第127話 欠けたるもの

 あし垣ま垣 ま垣かきわけ ちょう越すと おい越すと たれ

 ちょう越すと 誰か誰か このことを親にもうせよ こしもうしし

 とどろける


 カヤツリグサの繁茂する野に、御所染めいろをそえるイヌタデのつぶつぶとした花。小さき花々のまとまったさまから、リウのかつていた郷では、アカマンマと呼ばれていたもので。線香花火をさかさにしたように穂の枝わかれしたカヤツリグサでは、摘んだ茎をちぎれないように裂いて四角をつくりだす遊びが、わらべらの間でされることのあり。リウはそうしているところを見たり、父から教えられたりして、ひとりやってみたりしたものだったが、ちいさな手には加減がうまく掴めなかったとみえ、うまくゆくことのなく。ことに関心があってやってみたわけでもなく、すぐに諦めて地にかえしたもので。ナデシコもひっそりと咲きて。キジだろうか。ヤマモモいろの翼の羽ばたくのが見えて。キジだとしたらメスだろうが、それにしても今時分にいるものだろうか。よくよく見てゆくと、それは羽根ではなく布であり。地味でくすんだ色味、かつ布地自体幾度となく袖をとおされ水をとおされして、よく言えば洗いざらしのもので。


 この家 この家の 弟嫁 親にもうしよこしけらしも

 アメツチの 神も神もあかしたべ われはもうしよこしもうさず

 スガの根の すがな すがなきことを われは聞く われは聞くかな


 身につけているものは、女人。まだうら若く手足のすんなりと伸び、初雪のように清らなほの明るいきめこまやかな肌。藍染の汁の如き密度のつややかな漆黒の髪。日の落ちはじめ影の濃度の増してきたなかの、うしろの風姿ではあったが、母だとリウにはひと目で分かり。どうしたのだろうか、うなだれ、肩を落とし哀しげに見え。かつ、ちいさく、か弱げにさえ見え、わが目を疑う。記憶にある母からは、泪はおろか気弱げな顔ひとつ目にしたことのなく、弱音の気配すら吐くのを聞いたことのなく、つねに気丈で、背に棒でもあてがっているかの如く姿勢ただしく、シュウメイギクのように毅然とコウベをあげた佇まいで、それはそれは大きく見えたもので、なんとなれば父よりも。もとより父の方が背丈も、シシヅキも比べるまでもなく上まわっていることは、いとけない砌とはいえ当たりまえに分かってはいたものだったが。現時点の齢の自分から見ているのだろうか、まだ早乙女だった時分の母を。景色や身なりから推すと、父に嫁いだばかり、といったところか。最後の最後まで、床に伏しながらも、弱ったようすを見せなかったが、ともすると、吾には見せないようにしていただけで、煩悶、懊悩、悲嘆、沈み倒れこみたいおりも、幾たびとなくあったのかもしれない。いや、きっとあったのだろう。いまの自分であれば、もしかすると察してあげられたのかもしれぬが、どうだろう。

 いまは、なにを歎き、肩を微細に震わせているのか。問いかけたらば、応えてくれるものだろうか。さりながら、母の耳に届く声を発せられるのか、感じとることのできる手であるのか、知覚できる姿であるのか、自分の状態が心もとなく。こちらからはくきやかに見聞のかなうのに、吾ひとり気体にでもなったかのように認識されない存在になることが、こういった状況(空間)でおこることは往々にしてあることではあるものだけれど。いまも同様であるのか、どうか、働きかけてみなければ確実なことは分からず。なぜそれを逡巡しているのか。気づかれないだろうとはなから諦めてか。徒労を厭うてか。いや、恐れて、なのか。存在に気づかれないこと、ではなく、存在に気づいてなお、吾という息子であることを認識されなかったときの可能性を思って、か。なんとなればこの時期の吾であれば、まだよちよち歩きもできなかったろうし。下って、仮に最後に顔をあわせたおりの母であったとして、いまの自分を認められるものなのか、確信をもてずにいたものだから。幼いころ肥えていたわけではないが、父方の親戚に引きとられるまではそれなりにふくふくと丸みがなくはなかったし、あれから背丈も、手足ものびて、造作のだいぶ変わったろうし、指さきのカミユイの花に染まりて。然り、知らぬものを見るような目で見られることを、心底恐怖していた、ということなのかもしれぬ。もっとも深く強く結びつけられている母、心のよりどころ、どころか心を成す部分として生きづいている人から、まったくのアカの他人であるように対せられたとしたら、はたして自分を保っていられるだろうか、と。龍笛のかそけき音のよぎり。そんなことはあり得ぬと思うが、万が一そういう状況であったとしても、反響を得られるさまに吾があるとするのなら、どうしたのか訊ね、助けられないまでも話を聞き、胸のうちをかるくしてあげることはあたうのではないか、いや、たいした足しにはならぬにしろ、そう努めたいではないか。吾の母なる人であるのだから。


 ・・・・


 アメツチの 神も神もあかしたべ われはもうしよこしもうさず


 ・・・・ われは聞く われは聞くかな


 どうされましたか、と改まったもの言いでーー吾を子と認識されない場合のことを想定し、また、認識できるにしろ瞬く間にではない可能性が高いわけであるし、いまの自分と母とを傍から見れば親子というより姉弟というのが妥当なところであろうからーー問いかけようとしたとき、母なる乙女のふり返り。まなざしが吾を捉える。訝るでなく、驚くでなく、ふり返る前からいることを知っていたのか、ひょっとすると招いてくれたものかもしれない。もぎたてのナツメの実のような丸みのある双眸の表面は濡れていて、ただし溢れだすことのなく湛えられていて。目を似ていると言われることのあったが、やはりまた別だとリウは感じ。吾の場合はすぐに溢れこぼしてしまうから。母はきっと口を閉じたまま、なにも言わず。まなざしを交わすなかで訴え伝えようとしているのものか、それは口を開いてしまえば堪えていたものがあふれ出てしまうからなのか。流れこんでくるものがあるような気のされて。いろ、匂い、音、映像、それらの知覚でとらえ得る具体的なものではなく、こと葉でもなく、感情、思いの織りなす波紋。それを受けとり具象化すれば、そう、ひっそりと笑むナデシコの花。猛々しいまでに生い茂る草木のなかで、閑かに可憐にたたずんでいて。道ゆくものの目にとまったとき、その心を和ませる。さりながら十人十色、気づかぬものもいる、気づいても気にとめぬものもいる、感情の荒波にのまれ和むものを逆に踏みにじりたくなるものもある、和ませると分かっているからこそひとり占めにしようとするものもある、いのちを繫ぐ茎をむしりとり。その花が脅かされている、そのおののき、それがリウを震わせて。もとより、花自身のものではなくーー母から受けたものを具象化したものであるわけだから当然ーー、母の不安、恐れであり。それは現在おきていることなのか、これから、近いときに起こりうることであるのか。どうも、いずれでもあるらしい気色。すぐにでも手をうたねば間に合わない、いや、もう手遅れに限りなくちかいのか。どうして、もっと具体的に分かりやすく教えてくれないのだろう。そうできないのだろうか。吾もまた、発声しようにもできず、触れようにも近づいても八寸の間を縮めることのあたわず。見えぬさわれぬ壁でもあるかのように。もしくは、なにかで縛られていてそこまでゆくのが精いっぱいということなのだろうか。母もまた。ぎりぎりの地点まできていて、そこに力をつくしているため話したり、明確につたえるだけの余力がのこっていないのか。ともかくも、母の恐れることがおこっているらしい。それは、吾に深く関わることらしい、とまでは読みとれて。


 あし垣ま垣 ま垣かきわけ ちょう越すと おい越すと たれ

 ちょう越すと 誰か誰か このことを親にもうせよ こしもうしし

 とどろける この家 この家の 弟嫁 親にもうしよこしけらしも

 アメツチの 神も神もあかしたべ われはもうしよこしもうさず

 スガの根の すがな すがなきことを われは聞く われは聞くかな


「かっちゃ(母さん)」

 思うともなしにリウの脣からはらりとこぼれ落ちることの葉。さりながら、となりからする歌舞音曲によって、みずからの耳にも届かずにまぎれ消え 。リウは縁側にいて、赤とんぼのゆき交う、モッコクやナンテンの植えられた庭を眺めていて。ヒグラシの音のして、影の濃くなっていて、清爽の気をきざしはじめたそよ風のふく。この空間だけであれば深々ともの淋しげであるくらいの夕刻の景色ではあったが、カネ、太鼓、琵琶を鳴らし、謡い、踊り、囃子、笑う声が聞こえてにぎやかで。まだ宵の口、たけなわとなるのはこれからであろう。戸を閉めきって室内にいても、暮れなずむいま時分は、さまで暑くもない気候になってはいたものの、騒がしいという耳障りなものでもなかったわけで。龍女より規模がおおきく、人数がけた違いに多いため、無何有、発生する音量も高くおおきいようではあったが。あちらはただひたすら煩いだけだったが、こちらと何が、どこが違うというのだろう。時おり不思議に思うことのあって、さりとて道すがら見る塀だとかカキの木と等しく、欠けた部分があるとか塗りなおしたとか、葉がおちたとか実がなった色づきはじめたと何気なく思い、ときに目をむけることもなくゆき過ぎるくらいの関心でしかなく、うすく軽く捉えたなかでそぞろに思うのは、ガジュのものには韻律があるようだ、ということくらいで。もとより楽の器も唄も手習いひとつしたことのなく、聴く習慣(余裕と同義か)ももったことのなくいたトウシロウであったため、他人に言えるほどの感想、印象でもなかったわけだったが。さりながら当たらずといえども遠からずであるのかもしれず、それはその音曲からでなくとも置かれた状況だとか、発信していることから推してゆけそうではあって。町中とはいえ、歓楽街からすこし離れた、屋敷のたちならぶ閑静な場所に居をかまえてあること。花代が高く、客層が選りすぐられ、一見さんお断りであること。その存在を世に知らしめている最たるものは、辻での演舞披露であり、それは宣伝のみならずシンマイの稽古、なにより度胸を鍛え、腹をくくる訓練、つまり売り子になるための儀式や儀礼の意味合いがつよいようではあったが、それをべつの角度から見れば、そういう初歩の初歩、初心の初心から厳しく仕込んでいるということが理解できるわけであり、それはヒナの黄身がぬけ、成鳥してゆくなかでも行われてあることは疑いえない。ゆえにいくら砕け、ふざけしようとしても、そこには一本筋がとおる。韻律がある。それをリウは考えるでなしに、おぼろげに感じていたわけだったが、リウの場合は他にもそう感じられる要因がありそうであり、それゆえいささか入りくむため見まい(考えまい)としているきらいのありそうで。うちで聞くか、外で聞くか、ということ。つまるところ、龍女ではうちにいて身近に接し見聞きしていて、ガジュとはまったく関わりなく内情など知るよしもない、ということの影響を、うっすら考えにうかべていた、ということもありそうで。それを直視するということは、あそこにいる者らへのおのれの感情を直視することにもなるため、無意識的に避けていたから、と言えそうではあり。臭いものにはフタ、ではないが、なにもわざわざ製造中の堆肥にちか寄り、のぞき込む必要など、意味などさらさらないわけなので。汚臭から離れ、にぎやかな方へぼんやり耳をかたむけ、発した声のうもれ消え。


 アメツチの 神も神もあかしたべ われは・・・・

 ・・・・

 われは聞く われは聞くかな


 どうしたのだろうか。母はなにを訴えようとしていたのか。庭に目をむけながら繁く思案にうかんでいたのは明け方にみた夢で。父に嫁いで間もなくのころかと思ったが、もしかするとさらに遡り、水戸やから出奔するくらいのころであったのかもしれぬ、と思われてくる。母の外観の齢に対する詮索はしても詮ないことだろうからよしとして、いかな危険が迫っているのか。どうも吾に、ではなさそうな気のされ、されど身近な人ではありそうで。もしやシュガに。だとしてもそうそう往き来はできぬし、ここにいればたいてい平気だと思われるが。タマ、ハナ、トリ、カゼ、ツキも。ニジは身軽に逃げおおせそうではあるし。然り、逃げおおせるといえば。どうしたのだろうか。約束をたがえることなどする人ではなかろうに。あかりの灯され、輪郭のみのこし影のなかにとけてゆく情景を眺めながら、胸のさわぐのを覚え。午まえにスケが訪れることになっていたのだが、いまだに姿を見せず、用事なりなんなり来られない事情がうまれることは充分考えられたが、それであれば何かしら連絡をよこすのではないだろうか。もしくは連絡しようとしてその手段がなかったか、断たれたか。確かにおいそれと誰かに言づてするなり雁信をたくすなりかなわぬことではあろうし。こちらに来る暇をなくし、通知できないでいる、ただそれだけのことなのかもしれない。そうだ、きっとそうに違いない。昨日の、目じりに小じわをためて笑み、力強く肯いてみせた細面がしるくあらわれていて。その慈しみに満ちたまなざしも。縁側にいて、スケの到着をずっと待ちかまえていたのであって。その間に、なにとなく夢にいた母に思いがむいていたというわけで。コヅキもいることだし、きょうは来ない、と見たほうがよいのかもしれない。そう、焦らずともよい、という何ものかの計らいであるのかもしれぬし。そう自分を得心させようとしながらも、違和感を拭えずいて。スダレを上げてゆくように昨日のことを引き出し、思いだしてゆき。


 あし垣ま垣 ま垣かきわけ ちょう越すと おい越すと たれ

 ちょう越すと 誰か誰か このことを・・・・


 ーーここを出よう。

 おなじ屋根の下にいながらなかなか顔をあわせられず(そう仕向けられ)いたなかで、思いきって会いにゆき、久しぶりにシュガと対面することのかない、数日、間があっただけであるのだが何週間ぶり、いや、何カ月かぶりにも感ぜられたなかで、リウはそう告げて。意想外に、さまでシュガのおもてには驚いたいろの見えず。むしろそう口にしたリウ自身が動揺し、動悸がし、かるい眩暈をおぼえたほどであったのだったが。

ーーほんとうにそれでいいのか。

 と問われ、わらべらのことは後で考えるとして、まずシュガの気持の真のところを明確に示してほしいと重ねて言うと、首を左右にふって見せられ、

ーーそなたは、どうなのだ。それで、ほんとうによいのか。

 静かな眸子で、おだやかに諭すように問われ。タマ、ハナ、トリ、カゼ、ツキやシュガ、もちろんニジのことはひとまず置き、おのれ自身はどうなのか。捨てさることになるのだが、それでかまわぬのか。まだはっきり証明も、自覚もできていなかったものの、水戸やの者らは唯一の血縁でありしかもそれの濃い親しい間柄の者らがであり。母が身まかってからいくつもの春夏秋冬を経て、ようよう巡りあい、生まれてはじめての気がひけるほどの厚遇をうけ。それらを失うことに、吾は恐れをもっているのだろうか。後悔することになるのだろうか。日のなかに曝し、ためつすがめつできるものでも、見とおせるものでもないため断定できることは何ひとつなかったけれど、それらははたして重要なことだろうか。後先考えず、激情にかられ(そう激しいものという自覚はなかったが)、猪突猛進して良いものか冷静になってみたらどうだ、と言われているようで、それは思いやりからくるものだろうが、確実に分かっていることはあって。最重要なことは、

ーーあなたのそばに、吾がいることのほかに。ほかに・・・・

 並べられるようなものは、おのが内には存在しない。そういうことを言おうとして、いかに表現したらよいものか言いまわしをみつけられず、どう言ったら伝わるものかも見当もつかず、思いが昂じから回りし、そうこうしているうちにまたぞろ熱いものがこみ上げてきてもいて。そこには、もしやするとシュガは危ぶんでいるのだろうか、望んでもいないことのだろうかという想がトゲの如くあらわれ、刺さってきてもいて。さらに深い、というのかリウ自身が見ようとしない(できない)ところには、相手も手放しでよろこび賛成してもらえることを期待していた思いがあり、それを裏切られた肩すかしだとか幾分恨みだとか、恥ずかしさもあって。ひとり合点で、困らせているだけなのだろうか。右手で目のあたりを被いかくし、顔をそむけ。てのひらで、溢れだしてきたものを抑えようとしながら、つぶやく。

ーーごめんなさい。

 吾ひとりの思いでしかなく、嫌う、まではゆかぬにしろ、いや、そこまでの関心もなく、ただただ流れのうちで肉体のあわさり、優しくしてくれているだけのことなのかもしれない。なにを勘違いしていたのだろう。うぬ惚れていたのだろうか。

ーー何ゆえにあやまるのだ。あやまつことなど、何ひとつなかろうに。

 そう言われて左手に触れられて。慰めようとしてくれているだけのことなのか。困らせるばかりで、いったい吾はなにをしているのか。背けたまま首を小刻みに横にふり、左手をひこうとしながらも、シュガの手のぬくもりから剥がすことのかなわず、剥がれ決壊したのは眸子の堤にあたるところであったものか。ふがいなく、やるせなく、もう抑えようもなくなり、それでも、せめて両手で顔面を隠そうと左手を抜こうとして掴まれ、

ーー吾のために、つらい目にあって欲しくないからじゃ。悔やむようなことにさせたくないのだ。

 切々と訴えられながら、肩を抱きよせられ。抵抗することなく、できようもなく、もたれかかり。うね惚れでもとり違いでもない、と感じとることのかなうも、まだ迷いの残りながらも、彼の肩を濡らす。

ーー吾とそなたとでは、ちがうではないか。大切にされ、必要とされ。ひとり占めにしてはならぬだろうよ。

 違わぬのではないか、と反発しながらも、どこかほっともしていて。遠慮だとか気づかいのために諾われないでいるのか、と思え。

ーーそんなこと、ない。かわらない、とおもう。肉親だから(厚遇してくれている)、でなくて、利用価値があるからだよ、きっと。

 泪に喉をふさがれながらも、絞りだすように必死になって口にして、その自分の言ったことにはっと打たれたように驚きつつ、心づかされる。よくよく考えたこともなく、ありていに言えば成りゆきまかせに流されていたわけで、それが思いがけずゆるやかで生ぬるく心地よかったため、微睡んでいた状態ではあったが、そんななかでも吾ながら薄々とは感じとれていた模様で。そうだ、関銭だとか鍵くらいにしか思われてないのではないか、必要だから、利用価値があるからこそ待遇をよくされているのみで。それのみ、と言いきってしまうのも極論かもしれぬにしても。窘められるか、なだめられるのだろうか、とすこし身をこわばらせていると、

ーー吾も、かなうものならともにいたい。ずっと。されど、ほんとうにそれでよいものか。

 なにを言わんとしているのだろうか。もっと周りを見ろ、我よしにならず他をさきとせよ、ということなのだろうか。そうだとして、はたせるかな必ずしも自分本位が悪しきことで、他人優先が良きことであるのだろうか。巷間ではよく言われることであったが、使用のされ方としては十中八九他人を非難、もしくは貶すときであり、そう発言するもの自身、および自身の属する集まりにとって益にならないときに使用される文句なのではないか。要するに、そういう指摘自体が手前勝手な主張であることが少なからずあり、どころか主である、といったところで過言にはなりそうもなく。現に、シュガはどうだろう。はたして良いことであったのだろうか。目的の良否は判断できぬとして、してきたこと、その結果は。そして、吾は。こちらも目どころは知れぬし、親愛の情がかけらもないと断言できぬものの、さりとて肉親に対するものというものとは、明らかに異なるように感ぜられていて。はしなくも口走ってしまったように、利用価値があるからしての特別待遇、という思いが煮汁の灰汁のように日々濃く染みついてきていたもので。それは違う、ちがう、とつよく訴えたくあったが、こと葉にならず。どうして伝わらないのだろうか。もしかすると、吾の考えかたは、誤りであるからなのか。彼の肩のうえで、幼児がするような、いやいやとぐずるようにコウベをふっていると、

ーー吾は欠けたものゆえ。そなたにとって、幸いになるものであるのか、どうか。そうさな、はっきりいえば、損なうことになるのでは、とおもえてならなくてな。吾では。

 淡々とした語り口ではあったものの、声に微細なふるえのおびているようにリウには感じられ、背にまわされた彼の腕、手、指に力のはいり。おのれに問題があるのではだとか自分にかまけるようなことばかりぐるぐる思いを低迷させていたが見当ちがいで、彼は相手のことを思い、自分の問題を話していたことにようよう気のついて。狭く閉じていたものが開きゆくような感覚。みずからの卑小さが恥ずかしくはあったし、相手の問題ととらえているものがどれだけ問題となり得るものかも分からぬものの、相手は相手自身の恐れをいだいていることを知り、和らげてあげたい、と思う。安らげるようしてあげたい。少しでも。こわばっていたおのが腕をほどきひろげ、脊柱にすべらせて包み込むように手をあてて。泪のひいてゆく。支えてあげたい、守ってあげたいと願い、望んでいて、それはうそ偽りのない気持ではあったが、気持だけで、いや、その気の持ち方からして欠陥があったのだと、いまのリウには理解のかなう。受け身にすぎたのだ、それで守ったりできるわけがなく。彼に石つぶてが投げつけられたとき、両手をひろげて待っていたり祈ったりしているのに等しい。ぶつけられないようにするには、払うなり手を引くなり、まず踏み出さなければならぬ、という当たりまえのことでしかないはずなのに。そんなことに、ようよう。そんな自分をふくめ、あたかもいとけない者をあやすように包みこみ。

ーー吾もまたおなじく欠けている。だからできない、とおもってしまうのは分かるけれど、欠けてあるからこそ補いあおうとすることもまた、自然なことでは。欠けたところのないひとなど、いるのかな。むしろ、欠けて出来上がっているのが、ひとというもので、だからこそ、その欠けをうめよう、うめてやりたい、とだれかをもとめるんじゃないかな。

 リウは目を閉じて、全身にシュガを感じ、体臭を呼吸しながら、思いのわくままに語りつづけ、

ーー欠けている、みちている、という意識がはたらいてのものかどうかは別として。さっきあなたは、自分がために苦しめたくない、ということをいっていたけれど、それはあべこべで。なにを失うより、あなたを失うことが、一等、吾を苦しめる。悔やませる。苦しませるだとか、幸いにできるかとか、それはちがう。じぶんの気持を決めるのは、あくまでもじぶんしかなく。吾がほんとうにほしいものは、ここにあるのだから。

ーー吾もだ。

 唸るような声をかけられ、締めあげられるように抱きしめられながら、形づくられてゆく思いのあり。どちらかが助ける、助けられる、支える、支えられるという役割をになう(割りふる)のではなく、助けたり助けられたり、支えたり支えられたり、おたがい融通無碍に補ってゆければよいことなのだろう、と。そんな簡単なことに、どうして今まで気がつけないでいたのだろうか、とリウは自身にあきれながら、ほほ笑み。ふたりの周りを燐光のようなものが揺蕩い、ゆるやかに膨張してゆき、そのやわらかくかそけき光は、室内に縦横に張りめぐらせてある刃物の如く鋭利な結界を、あたかもクモの巣をはらうかのように、氷に湯をかけたかのように、造作なくはらわれ除かれてゆき。隅々までゆきわたり、すなわち結界をすべて解除しそうになったときに、

ーーリウさま、シュガさま。おとりこみ中申しわけないですけど、すぐ離れたほうがええです。キライさんがきたはるッ。

 スケが現れ助言し、シュガに笛を吹くことを確認してから、ただちに調べをかなでるようもとめ。急転直下とでもいうのか、突然のことにふたりは思考の追いつかぬままながら、こうしているところへキライが踏みこんできたら芳しくないことは呑みこめ、スケの指示にしたがい、リウはスケとともに戸口ちかくに坐し、シュガは室の奥にアグラをかき、すっと頭をおこし。ふところから手早く龍笛をとりだすと、上体をかすかにひねり唄口にくちづけ。櫻樺の笛から、音色のしたたり。それは落ちるのではなく、舞いあがり。色とりどりのチョウの群がり、たわむれ、なめらかに飛翔し。とりどりの鱗粉が、さまざまなところで身におびてきたミツの、花粉の、水の、草の、木の、風の、薫り、いろ、くうき、いのちのささやきを唄い。鬱蒼たる繁みから、ひろびろとした花野へ。一面に咲きわたるのは、シオンの花。清明な秋日影のなか、軟風のなでてゆき。草の蔭には、茶いろに化したカマキリだとか、カマキリの真綿をかためたようなタマゴもあるのではなかろうか。シュガの笛の音を実際に耳にするのは久しぶりで、やはり手をとりいずこかへ誘われるような心地のしながらも、不思議とそう懐かしいだとか久かたぶりとも思わず。よく、思いおこしたり、おこさずとも過ることのあるためであろうか。それは、わがうちにしみ込み、溶けこんで一部となっている、ということになるのか、よく分からないながらも、シュガの心がしらべとなっていることは感ぜられていて。巡りうつる季節でかわる日のいろを思わせる。

ーーどないしやはったんですか。みなさん、おそろいで。

 断ちきるように声のして。決して怒鳴り声でも叱りつけるような鋭い声でもなかったのだが、室の内を冷やりと貫く。妙音の絶え、さし込むモズの啼き声。何気なく唄口からくちを離し、上体をなおして顔をあげるシュガを見てから、リウは目をおとす。コメカミや首筋が音を立てるのでは、というほどつよく脈うつ。スケがひとあし遅ければ、触れあっている場面を目撃されていたろう。そしてここから、いかにして切りぬけようというのだろうか。

ーーリウさまとゆき合いましたもので、シュガさまは笛がえらいじょうずやきいてましたから、連れだって聞かせもらってましたんや。

 明らかに見えすいた嘘ではあったが、差し迫ったなかでの最善の手だろうとリウも思う。すくなくもリウには他に手を、どころかその手すら思いつけなかったことだろう。ただただ慌てふためき、下手をうって逃げだすとか。なんの後ろめたいことなどない、と信じられながらも、この屋敷内、および水戸やの規律(思惑、という方がふさわしいのか)にさし障るものであることは察していたものだから。

ーーそうなんや。そら、よろしおすなぁ。そやけど、おのおのひとりで、ゆっくり考えるなりしやはったほうがええおもいますわ。たぶんコヅキさまは、そういわはるおもいますから。

 キライは仮面のような笑顔をむけ、早くでてもどれという意味合いを暗に述べ。

ーー勝手なことしてもうて、えらいすんまへん。おわびでもないけど、わてがへやまで送りますわ。

 キライに遮られることなく、リウはスケに伴われ、あてがわれている室へと向かい。内にはいったとき、早速リウはシュガと出てゆきたい旨を打ちあけて。スケは想定していたのかゆめさら驚く気色を見せずに目じりに小皺をためて力強く肯き、わらべらについて案じることはない、みょう日、午まえに暇をみつけて訪れるからその際、具体的な方策を講じようという話になって別れ。ともに講ずる、とその場では言ったものの、わらべらについて案じることないと言ったことからも推察できうることであったが、どうやら彼の頭のうちには、手はずがすでに組み上がっているらしく、後はリウやシュガの時宜をはかるだけで済む、といった状態であるらしいことをリウは感じたものだったが。その当日であるきょう、午まえどころか、火ともし頃になったいまもなんの音さたもなくて。


 ちょう越すと 誰か誰か このことを親にもうせよ こしもうしし

 とどろける この家 この家の 弟嫁 親にもうしよこしけらしも

 アメツチの 神も神も・・・・


 きゃんきゃんぎゃらぎゃら謡い踊り、笑い声などさらににぎやかさをましていて。灯りの届かぬところのものは、輪郭さえ闇にとけはじめ。ただ来られないでいるだけであればよいのだが。腰をあげ、室内にもどろうとしたとき、慌ただしい跫音とともにキライが現れ。不意によぎる映像。それは、カヤリグサとイヌタデの原にいた、うら若き母の風姿。ナツメのような目に泪を湛え、訴えかけられ。それはナデシコの形象をとり、危難が迫っていることを教え。何ゆえにあのように悲しげであったものか。キライが珍しく笑顔を崩し、それでも強いて落ちついたふうを装い、

「・・・・暴漢におそわれ、スケさんがかどわかされたらしいですわ。カクさんは大ケガをおいつつも、からくも逃げおおせたらしいですが」

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