるほうへと押して、ぎゃんぎゃんガァガァ喧噪のおきている勝手口にひとり向かう。対応しているのはふたり、主に厨しごとや床磨き等をしているらしい、まだうら若いむすめたち。リウと齢のかわらなそうな、ひょっとすると下かもしれぬ、化粧けのないぽっちゃりした頬で、つやのあり。眉頭をよせ、それでもシワのできぬ顔を見あわせて困惑していて。これだけのオオダナにもなれば、なにかしら売りつけにくるものも数多あり、年季のはいった者が捌いていたものであったが、なにか手のはなせぬ用事でもあるかして、慣れぬふたりのむすめたちが対応せねばならなくなったのだろうか。それにしては相手が相手であり。助けられるかどうか自信はなかったものの、顔見知りでもありなんとかなるだろうかとリウは戸口のそばまでゆき、ふたりに触れて、後はまかせてとささめいて去らせて。耳まで紅潮させて手足をぶるぶる震わせ、いまにも溢れんばかりに目を濡らしていたむすめたちは、えらいおおきにと小声で礼を言うとふたりして駆け足でもどってゆき。
「なにコソコソはなししてるだぁよぉ。あちきの一粒だねぇ。かわいいかわいい、たったひとりの血をわけたむすこと、なんで、あわせてくれねぇだぁよぉ」
中年女性が戸を連打しながら、ウォーウォーと大声で泣くふりをして喚きつづけ。
「おちついてください。吾をおぼえていますか?」
かき消されながらも幾度となく呼びかけ、噪音の途切れた合間にようよう届いたものらしく、
「だれずら。・・・・ああ、あの。ジゴクにほっとけ、いうのはこのことだぁねぇ。聞いてくれよォ。ここのやつらは、あちきをオニかヤシャとでもいうだか、うんにゃ、虫ケラみたいに見くだしてるだな。ホウコウにだしてる子がどんなふうかひと目でもようすをみたい、てのはオヤなら当たりまえだのくらっかぁずら」
穏当なかたちで奉公に出し、ひと目見るなりしたい。それが事実であればこうして裏口でがなり立てずに順当に店頭から声をかければ良いのではないだろうか。そうするも体よくあしらわれ、こちらまで回ってきたということなのか。いずれにせよ今のありさまが、この中年女性の行為の妥当性のありやなしやを証しだてている、と言えるだろう。女のもとめに応じるつもりの微塵もなく、いかに帰らせるかしか、リウの頭にはなくて。ひとまずこの場をやり過ごし、後は習熟した人らにまかせようと。であるからして、去らせるまでゆかずとも、時間かせぎだけでもできれば上出来だろう。じきに、あのふたりから話を聞いたものが来るであろうから。
「なるほど。ただ見るだけでいいというのに会わせないのだとしたら酷いはなしですよね」
「そうずらァー」
「そうなんですけれど、いま、いないらしくて。おつかいでも頼まれて、どこか行っているのではないですか。はたらきものだから重宝されているようですし」
「そうずらァ。あちきに似たんだぁねぇ」
「そういうわけなので、また後にされたほうが」
「それもそうだぁねぇ。そうだぁ、そうだぁ、しんだぁそうだぁ」
唄うように節をつけていて、昼間から酔っぱらっているのだろうか不審にならなくもなかったが、この人であれば不思議でもなさそうではあり、なによりもあっさりと引きさがりおとなしくなったのでほっとし。拍子ぬけするほどで、そのさまが露わにならぬよう抑えながら、
「それではまた・・・・」
さりとて、いらしてくださいとまでは言えず濁らせ。言質をとられたくなかったから、とまでは考慮しなかったが、もう来ないのであれば来ないでいてもらうに越したことのなかったのは本心であり。
「そうだぁ、そうだぁ。久しぶりだから、はなしでもどうだかね。リウさん、いっただか」
唐突な申し出にぎょっとし、反射的に拒もうとして留まり。話すのであれば、現在も戸を隔ててしているわけで、このまま継続すればよいわけではあったが、女が言うのは対面してという謂であろうことは分かっていて。断るほかに選択肢はなかろう。でなければ、なんのために寝起きする場を転々としているのか、というであり。まだだろうか。そう間をおかずに、対処できるものが寄こされるはずだが。家屋のほうを見やるも、むかい来たる跫音すらなく。クサヒバリの音色のしていて。
「言っておいたほうが、よかったろうか」
後悔し、低声でひとりごつ。願いをさげることは決まっているものの、問題はその口上であり、もってゆき方であり。巧くやらなければまたぞろ喚ばわりだすのは火を見るより明らか。馳せもどっていった者らがすぐに人を寄こすと踏んでいたものだったが。動揺していたから、その余裕がないということなのか。もしくは、相手があまりに切り替えが早かったということか。たしかに不審になるほどの変転ぶりではあったが。悔やまれるのは、むすめらを帰すとき、すぐに対処できるものに来てもらうよう言づけなかったことで。しようかと玉響の間逡巡しながら、結局口にしなかったから。言わでものことで、わざわざ言うのはそういう判断ができないだろうと見くだしているようにとられるかもしれないという恐れ、いまにも泣きだしそうになっていたから一刻でも早く逃がしてやりたいという望み。それらにせかれての選択であったが、ほかにも躊躇われたわけのあって。
ふたりを戻そうという折り、まっ先に思いうかんだのは、セヒョの姿であり。実際に、口に出しかけて堰きとめられて。堰きとめたのは、今朝あったことによる戸惑いの波紋で胸のざわめき。波立ちが声帯をおさえた部分の多分にあって。いかに捉えてゆけばよいことなのだろうか。思いもかけぬ告白。セヒョの腕に包みこまれ、胸のうえで。シュガとのことを知っているらしいし。いつからのことであろうか。今までそんなそぶりもこと葉もなかった気のされるが。気のされるだけで、あったのかもしれない。初めから、心をゆるした顔のいろを見せてくれていて。不快だとか迷惑だとかはゆめさらないものの思いもかけぬ、ということが偽らざる気持の結論であって。思い、思われする人があるわけであるし。心身は繋がりあったものであるが、ときに人によっては乖離した行為をするものであり、いや、行為としては別という者も少なくないのかもしれぬ。であるからこそ、色町というものが成りたつわけで、そこでは別れたものとして扱われるのが常識であり、心をあわせてしまうのが異常であって、異常をきたせば心中などになってしまうわけで。それは畢竟、完全には切り離せぬという証しでもあろうが。セヒョは切りはなしたものだけを求めてくる、ということはなかろうから想定の範囲の内にはいらぬことではあったが、何がおこるかなど容易に測れるものでなく、仮になにかの拍子で、もしくは勢いでむすばれることとなったとき、セヒョには耐え得ぬだろうとそぞろに感ぜられてもいる。身体が、ではなく、心が。タマシイが。それをシュガとかたく、深く結びついたおりに感じいったもので。彼の発する気に耐えられるものはなかろう、と。そして吾のものも。それだけ強烈なものが、躰にではなく、タマシイに染み響きいり。そしておのがものが震動させてゆくのを感じもしていて。これが水戸やのものらからよく言われる神につながる力であるのか、紛うかたなく吾が彼らの言うとおりであれば、おそらくそういうことになるのだろうけれど。耐えられる耐えられないはともかくも、思いを告げられてなにも応えられず、求められもせずに離れたわけであるから、顔をあわせずらく、それもむすめらに頼めなかった少なからぬ理由となっていて。もしかするとそれが主、であるのかもしれぬ。
「それではすこしだけですよ。勝手に外にでるなといわれていますし」
事実、そう言いつけられたり話されてもいないことではあったが、状況から推して確実なことではあり。逆を言えば、暗黙の了解であるからこそ、気づかなかったふりも可能になるわけではあったが。せっかくこうしてまた再会できたのだからとか、水戸やの主に雇われて誘いだした後どうなったか案じていて不安で不安で睡れぬほどであったからうれしくてたまらないとか、くどくど執拗にくり返して諦めそうにないため、顔を見あわせて話をしたら退却するという約束をかわし、リウはくたびれ半ば根負けした格好で戸を開けて足を踏みだし。開けた途端、濃厚なおしろいの匂いが鼻をつき。カモジをかぶり、こってりおしろいと紅で彩ったツラを歪ませたニワマキに迎えられ。
「ずいぶんひさしぶりぶりずらァー。ますますキレいになっただぁねぇ。高そうなおべべ着せてもらってからに」
大口をあけ、ツバを吐き散らしながら言いつづけ、
「ちょっとそこまで。ゆっくり話でもするだぁよォ」
「それは。・・・・先ほどもおはなししたとおり、ここで少しであれば。こうしていることも、見られたらとがめられるでしょうし」
「ちょっとだけだからいいずらァー。そんなかたいこといわずに。いわなきゃわからないだぁよぉ」
と袖をつかんできて、ひっぱってきて。
「あの、ほんとうに困りますので」
そこは裏通りで、タルや大八車のおかれ、人の往来のあまりなく。冷やっとし、リウは中年女性を振りはなし身をひるがえそうとする。さりながらがっちり両袖を握りしめられ、にたりにたりと目を細め舌なめずりするように紅をぬりつけたナメクジの如きぬらぬらしたくちびるをうごめかし、
「おとなしくしてるだぁよぉ、ボン。いたいおもいしたくないずら」
ニワマキが気のぬけたような口ぶえをひとつふくと、タルだとかの物陰から、三人男が姿を現してきて。朱や黄やときいろの目に立つ色のキモノを着くずし、いろの合わせからして芳しくなく発色、布の質もしかり。短刀を帯にさし、大股で肩で風をきるように足をはこぶ。なによりも目つきが明らかにカタギのものとは違う。ひとりから胸ぐらをつかまれ、顎を鷲づかみにされて熟柿臭い息を吹きかけられながら、なめ回すように値踏みされ、
「こら、えらいジョウダマやな。高ううれそうやでぇ」
「やめてください、離してください」
突如ふってわいたようなこと、そして柄のわるい三人に囲まれ捕まえられていることで大声をだす余裕はなかったものの、抵抗し逃げようと藻搔いたとき、腹部に鈍い痛みが広がり、うずくまり。こぶしを入れられたらしい。
「おとなしくしてなぁ。売りものやから、傷つけたないねん」
「売りもののまえに、金子ひきだすおとりにするだから。忘れただかぁ」
ニワマキが低声で叱責し、
「その後で煮ようが焼こうが自由にしたらいいずらァ。まぁ、たのしむくらいならしてもいいだかねぇ」
と言うと、ひひひひと笑い声をもらし、
「ここのやつらが出てきたらことだぁよ。はやくずらかるずら」
「そやな、おい、あれ」
ひとりの壮年が呼びかけ、おおきなずだ袋がとり出され、リウは被せられ。リウは腹部を強打され空えづきしていて、また殴られるか蹴られかするのかという身体的恐怖からも声をだせず、抗うこともできずになすがままとなっていて。全身被われ、ひとりの肩にかつがれ運ばれてゆく。なにも見えない。いったい、なにがどうなっているのだろう。ニワマキはもともと、これが目当てで来訪したのだろうか。腹部にはまだ重く痛みの余韻ののこっていて。三人の男と、中年女性の笑い声やしゃべり声が意味をつかめずにすり抜けてゆく。これからどうなるのか、先もまったく見えない。吾を人質にゆすろうとしているらしいが、人質がうまくゆかなければ、うまくいったところで返されることはまずないのではないか。その前に、この三人の野郎どもから、なにをされるのだろうか。どうしてこんなことになるのだろうか。こんなふうになるのであれば、出なければよかったのに。あらかじめ分かっていさえしたら。ニワマキから呼ばれて戸口から、ではなく、シュガとともにいたあの屋敷から。どうして、どうしてこう、もののように扱われるのだろうか。そこで、ふっと閃く。水戸やでのあつかいも同じではないだろうか。表面的には大切にされてはいるものの、本質的なものを見れば。よく分からないけれど、そんな気のされてならない。諦め、ぐったり力を抜いているなかで、違和感を感じ、耳でとらえ。イヌの唸り声。二、三匹いるらしい。
「なんずら、このイヌころはぁ」
「しっしっ、あっちいきな」
「けり飛ばして散らせや」
「いたッ、かみつきよった」
「なんや、ようけぇきとるやんけぇ」
「これをエサやとおもっとるんちゃうかぁ」
「なんやこら、こんなんようけぇ、おったんか」
切迫した騒ぎ声のなかに、イネどもの続々と群がる気配のおこり。土のかわいた香をかぐ。
「こらあかんわ、いのちあってのモノだねや。こいつ放ってずらからなな」
「なにいってるだぁよォ。金のなる木をすててゆくだかぁ」
「だったら自分がはこべばええやろ。ごうつくばりの色気ババアが」
すて台詞とともに、リウはずだ袋のまま投げだされ。背を地面にうたれ、小石の腰のあたりに喰いこみ。
「ふざけるじゃないだぁょー。かよわいタオヤメ置いてゆきやがって、おバカっちょどもがァー」
金切り声をあげて非難しながらニワマキも走りさり遠ざかるのを聞いていて。このまま袋を咬みちぎられ、ケモノどもの腹におさまることになるのか。これが最期なのだな。ぎゅッと目をつむり、縮こまる。まわりをとり囲む、数多のイネどもの臭い、吠え声、呼吸音。
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