第126話 再会

 われを頼めてこぬおのこ

 

 ツノ三つ生いたる鬼になれ


 さて人に疎まれよ


 しもゆきあられ降るみずたの鳥となれ


 さて足冷たかれ


 池の浮草となりねかし


 と揺りかうゆりゆられ歩け


 鈴なりに成ったナンテンの実のつややかに朱く照り、モッコクの実にも、そばで見るとほんのり赤みがさしはじめていて。ヒメコオロギやヒゲシロスズの音がするなか、静かにクサヒバリの音も、また。たそがれの色に染められたようなトンボの、中空をすべり、浮き、梢や柱のさきに止まり。うすらかなハネの内で光を屈折させて。つがいとなって飛んでいるものも珍しくはなくなり。庭園をそぞろ歩き、しゃがみ込み、ちいさくはかなげなキッコウハグマの花を眺めていたリウは、野太い男声の唄声を聞き。決して澄んだ綺麗な声質ではないし、伸びがあるわけでなく、節まわしが巧みというわけでもなさそうではあるものの、ひとり口ずさむものらしく衒いのなく、素朴で、すくなくも耳障りではなく。どこか淋しげな、怨ずる気配もおびつつ、それでいてあっけらかんとかろやかな調子で。何気なく流行りうたを口にしているだけなのか、気持があって択ばれたものであるのかまでは、見ず知らずの相手でありよく判らなかったものの、やはり一時身を寄せていた「龍女」の売り子らとはものが違うのだろうと思わせられもして。いま唄っていたものが「ガジュ」の売り子であるか、下働きのものであるか確かなことは分からなかったが、おそらく売り子であろうと思われ、龍女の売り子から聞かれるものとては、泣きまねの声、嬌声、怒鳴り声、喚き声くらいで、流行りうたすらめったになかったもので。いや、もしかしたらあったのかもしれぬが、ガチャガチャ琵琶をかき鳴らしがなり立てることしかできない風流のふの字もない輩ばかりであったため、唄が唄として成りたつことがなかっただけなのかもしれない。ぽつりぽつりと白地に浅きすおうの色のあるキッコウハグマに目をおとしながら、取りとめもなく思いかえしていて、そんななか、不意に違和感を覚え。なにかやわらかいものが、左側の手の甲や腕、脚にあたってくる。見ると、ススマロゲがいて。かつ、かなり巨大な。ススマロゲがいるとすればカマドであるはずであるし、ヒメコオロギだとかクサヒバリだとかのようにひっそりと隠れ、人の目につくことはまずないとのことで、ましてや人に寄りそってくるなんぞあり得ぬことだろう。大量に寄り集まり大きくもなって、なぞとも。そしてそれはススの如くくすんだ黒ではなく、光沢をおびた毛なみ。あたたかくやわらかく丸みのあり、つぶらな瞳をもった、ケモノ。

「ニジ。無事だったんだ。来てくれたんだね。よく・・・・」

 よくここにいると探しあて、来られたもの。うれしさ、喜び、驚き、安堵、ありがたさがいちどきに湧き、なんとも言いようのなく、思わず抱きあげて。抱きあげられることを好まぬ黒猫であることは、分かりつつも。若菜いろと黒とのきらきらした双眸をむけてきて、喉を鳴らしていて。今のところ厭がってはいないが、蕩けるようにやわらかな身体から束縛をとくと、ちいさなツムリや胴をこすりつけてきて、仰向けになり腹を見せるニジを撫でてゆき。よかった、よかった、とくり返し呟いているリウの睫毛はしめり、水中から飛びだしたカワセミの羽ばたきのように燦めき。忘却していたわけではなかったが、気にかかること、気にかけねばならぬこと、おのが身のおかれた立場の先ゆきの見えなさ、不安定さなど積みかさなり積みかさなりして、思うことの薄らいでいたことは事実で。いや、それを忘却と言わず、なんと言うのか。みずからの薄情さに、胸に疼きも覚え。天涯孤独となり見ず知らずの都につれてこられ、心身の凍えるような環境下、はじめてぬくもりをあたえてくれ、瀕死であった心を蘇生させてくれた恩あるものというのに。こんな吾であるのに、ここまでついてきてくれるとは。自責だとか慙愧が刺してきはするものの、それを上まわり、いや、自責だとか慙愧があるから余計かもしれぬ、感激に胸ふるえ。よかった、に代わり、ごめんね、ごめんねと呟きながら。ぽたりぽたりと土にしずくの落ちて。

「そうだよね。助けてやったわけじゃない。いくらかは助けたかもしれないけれど、それ以上に吾は助けられている。当たりまえのように。そんなことが、はたして人に、いや、ほかの人はいい、吾にできるものだろうか」

 奉公していた両班の人らが亡くなっていなかった、と仮定する。吾は吾でここには居られないということになり、住居を再建し呼びもどされたとき、あの故・両班の家にはたして唯々諾々ともどるものだろうか。ほかに行き場がない、選択肢がなければ致し方ないとして。然り、少なくとも足どりかるく、とはゆかぬ。あの家に限らず、ふる里の父方の親族からもし仮に帰ってこいと雁のつかいを寄こされたとしても。どこの馬の骨とも知れぬ、ヨソ者のオナゴを相談もなく娶ったからなのか、母と父が生存中ほとんど往き来のなく、ふたりが亡くなったら亡くなったで、ほどなく人買いに売りわたすくらいであるから、死人が蘇り呼びもどそうとすることと等しくあり得ないことではあったが。そういうあり得ぬことがあったとき、ここまで無心に喉を鳴らし、澄んだ目を輝かせて欣喜できるものだろうか。吾はあの連中とおなじような酷いことを、もしかするともっと酷いことをしたのかもしれぬというのに。はたしてこれで、人のほうが優れていると言えるのだろうか。他人はしらず、吾は遥かに劣っている。このちいさくやわらかく丸みのあるあたたかな、星月夜から切りだしたかのようなつややかな毛なみのニジよりもずっと、ずっと。

ーーたかがウマやウシの一頭二頭。そんなんつぶしたくらいでゆるぐようやとなぁ。・・・・

 使いものにならん、ということを暗にほのめかし、コヅキがミズクミを目を細めながら見やり。笑いをふくんだ声で口角をあげもして、表情としては笑顔ではあったが、冷えたまなざしで。どういった話の流れでのことであったか、リウはすぐに思い出せないでいるが、二日まえに耳目にしたコヅキの吐きだした文句と冷酷な目つきが焼けつくように胸に残っていて。いとけない砌、極寒の外でクロガネを素手でさわったらならぬと母と父からよく言い聞かされたもので、何故というに、凍りついたクロガネは皮膚にはりつき剥がれなくなるからなのだそうな。無理やりとろうとすりと、皮膚がやぶけ、肉がそげ落ちることとなる。万が一貼りついてしまったら、対処法としては湯をかけるのが一番だが、もしそうできない状態であるのなら小水をかけるしか手はない、という。コヅキの言行には、トリモチより陰惨な吸着力をもつクロガネを想起せられ、うっかりそれに触れてしまった(気づいてしまった)といった具合で。ために安易に引きはがす(ながし忘れる)ことのかなわず。いかな文脈のなかでのものであっても、リウにとっては平然と受けとめたり受けながしたりできるものではなかったから。そうそう。たしか、麻糸の入荷が遅れていて、交通手段に舟だけではあたわずウシやウマを利用しなければならぬのだが、そう急がせては(酷使させては)家畜が弱り長続きしないと訴えをうけたことをミズクミがつたえての、コヅキの返答であって。それくらいウシやウマがダメになったのであればこちらで新たなものを用立ててやれば良いではないか、という謂で、なにも使い捨てにしろ、というだけのことではなさそうではあったものの。さりながら、それが必要なのであれば、躊躇なくさせるであろう気配もリウには感ぜられてならず、寒気を、痛みをともなうそれを覚えて。コヅキの、きっとコヅキだけではないのだろう、ミズクミもおトモも眉ひとつひそめるでなく、かといって繕ってという気色もなく恬然と同意するさまを見るにつけ、こういったものがここの常識なのだろうと気づかされもして。抵抗感、どころか拒絶感をもちつつも、さりとて簡単に嫌悪感にもいたれず、というのは、考えてしまうからで。もしかすると、吾とてここで生まれ育ちしていたら、染まりこうなっていたのかもしれない、と。母はどうだったのだろうか。記憶にある母は、父とおなじく、ともに暮らすウシやウマやニワトリを無碍にあつかうことのなくーーといって、ウシやウマのいた時期は短かったわけだがーー、家族の一員、もしくはそれ以上に大切な存在として接していた憶えがあるが。そして言っていたもので。ニンゲンはただ悧巧ぶることを知っているだけで、見方を変えれば、ぶること、装おうことしかできず、昔ばなしにあるように仮面をつけたまま剥がれなくなってしまったマヌケとかわらず、本来ある姿、状態を見失い、もどれないだけの哀れな存在なのだ、と。

「そうだね。そうだとおもう・・・・」

 リウは、記憶のかなたにいる母にとも、ニジにとも、おのれにともつかず、いや、それともそれら全てふくめてに対してか、濡れくぐもった声でこたえ、呼びかけ。そして今もやわらかいぬくもりの手ざわり肌ざわりで、まるみのある姿で和ませ、胸のうちのけば立ちをすき、なだめられていて。ここまで純粋無垢にむきあい、さらに相手をほぐし凪ぎさせることなど、吾にはとうていかなわぬわけだから。ごめんね、と詫びるつぶやきから、ありがとう、ありがとうと謝するものへとかわってゆく。ここ数日間、思い悩む、というほどくっきり選択のかたちをとらぬものを抱えていた迷いがあったが、それを捉え得たものらしい。コヅキのあの発語があって、ニジの出現により明確になり、おのずから往くべき道が見えた、といった按配になるのか。リウは成りゆきを自覚することはなかったが、洗われた双眸は清らに澄み、黒猫と、キッコウハグマの花を映しだしている。

「あぁハラへったぁ」

「なにはしたないなぁ」

「はしたないもなんも、うちハシタもんやもん。ハラがへってはイクサができぬてなぁ」

「イクサて、目クソ鼻クソつけてからにぃ」

「イケズいわはるわぁ。いまあろたとこですぅ。これはホクロじゃ」

「ホクロて、シミやろ。あちこち、ふるびたカベ紙みたいななぁ」

「うちがかわいらしすぎるのがあかんねんなぁ。ねたみ買うてしもて、イビリころされるわぁ」

 塀越しににぎやかな男声がし、笑い声をあげて遠ざかり。目をあげ聞くともなしに聞いていたリウは、そこでようよう思いのいたり、

「そうそう。ニジも、おなかがすいたりしているかもしれないよね。いま、お願いしてくるからね」

 自分の思いにばかりかまけていて、相手を思いやれない。そこも改めてゆかなければならないな、と反省しつつ、なにか良いところがひとつでもあるのだろうか、あるのだろうかと考える余地のなく、なさそうではあるけれど、と思う。さりながら自虐だとか自責に陥るわけでもなく、足どりかるく人を探していて。これが吾で、そういうおのれを知り、自分なりに努めてゆけば、すこしは良くなってゆけるのではないか。向上してゆけるのではないか、と思えていて。ひとりでは、ないのだし。然り、もう決してひとりではない。意も定まっていて。この屋敷ではたらく女人をつかまえ、ニジの飲食するものをふたつの椀(古びたものではあったが)にもらい、庭にゆくと、ニジの姿が見えなくなっていて。呼んでも現れず、近くにいるのだろうと、モッコクの木の陰にすえ。ここに置いておくから、好きなときに食べるんだよ、と呼びかけて。そして縁側にあがり、むかう。先ほどの女人から、シュガの住する室の場所を訊き、知って。この屋敷にとめ置かれ、きょうでふたつの夜をへて、朝をむかえ。天礼の動向を探らせつつ、こちらに危害を加えるようであれば対策を講じねばならぬ、実際にそういうことがあったわけだから、とリウは、コヅキ、おトモ、ミズクミの水戸や、および天授最上位の三人と話し合いの場に同席させられていたが、リウにはこれといって妙案などうかばずに、ただ聞いているばかりで。天礼らは害そうとしてきているわけでなく、余計なことはしてくれるな、という牽制では。なんにせよ大きくうごきを見せるのはアラタマ祭であろうし、護りをかためておく他ないのではという結論に早々と纏まりゆき。話し合いは主に水戸やの運営にかかわるものとなり、部外者である吾がここにいて良いものだろうか、という気兼ねのほかに、理解できない内容でもあって、場違いなところにいるという思いを拭うことのできず、居心地のわるさに、日々のどが狭まってゆくような息苦しさを覚えもしていて。それは別に、真綿で頸を締めあげられるようなじんわりしんねりとした掣肘があったからでもあり。おなじ屋敷内にいるタマ、ハナ、トリ、カゼ、ツキ。そしてシュガとの往き来を控えるようにと、おトモからやんわり指顧のあり。その心の述べられることの一切なく、リウはリウで問うことのかなわずにいたが。自分ひとりだけであるのなら、たとい機嫌を損ねて追いだされることになっても致し方ないとして、五人も世話してもらっていて、彼らを路頭に迷わせるのはリウ自身が耐えられないため。すくなくも他に適当な住居が見つかるまでは。彼らの素性が素性であるため信用しきれぬため、ということか、もしくは違った理由があるのかもしれず、それは案外たわいのないものであるのかもしれなかったが、シュガとの関係を懸念されてでは、と思われてならず。スケ、カク、セヒョもまわりに配したなか、あの三人の前でリウは明示する如き言行をとったものであるから。シュガとのいかなることを案じてなのか、具体的には判らなかったが、いかさま当たらずとも遠からずではないだろうか。彼らを見たい、ふれたい、傍にいたいことは紛うことなき事実であり、それは日々昂じてゆく。それをあたかも悪徳かなにかのように後ろめたく、引け目をおぼえていたものだったが、どうしてそんなことがあろうか。どうしてそういう風に捉えてしまっていたのだろうか、といまのリウは不審に思う。いかに見られようと、かまわないではないか。わるいことなのだろうか、迷惑をかけることだろうか、ただ不快というだけのことなのではないか。何もそういうものに囚われることなど、囚われようとする必要などさらさらない。そんな早足でゆく前に不意に立ちふさがる、日輪を喰いつくすケダモノの如き影。

「どちらへおいでで」

 現れたのはキライで、コヅキのところから移ってきていて、ここでも番頭の役まわりを担っているらしい。平生どおり仮面のようなつくられた笑顔で、細めた目で獲物との距離感をはかるが如く見つめてきて。突如出現したため体勢をくずし、とっさに口から出たのが、

「ああ、さがしてたんですよ。ちょうどよかった」

 正に口から出まかせであったが、報告することがあったことにすぐに思いあたり、ニジが来てくれたこと、頼んで飲みもの食べものを用意してもらい庭においたことを報告す。うるさくしたり、粗相をしたりはしないと思うが、一応、と。肯きながら聞いていたキライから、で、その話をするために自分をもとめてきたのか、という目をむけられていて、ごまかしを嗅ぎつけられそうな気色であり、はっきり言うべきだろうか。阻まれるかもしれぬが、そのときはわけを質し、それはコヅキをはじめ天授のカシラらの総意だろうから、それを知れるわけであるし。得心がゆかぬものであれば、退くつもりはなく。さり気なく深く息をはいて気持を立てなおし、口をひらき声帯を震わせようとしたとき、

「ここにいやはったんやぁ。キライさん、ちょっと用がありましてなぁ」

 スケが声をかけて歩みよってきたところで。刹那キライの仮面に苛立ちがよぎるも、すぐに消え、

「どないしたんでっか」

「コヅキさまからことづかってきましてなぁ。おはなし中、堪忍やけど、ちょっとええでしょうか」

「そらまぁ、そうたいしたはなしもしてないよってかましまへんけどなぁ。急ぎのことなんやろか」

「急ぎかどうか、わてはよう分からしまへんけど、なんにせよ、よう分からはるおもいますけど、悠長なことをされることをあまり好まへんおひとやし。あまりひとに聞かれてもええことかどうかも、わてには分からしまへんさかいなぁ・・・・」

 ふたりきりで話せるところで、と暗に言い。キライは迷いがないこともなかったらしいが振りきり、ほな、と諾いスケをともない、

「ご自分のへやで、ゆっくりしてはってください」

 と、含みをもたせたもの言いでクギを刺して立ち去り。さりながらその理由が分からないし、暗に言われたということに気づかなかったことにすれば良いわけでーーリウは都の生まれ育ちでなく、いぶせきミチノクで三つ子をすごしたわけであるしーー、渡りに舟とシュガのもとへと向かう。ずいぶんと時宜を得た登場であったと不思議にならなくもなかったが、あの人はあの人の都合でおとずれただけのことで、そう捉えるのはあまりに自己中心的にすぎるのではとみずからを窘め、いずれせよありがたいことには変わりなく胸のうちから感謝を送り。一時的にまげ抑えつけられていた分、枝がしない跳ねあがるように、浮き足だつような早足で教えられた室のまえに立ち、すこし戸惑う。戸からして、黒檀だろうか、見るからに頑丈そうなぶ厚いもので錠のかかる型のもの。壁もまた然りであり、あきらかにほかの室と異なり、寝起きするところというより仕舞うところにしか見えない。藏、というのがふさわしそうな。錠はかかってはいなさそうではあったが。おそるおそる、硬い木戸、いや、扉を敲き、呼びかけ、

「リウです。・・・・いますか」

 厚みがあるためか鈍い音しか立たず、低声であったため届かなかったのだろうか。なんの応えもなく。聞こえなかっただけなのか、もしかしたらいないのだろうか。場所を教えられ、黒い戸であるからすぐわかると言われたものだったが、べつのところであるのか。確かに人を納めるようなところには、ともかく外観は見えぬし。問おうにも、廊下に人の気配すらなく。そのときになって、すっと冷静になり床板の冷えが足裏に感ぜられてきて。熱に浮かされたようにここまで来てしまったが、コヅキらの言に違え、キライの制止を然らぬていで来てしまったことに今さらながら心づき、足もとからかすかに震えが登ってくる。もしこれを知られたら。知られたところでどうでもない、とは思いながらも。高まったかと思えば、低く下りゆき、そのさま波のさざめくに似て。下るといっても、リウはその低いところが平常としていたところでもあったのだが。そんななか、

「リウ、か・・・・」

 扉のむこうから、その人の問う響き。リウは咄嗟であったためかーー不安でいたなかに安堵とよろこび、抑えこんできた相手をこう思い等が一時に噴きだしたためかーー声にならぬ声をもらし、発声しようにも発声のかなわぬ夢のうちであるかのようにもどかしさを覚えながらかんのん扉に寄りかかり、てのひらと耳と頬とをあて。いずかたよりか鶏の鳴く音のあがったかと思うと、たまゆらの間、笑いさざめきながら謡い舞いおどる音色や情景がよぎり。徐々に押しかえしてくるなめらかな木肌。扉に拒まれ、押しのけられようとしている、というわけではなくて扉が排されだしていて。慌てて離れ、すき間に手をかけて開けることに助力す。あたかも岩戸を開きゆくが如くに力を込めて。次第にまばゆい光があふれ出してくるようで、はたしてこの手、ゆび、腕でもって引いているのだろうかと、かるいめまいと共に感じ覚えるのは、むしろこちらの方がくきやかな手ごたえがあるのだったが、外部にあるものを開けはなっているのではないのではないか、という実感。外ではなく、内側、吾が内面のものが開けはなたれてゆき。隅々にたまった翳りを揮発させてゆく輝耀のあらわれ出で。濁りの昇華され散りゆくさいに、三稜鏡のうちをとおした如きいろーー紫、藍、あお、緑、黄、だいだい、赤ーーの光が中空を彩り咲きみだれ。光彩のなかの腕に手をとられ、力強く引きよせられ、リウももとより抵抗せずにされるがままに・・・・ではなくみずからつき進んでゆき。火と水との衝突。さりながらはじけ飛ぶことのなく、たがいに弱めたり損なったりすることのなくふれあい、重なり。火に焙られて沸騰し、噴きあげてきたものか、熱いしずくがリウの鼻のわきをつたい降りてゆく。自分がでに予測不能な反応に狼狽し、相手をぬらすまいと離れようとするも、背を、うなじを包んだシュガの手が離すまいとして。良いと言ってくれているような気のされて、相手の頸すじに頭をゆだねる。気持もゆだね、軀がうちから一気に沸騰してゆき。喉からは気化したものが、こぼれ落ちて。

「ずっと、ずっと・・・・」

 ずっと、何だというのだろう。なにを言おうとしているのか。なにを言いたいのか。なにをしたかったのか、吾は。然り、

「会いたかった。・・・・ずっと、あなたに」

 こと葉にして、ふたつの夜をこえて絶えずもとめていたのだと、おのれの思いにあらためて気づかされ。降りはじめの雨つぶが土の香をたたせるように、かそけき麝香に似たシュガの肉体のにおいを鼻腔がとらえ。こちらはあたかもひき離されることを恐れるが如くにしがみつくなか、壊れものでもあつかうかのように背に、うなじに手をあてられ、そっとさすられ。

「・・・・おなじく、だ」

 耳をなでるささめき声は、心なしかくぐもって聞こえ。一方で、別のものを捉えもしていて。なんの音だろう。雨後の奔流にちかい感情の片隅で、感じとる、クモの糸が切れてゆくようなもの音、というのか気配。それは室内にはいるときにかかり、戸口のみならずいたるところに張りめぐらされているようでもあり。うっすらと気になる。これは、一体。そして入室するときに、かすかに疼みがかすめもした感覚の記憶ののこり。カスミ網による猟の情景が湧きあらわれてくる。いとけない時分に、父に連れられタキギひろいをしているなかで、一度だけ目撃したことのあって。はじめ何があったのか理解できず、怯えて父の足にしがみつき。いくつかの鳥の啼き声の不協和音がしていて。カラスの群やモズの群の、騒がしく啼きかわすのともまた違う。啼き声、というより、悲鳴、叫び声にしか聞こえない。それは数羽、えんえんと。なんにせよ、猛禽類だとか、イタチやキツネに捕らえられて、ではないらしいことは、その当時のリウにも察せられ。父はもちろん知っていただろう。抱きあげられ見にいった先には。・・・・無惨な情景を目にした後のことはよく憶えていないが、引きつけでもおこしたのか、ついで現れるのが、床に寝かされている自分で。それからは目にすることはなかった筈だが、きっとそれは耳目にさせまいとの配慮であってのことだろう。吾はこの人から、囚われを除いてあげられたのだろうか。それとも吾が捕らわれているのか。いまから除き、離れ、飛びたたせようとしているのか。あの澄んだ蒼穹のかなたへ。ふっと、鳥のすがたをした焰が見え、かき消える。相手の頸すじ、あご、頬に頭を擦りつけ、ゆるやかに気持が固まってゆくのが感ぜられる。つねに揺らぎ、浮き沈みしている望みであったが、それが確たるかたちを成しはじめているようで。病を抱えていたり欠損はないものの、脆弱な軀で、代わりに機転が利くとか知恵がまわるということもない、これといって秀でたところのない自分ではあるけれど、なんとか彼を護り、そしてともに生きてゆきたい。


 結ぶには なにはのものか結ばれぬ


 風の吹くにはなにかなびかぬ


「なにか、酷いことをされていない?食事をあたえられなかったり、閉じこめられたりとか」

「さすがのオオダナらしく、豪勢なものを出してくれているし、出入りも比較的随意にまかされているし、そう不自由はないが」

 むかいあって坐りこみ話をしていて、シュガはリウの頬を手のこうで撫ぜながら笑って、

「しいたげられている、とでもおもったか」

 幾分その疑いがあったからこその言ではあろうが、そうだとも応えられずに口ごもっているリウの頬から、あご、頸にまでおろし、てのひらで触れ、

「・・・・ほとんど消えたようだな」

 かつて同じその手でつけられたアザのことだろう。うす雲が空いろに溶けてきえるように、意識的に見なければ分からないほどにうすらいでいる。その伸ばしたシュガの右腕の傷ーー賊を解散するときに反対派のおこした暴動により負ったものらしいーーも、まだ痕はあるものの塞がり完治に近い状態のようで。

「・・・・傷もだいぶいえてきたみたいで、よかった」

「そうだな。よく効く薬草だのあて布だのくれるし、よくしてもらっている」

 表向き、一見、という前おきがついてのものだろうとしか、リウには思えないものだったが。

「そうそう、わらべらとは昨日会ったが、元気そうであったし。そなたと会えないから寂しがってはいたが」

 笑みを成す双眸が愛おしげに、おのれもまた同様に、と語っていて、リウはきゅッと胸を締めつけられる痛みにほど近い感覚に、またぞろ目もとに熱いものが湧いてくるも、シュガの手をとり、つかみながら、

「この室の戸のところ、だけでなく全体に、なにかアミのようなものがかけられているみたいだけど」

「ああ、そうだな。結界らしい。この屋敷自体にかけられてあるようだが、ここにはより厳重に。せんないことではないか。天礼のものであるわけであるし、なかなか信用できぬものだろう。目的はともかくも、守られていることにはなるのだし」

 そうとも言えるだろうが、とリウはあたりに意識を凝らす。それは物質的でないものの出入りを遮断する装置、と換言できそうであったが、出入りするものはなにも害するものばかりではない筈で。密閉されて、生気の循環もまた断たれているように感ぜられてならず。今はまだシュガは平気なようすではあったが。やはり、すぐにでも手をうたねばと結論でき、リウは思いきって口にする。

「ここを、出よう」

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