第125話 六つの目
・・・・月に先だちて、ウイの雲
人間五十年、下天のうちをくらぶれば、ムゲンの如くなり
はッと目を見開く。耳を聾せんばかりの動悸。駆け足するような強く早い鼓動で、胸に疼きを覚えるほど。暑さのためだとか生理的反応とはべつの汗が、わきだとか手のひらを濡らしていて。その幾分かの粘りが、直前まで捕まえようと追ってきたものの感触のようにも感ぜられて、寒気の走り。時としては近接したところにあるというのに、夢のなかの迫ってきたそれがいかなるものであったのか、既にもう茫洋とススケムリのようになってくっきりと掴めず。ただ、ねばねばした触手をのばしてきた、という印象は残っていて。さまざまなものが入り混じり、良いものもあるようではあったが、良くないものが上まわり、というのだろうか、行きわたりツタのように勢いよく絡みついてゆき刈りとられぬままその意のままとなった泥のかたまりのようなもの。それらに追られ、触手で掴みとられそうになっていたなか、逃れるように目を醒ました次第。白木の天井。節のなく、柾目のとおり。うす日の射していて、スズメやジョウビタキの鳴く音がしていて。ナンテンの葉と実にふれて、涼やかな風のわたり。沈香を主として調合された香のうっすりただよう清浄な室内に横たわっているおのれを、リウは見出し(思い出し)。ほっと胸をなで下ろしながら上半身をおこし、スダレ越しに前栽を眺めて。岩だとか、ナンテン、枝葉をひろげたモッコクの影が見える。モッコクについた実は、まだ色づいてはいない。どうしてあのような夢(具体的には覚えてないものの不快な余韻ののこるもの)を見たものだろうか。安堵こそすれ、不安になるようなことなど昨日はなかったはずであるのに。
菩提のタネと気づけぬは、口惜しかりきこっけいさ
昨日、水戸やの座敷で、表からながれこんできていた謡いの余韻が耳にのこり反響していて。聞くともなしに聞こえていただけのものであったが、思いのほか印象深かったということなのだろうか。もしくは、思いおこしはじめた場面の背景に流れていたそれが、付随して蘇ってきた、ということなのか。どうもそんな気のされる。シュガはもとより、五人のわらべたち(タマ、ハナ、トリ、カゼ、ツキ)の身柄をあずかってもらいたいと申し出ると、コヅキが率先してすんなり了承を得られたものの、ただし、と条件を提示されて。それは、
ーーええんちゃう。われらがツチの神の、もっとも力のかよいしものには、わてらは従うのみや。おまはんがつよくしたいというものには、それだけの意味があるやろしなぁ。迷惑どころか、わたりに・・・・、ちゃうなぁ、よろこんでやらしてもらいますけどなぁ、ただし。
と区切り、
ーー居場所も、配置も、わてのいうとおりにしてくれるのであれば、やねぇ。粗末なもんやけど、ぐう居が焼かれたやんなぁ、下手うつとまたぞろ・・・・しかも焼かれなりなんだりするのは、わてらかもしれへんしィ。わてのいうことに従ってくれるのであれば。堪忍え、おどすつもりはさらさらないんやけどなぁ、得手勝手なことされたらわてらの身代つぶしてまうかもしれへんしなぁ。
否定する隙のない道理のとおった言とリウには思えたし、うれしくありがたく安らかな心もちで、感謝しながら低頭し、そんなんせんでもええがなとコヅキが笑い声をあげ、妹や甥を見やり。おトモは笑いかえすも、ミズクミはかすかに訝しげで、さりとも何か思いあたったかのように和して頬をもちあげ。そぞろに微細なトゲが刺さるような引っかかりを、リウは覚えたもので。どこがどうと、指摘しようのないもので、思いすごしどころか気のせい(迷い)でしかなかったのかもしれぬが。条件があるとものものしく、わざわざ言質をとるかの如くもちだしたことに、だろうか。お願いする立場でこちらから、あそこが良い、あそこでは嫌だと言えるわけがないし、それ以前に水戸や所有の住居がいくつあるのかも、どこにあるのかすら知らないわけであるし、隠密に行動しなければならぬことは理の当然で理解しているし、彼らにその長けた技能技術があることは彼らの存在が証明しているわけであるから従う、というのか、倣うのもまた当然であるはずで。事態が切迫してきているため、改めて念をおしたのだろうか。もしかすると、シュガがいたからだろうか。ミズクミと対面したことはあるが一度だけで、かつ深く知りあうほどの接触ではなかったはずであり、ましてやコヅキだとかおトモとは初対面。セヒョのシュガにむけた言行を見ていると、好意的でないことは明らかであり。念を押す、というよりも、シュガに対してクギを刺す、といった意味合いがつよかったのだろうか。やむを得ないとはいえ少々苛立ちを覚えなくもなかったが、どうもそればかりではないような気もされてならず。ほかに何があるのか、思いいたれなかったのだが。微細なトゲがその存在感をまし、痛みをひきおこしてきていたが、トゲのありどころを見つけられず。はたして気のせいでしかないのだろうか。その増してきた痛みが、睡りに影響していたのかもしれない。はたして気のせいでしかないのだろうか。この痛みは。気にしすぎて痛みと錯覚し、見えないながらもトゲがあると思いこんでいるだけのことなのだろうか。それが募っているということでしかないのか。睡りに影響をおよぼすほど。見えないものはないものだ、と決めてしまって良いものだろうか。見えないとしても、いまの立ち位置からは、ということでしかなく、ひょっとすると位置が変われば見えてくる(現れてくる)ものかもしれず、そも、何ゆえに引っかかるのかということであり。さりながらリウはそれ以上問いを深めてゆくことを止し、というのもひとりで巡らしていても解きほぐす材料も視点もないため堂々巡りになるばかりなため。何はともあれ、とりあえずひと安心はできたわけであるし。
「よし、起きよう」
リウはひとり、自身に声をかけて蒲団からおり、畳んでゆき。昨日、コヅキ、おトモ、ミズクミの話し合うなかーーシュガ、セヒョ、スケ、カクは言うまでもなく終始いたものの、彼らは話に加わることなく、もしくは加わることのできずにいて。三人が居丈高な振るまいをしていたというわけでもなかったが、彼らのところに世話になるわけであるし、事情につうじ、すぐれた案を編みだしそうであり、またスケとカクのみならず三人が明らかに格上であるという高貴とでもいうのか雰囲気があり、少なくともリウはそう感じていたーーなかにいて、天礼らが大きくことをおこすのはおそらくアラタマ祭であろうからまだいくらか猶予があり、探りをいれつつ対策を練ってゆくこととしてとひとまず纏められ、リウらの居所が決定せられることとなり。それは意外なことに町中で、水戸やの店舗兼住宅からも、さまで離れていないところで。ほど近いところに「ガジュ」の屋号をつけた建物があり。ほど近いもなにも、ガジュが表通りで賑わい、ちょうどその裏手にあたり。さりとてそこにも広々と庭となる空間があり、樹木や塀がおかれ、深更まで歌舞音曲が漏れ聞こえてくるばかりで、騒がしいほどではなく。町中とはいえ比較的大きな個人の屋敷もすくなくない場所であるため、配慮されているのだろう。分類としてはおなじ商いをしながらも、さすがに「龍女」とは格がちがうものだと、その規模や店構えからのみならず、実感せられ。客層もまったく異なるのであろうし。あそこでは、夜ふけだろうが明け方だろうがわきまえることなくどんちゃん騒ぎしたり、かなぎり声だのうなり声を飛びかうことの頻繁にあり、もっとも近隣がそれで驚くようなおとなしい者などないところではあって。モッコクの葉や実をぬらした朝露に日がやどり、かがよう今は、なんの物音も聞こえてはこない。
なにをくよくよすることがあるのだろう。なにもわざわざ気にもとまらない、自分でもこれとしるく見いだすことのかなわぬものにわけも分からず囚われて、不安になることなどなかろうに。母や父と離れることになってから、いまほど安らいでよい状況はなかったのではないか。射し込むやわらかな陽光と、清爽なそよ風によって黒くねばねばしたものがとり除かれたのか、心もちから翳りが消えて。いや、消そうと努めてか、リウ自身が。おなじ屋根の下に、タマ、ハナ、トリ、カゼ、ツキ。そしてシュガがいて。わらべらは一括りで、シュガ、リウ、おのおの一室をあてがわれ。問答無用に自明のこと、といったふうになだらかにリウは最もひろく、掛け軸、屏風の配置され整えられた、まがうことなく最上のしつらえの室に。この一室にみなでいても良さそうなほどの広さがあり、居心地のわるさがなくはなかったものの。分を過ぎすぎて、もしとり違えで自分が水戸や(天授)とはまったく血統のかかわらないと判明したときが恐ろしい。それもあったが、みずから分にあわないと感ぜられてならず、要するに馴染めぬなか図々しく平気ではいられないということにつき。
みな、よく睡れたろうか。用心のためということで、朝晩の屋敷内での人手がすくなくなるときにはそれぞれの往き来は控えてくれろと言われていたため、ようす伺いにゆくこともあたわず。もっとも朝ぼらけでまだ起きていないかもしれず、なにも言われていなかったとしてもさすがに今時分ゆくような真似はしなかったが。
こっくりと漆の重ねぬりされた深い色味の、みだれ箱におかれた白いキモノに着かえる。絹だろうか、ひんやりなめらかに肌をすべりゆき。かろやかで着心地のよかったものの、いや、それゆえに、あらゆるものを上質なものでとり揃えられすぎているように思われてならず、やはり気後れしてしまう。気後れし、戸惑い、まごつきながら、運ばれてきた朝げをいただいたり、何をして良いものかかんばしくないものか判断がつかず赤トンボのゆきかう庭を眺めたりしていて、日が濃くなりかけツクツクボウシが鳴きはじめ、となりからも井戸をつかう音や人声が聞こえてくるようになり、みなはどうしているだろう会いにいってみたいが平気だろうかと思いながら、平気だとしてもいずこに収められているのかわからず訪ねるとしたら案内を頼まねばならずーー自分で見つけだすべく歩きまわることも可能だとして、結局なにをしているのか問われることとなり案内されることになるだろうことは目に見えているからーー、それはそれでおっくうで(なんだか偉そうと思われて)なにをするともなくいたところへ、来向かうもののあり。スケがひとりで。
よく睡れたのか等、いわゆるご機嫌うかがいというのか挨拶をともなうかるい話を交わしてから、さりとて感情のこもらない事務的な調子ではなく気づかうふうは見えたものの、しばらくしたら手配したカゴが来るからそれに乗って水戸やにくるようにとの本題にはいり。ひとりでか、と問うと、そうだと答えられ。逆らう理由はなかったが、まだタマ、ハナ、トリ、カゼ、ツキと、そしてシュガと会えてなく、顔を見る間もなく出かけることになりそうなことがいささか不満といえば不満ではあったが、それを言うのはわがままでしかないだろうと抑え、分かりましたと了承す。なんのために呼ばれるのかは分からなかったが、けだしこれからのことが話し合われるのではないか。しょうがない、と気づかれぬよう薄くため息をついたつもりであったが、見とがめられたのだろうか、
「リウさま」
と声をかけられ、その調子にかたい響きがあって窘められるのかと、謝るつもりで細面の壮年を見やると、表情もはたせるかな硬く。たじろぎながら、
「あの、べつだん不平だとかあったりゆきたくないわけでも、そんにはなくて。ただ、そばにいるのに、みんなと会えないのは、すこし残念というか・・・・」
しどろもどろになりながら弁解がましく言い、それが知らず本心を問わず語りしてしまっていることに気づけずに。スケはかすかに面をゆるめ笑みながら、首をちいさく左右にふってみせ、
「とがめるつもりなどあらしまへん。たしかに、(会えないのは)もどかしいやろしぃ。そうやなく、ここだけの、他言していただきたくないはなしがありましてな」
と話の方向性を正すと、
「よく考え、よく思い、よくかんじて、自分の目で、耳で、鼻で、口で、手で、はだでかんじとり、かんじとったものから自分でどうするのか決めるんが、ええ思います。もちろんなんでもかんでもそうしろ、というても無理やし、無駄やし、ときに無謀になるから、ほんまに大事なもん、ことについて、ということになりますけど」
相手がなにを言わんとしているのかリウにとって、ナゾかけされているように掴みどころないものではあったが、真剣に訴えるようすに、肯きながら聴いていて。どうやらスケの立場でははっきりとは言えないらしいこと、はっきり言えないだけ重要な、場合によっては差しさわりのあるほどの、ということは察せられ。婉曲に、暗にほのめかす具体的な輪郭の見えぬ話ではあったが、核となるつたえたいこと、つたえるべきと揺るぎなく確信しているらしいこと、は述べられたらしく、スケの面貌にやわらかさのもどり。目じりに皺をつくり、
「胸の、カタスミならぬ、すぐとりだせる真っ正面とにでもおいといてもろたらええおもいますわ。だれかのため、やなく、リウさまご自身のため、リウさまの大切な人のために」
主導権を他人にわたさず、必ずみずから握っておけ。つまるところそう言わんとしているのは理解できたが、はたしてそれは口外して差しさわりのあることなのだろうか。だれしもそうあれるようであれば、それに越したことのない、あらまほしいことであり、なかなかそうもいかなかったりする理想論、机上の空論になりがちな、ありふれた文句のようにも思われるけれども。何ゆえにそんな月並みなことを、とさすがにそう露骨には訊けず、どう問いを発したらよいものか思案をはじめていると、その表情を読まれたのか、
「マリヤさま、お母うえはなんで出てかはった、おもいますか」
「(祭司長らに)吾があやめられるのをおそれた。それと、(天授に)かつぎあげられることをおそれて、だとおもってますが・・・・」
おもむろに予想だにしていない質問を投げかけられ、混乱しまごつきながらもこたえると、
「ええ線いったはるおもいます。で、ここ(水戸や、天授)にきてみて、どうかんじはりましたか。お母うえの気持がわかるのか、わからないのか。もしくは、お母うえがいたときとは、かわったかもしれへんと、おもわはったんか」
雰囲気として話に繋がりがあるようではあったが、飛躍であるのか、省いてあるのか脈絡が見いだせず、疑問が深まるばかりであったが、たしかに疑いもせず頼りきる格好になってよいものだろうかと疑念のようなものを持ったことのあるのは事実で、それは今もあり。人ちがいなのではないか、おのれにこのような贅沢は分にあまるのではないか、いや、あまる、ということもあるが、それのみならず、母が出奔したところにもどったことを、母はどう思うだろうか、本意であるだろうか、とも。もしかすると、出奔の理由にある、母の天授に対するものを、吾は見えていない、気づけていないのだろうか。核心部分を。そも、おのれが見ようとすらしてこなかったらしいことに、リウは初めて心づき。いかなる心のうごきがなされてあるものか、スケは読みとれているものか、慈しむように目を細め、あさく肯いていて。そんな彼に、
「もしなにかに気がつき、なにかをしなければならないと分かったときは・・・・」
協力、いや、助けてもらえるのだろうか、と相手に頼む文句の中身を考えながらリウがかけると、もちろんとでも言うかのように完爾と笑んで顎をひく。
「あの方のときも、わてが手引きしたもんですし。・・・・こころならずも、やったけど」
あの方とは、母のことだろう、多分。こころならずも、とは出奔に反対だったのだろうか、少なくともその当時は。それでもなお助力したのか。それにしても、さらっと何気なく、あまりに重大なことを告白したのではないか。もしこれが知れたら・・・・とリウは笑顔のスケを眺め呆気にとられながら、ああ、だから口外するなと言われたのかと思いあたり、同時に、そうなるとその前にはなした、一見すると毒にも薬にもならない当たり障りのない話もまた、おなじく重要なものであるのかもしれぬ、と思いあたり。水戸やの世話になってから、コヅキとの出会い頭では少々不快な態度をとられたものの、ほかは丁重にあつかわれ、むしろ丁重すぎると感じるくらいで、厭な思いをしたことのなく。さりとて、もし仮に吾が、天授とかかわりのないものであったとしたら、彼らの信じるツチの神に深くつながる存在でないとしたら、はたしてここまでしてくれたものだろうか、ということ。
「もうひとつだけつけ足すと。ご存じやおもいますけど、わてらは都で随一のタンモノをあつかうオオダナ。都随一いうことは、この国随一いうことですわ。やんごとなきかたがたにもお品をおさめてますし、布も糸も、たいていわてらのタナをとおすことになりますし、とおさんようなもんでも、そのはなし(情報)は、まちがいなく耳に、目にはいります。まんべんなく。個人的にやらはってたとしても、流通するのであれば」
考えてゆくうえでの糸口、手がかり、というわけだろう。またぞろナゾかけされたようにも思われながら、ちかッと光り、なにかが見えたような気のされて。が、あまりに一瞬のことでくっきりとした像を捉えることのかなわず。
「ええですわ。まだ猶予はあります」
焦らずとも良い、とスケが励ますように。目路をむける軌道としては誤りがないのだから、と目で答えられたように感じて。あるいはそれは思いこみ、勘違いであったのかもしれぬが、あやまたず受けとれているものと確信があり。何ゆえに確信をもてるのか、鼻梁のとおった壮年の顔を見ていて、自分のうちの揺るぎなさにいささか訝しみもするほどで。母とよく議論し、言い負かされていたという話を以前していたし、逃避行に手を貸したというから、それだけ信頼され親しかったということであり、その母の子であるため、天授という枠を外しても慈しむ対象となっている、ということなのだろうか。それによって、心もちがゆき交いやすくなっている、とか。母は、こうしてこの人と向きあっていた時代があったのか。相手の双眸に映りこみ。たまゆらの間、めまいが起こる。相手の肌がはり皺が消え、目じりがいくぶん上がり、若がえり。光沢をました両目にうつるのは、早乙女。若人よりも、乙女のほうが活発に喋り、笑い、表情もうごきも豊かで。その照りを若人の表情がかえし、明るく輝き。その双眼のいろは、主人の令嬢にむけるものばかりであったろうか。ひとりの若いおのこが、若く美しいおみなへ向けるそれ、清らかな愛おしむものがあるのではないか。そしてそこにもまた、照りかえしがあるのではないか。おみなも、おのこを。・・・・さりながらリウはすぐに正気をとりもどし、いまスケをとおして見えた映像はどういうことなのだろうと小首をかしげているところへ、呼びだしのかかり。
「(カゴが)到着したそうです」
塀の内にかつぎ手ふたりがいて、覆面を着用したリウはひとりカゴに乗りこみ、覆いをおろされると運ばれてゆく。スケはつき添ってくるのではないらしい。ずいぶん大げさなほど厳重にかくされてゆくものだ、歩いてもそうかからない距離にあるというのにと少々あきれながら、実はここへ来るときもそうするようさせられたわけで、呆れつつも、いや、呆れるほうが認識不足なのかもしれぬと思い直しもして。なにが目的であるのかはともかくも害せんとイルカどもが現れ、その夜、コヅキとともに住していた邸宅を焼かれたのが、一昨日であるわけでもあるのだし。
そういえば、よく考えもせず、コヅキらに意見を訊きも聞かされもしなかったが、イルカはなにが目的で直に接触してきたのだろうか。正体、身もとをさらす危険までおかして。あの女人に打つかられたときに、呪術なのかなにかをつけられて昏睡状態となり、ことによると命をおとしていたやもしれぬことがあったし、吾をあやめるためであったかもしれぬが、であればもっとうまい方策があったのではないか。一昨日、ついてくることを拒み、仲間がいたようだから仲間に追跡させて居場所を突きとめ、そして火を放っていったほうが確実であり、イルカにとっては安全策であったのではなかろうか。それとも、よほど自信があって、油断したものか。それとも確実に仕留めたかったのか。いや、確実に仕留めたいのであれば、腕におぼえのある地サムライでも使ったほうがたしかであろうし。凄まじいまでの攻撃性のある霊力と執念、それらを支える怒りや哀しみの渦巻く念のとぐろを感じたものだったが。然り、黒々と瘴気を放ちとぐろをまいていて。そのとき、ふっとある景色があらわれ、その様相がぴたりと一致する。イルカの内に見えたオロチと、以前睡りのなかで見たオロチとが。黄いろの花々が爛漫と咲きみだれる宏壮な敷地をもった屋敷。屋敷というより、宮殿といった方がふさわしいほどの規模と豪奢なつくり。楽の音がかなでられ。ふさわしいどころか、宮殿そのものではなかったろうか。いまは天礼のものらの住するという元宮。その場を覆いつくす巨大な黒大蛇が視えたものだったが。そして吾を拒みはじき出したり、たびたび聞こえた女人の声は、イルカのものであることは間違いなさそうで。天礼といえば、祭祀をつかさどり天意をたまわり、天意にしたがい力を行使する役割であるそうだから、禍々しいものは祓いおとし近づけぬものだろうに、支配されているようなさまに見えたが、はたしてそんなことがあり得るものなのだろうか。天とのつながりを遮断してしまうほどの力を有した、マガツヒなどあるのだろうか。それをあの華奢な、わらべと言っても良いような女人が身に宿す、ということ自体異常な事態であろうし。あれは一体・・・・。
「それはおそらく、スナゴアラガネタイシンやろなぁ」
水戸やの座敷に着き、コヅキからおトモ、ミズクミが揃い、自然スケとカクとセヒョが構えるように隅に控えたなか、リウがオロチの話をすると、間をおかず逡巡するでなく言い。あたかも天候の話を交わすかのように早い返答で、何気ないもの言いで。が、息を呑む気配が四方からして、くうきに緊張感のみなぎり。コヅキひとりは悠然とセンスをつかっていたが、おトモとミズクミは絶句して目を見ひらきヒョウタン頭に睨むような目をむけていて、
「まさかスナゴアラガネタイシンてことは・・・・」
ミズクミが初めに切りだすも言いきれず喉が詰まったよう(詰まらされたよう)に咳こみ、
「そやで、にいさん。まさかあれが。うちらのご先祖さんたちが厳重に封じたやんなぁ。封印を破るのも容易やないけど、かつあれを揺さぶりおこして使役するのは、うちらでもできひんわざや」
「そやねぇ。封を破ることからしてできはる人は、そうそう。あそこに仕えるスナザワちゅうたか、かなりな使い手らしいから、もしやするとやれるだけのもんはあるかもしれへんけど、まずやらへんやろねぇ、自爆行為やから」
「天礼のとこどころやない、都、いや、この国をあやうくしてまうし」
ゆえにそんなことはなかろうと言いたげにミズクミが、引きとり、おトモも肩をもつように、
「なにより術者のいのち、いのちどころやないかな、タマシイか、タマシイひき換えにすることなるやろしなぁ」
カツラの樹だろうか。うすはな色からうすみず色の階調を背景に梢だけ現れ、丸みをおびた黄いろの葉が落つるさまが描かれていて。つよい風があった瞬間をとらえたのか、降りしきるような落ち葉。翩翻と踊るが如くに。それは矩形状の紙のなかの出来事で、これもまたコヅキの筆によるものなのだろうか。色味の抑えられながらも、けざやかな場面で。それでいて心なしか、切迫するような焦りの気配がされもして。間近に到来する季節の水のつめたさ、手や足の感覚のなくなるまでの痛み、アカギレの痛みを思いあわせてしまうからだろうか。話に耳を傾けながらリウは、すずろに首をうしろへ向けて掛け軸を眺めやり、その手前に目を転じる。ノボタンとシュウメイギクが活けられてあり。今朝つまれたものだろう。活き活きとした生気が可憐なすがたから発散されていて。この花々のように、もしくはこの花々を愛でるように、景観をうつしだすように、人はどうしてそれだけで生きられないものなのだろう。不可能なのだろうか。それとも、そうしよう、したいと望むものがいない、発想すらするものがいない、ということなのだろうか。きっと人とて、花のように、草のように、木のように、ただそこにあって満ちたり、満ちたりさせすることがかなうであろうに。
「だれかが裏にいてさせてるんかどうかは分からんけど、あのムスメならやりかねんやろなぁ。じかに会ってみたやんな、あれはスナゴアラガネタイシンというてまちがいない思うわ。結界に閉じこめとらまえようとし、まぁまぁあのあんばいやったからできたかもしれへんけども、まかり間違って解きはなたれていたら、どうなっていたか。わてら、ひょっとするとここにいられへんかったかもしれん。それだけの力があるし、なにより念のつよさな。あんなん会うのはじめてやわ。怨霊なんかと目ぇうたがうほどやわぁ。怨霊いうても、たたり殺すいうもんやなく、祀らな始末におけんほどのなぁ。そんなんが息する生身もってるいうな」
「天礼のとこのなんやろ」
おトモが眉をひそめて兄に問うと、肯かれ、
「そやけど、そんなんさせるやろか。それにヨソからやれいわれてできるほど甘いもんやないし、あの念もなぁ。・・・・あんとき、あのムスメの手下らが、呪術でつこた多分穢れた屍肉なんやろ、あれ放りこんできて結界と呪縛をといていったわけやけど、助かったんはあんひとらだけやなく、わてらも、やったかもしれんねぇ」
危機に陥っていた、と語りながらもコヅキは薄く笑っていて。リウは首をもどし、コヅキやおトモやミズクミの目を見やりながら、スナゴアラガネタイシンとはどうやらとんでもない存在らしい、そういえば木の神らしい媼と翁の話にも、それらしいものが出てきたと思いだし。スナゴアラガネタイシンについて問いを発し、三人から教えられ。主にミズクミが語り手となり。先ほどまでの対話であらく掴めはしていたものの。はるか昔、とてつもなく巨大なウワバミがあらわれ、山を呑みこみ、土をえぐり、その息はあらゆる生きものを死にたえさせ、死にたえた地には草いっぽん生えなくなり、つまり大地まで毒し、大地には言わでものこと水があり、毒され流れゆくものによって命を落としてゆくものも数知れず。それをアメの神に仕えるものらと、ツチの神に仕えるものらが手をとりあい、神々の力を借りて磐に封じたのだという。それを機に神々に仕えるものらはそれ以降ともに手を携えてマツリゴトをおこなうようになったのだとか。言わずもがな、天授、天礼、天長によるマツリゴト。その手は、ばらばらに離れてゆくことになるわけだったが。
「それであれば。・・・・小競りあいなんかしている場合でなく、また協力しあって封じるべきなのでは」
リウが思わず口走ると、
「小競リアイ。えらいキツいこというなぁ。さすがマリヤの子だけあるわ」
コヅキが低く笑い声をあげ、リウはひやりと胸を刺され。漫言放語であったと気づくも後の祭。覆水盆にかえらず。居たたまれず目を伏せると、それを尻目にコヅキ何気ないふうに、満足げにも見え。ぶしつけを窘めたものであったのか。
「たしかに、リウさんのいうたんがあらまほしやろねぇ。そうできるもんやったら、わてもそうした方がええおもう。そやけど、つこてるもんが天礼の手のもんで、天長と反目しててな、わてらかて潰そうとしてる仲で、それはなかなか現実的やないやろねぇ」
「とはいえ、放っておくわけにもゆかへんのやない」
おトモがやんわり取りなすように言い、ミズクミも同意らしい気色。
「忘れてはるんやないかなぁ」
禿頭の小柄な翁は、ゆっくりと妹と甥に目をむけ、返事をうながし。おトモもミズクミもなにも答えられぬなか、クサヒバリ、いや、モリオカメコオロギだろうか、庭から虫の音がし、リウはその音色に慰められるように目をあげたとき、
「ツチの神の御子と、どうやらアメの神の御子らしいもんが、わてらの・・・・とこにいたはるやんなぁ」
コヅキが回答を披露すると、いっせいに視線があつまり。目をあげた途端、注目を集める格好となりたじろぐ。だじろぎながら、コヅキが言ったことにまたぞろ引っかかりを覚えていて。吾のことについては真偽はともかくも(偽であったらそれはそれで叩きだされるだろうし不安ではあるが)聞きなれているものであったが、シュガもまた、アメの神に深く関わるものだというのは初耳ではあり。いや、と思いめぐらし、つき当たるものがあって。そういえば、あの木の神たちもそういう話をしていたような気がする、と。トリらも、シュガほど大きいタマシイはお目にかかったことがない、というようなことを言っていたものだし、自分自身感じたではないか。ほかを知らないから比べようがないものの、途方もなくひろがる熱いもの。たがために、シュガは肉体における深い接触をすることを避けてきたものらしいし。深い接触によって、霊的な影響で害してしまう恐れがあるため。天礼のだれかから、もしかしたらイチからか、教えられたのかもしれない。そしてそれは恐れ、という可能性にとどまるものではないというのを、リウは身と心で実感できてもいたわけで。これもまた、ほかに経験のないため狭い感覚的な主観でしかないことではあったが、おそらく他のものであれば、酸を浴びせられたようになったことだろう。見方をかえれば、そういう吾とて、ほかの者とであれば相手に痛手をあたえることになる心身であるのかもしれない。シュガがほかの誰かと、だとか、吾がほかの誰かと、なぞあり得ないし、あり得てほしくなく、想定するだけでも違和感があることではあったが。それは何も心情的なものばかりではなく、気づけぬだけで根拠のあるものなのかもしれぬ。さりながらリウは羞じらいがつよく、あまり突っ込んで考えられずにいて。そしてコヅキの言で引っかかったのは、なかんずく内容というよりもの言いであり。思いちがいだろうか、勝ちほこった響きの聞きとれ。だとしたら、なにに対して。なおかつ、あたかも有力な武器、呪具でも得たかのような、物質について言っているように聞きなせてならず。人について話しているのではなしに。そしてそれは口から出たもののみならず、コヅキの目、いや、翁のものばかりでなく、吾にむけられたおトモ、ミズクミの目にも等しい色が認められ。目に、面つきにぬらぬらボウズゴロシの如く表れていて。吾に集まっているものは、三つの頭、六つの目、だけではないのかもしれない。もっと多くの・・・・。触手のように絡みとろうと迫りくるうす汚れたもの。夢で見たおぼろな情景がかすめ。その一部分が鮮明に見えてきて。あれは触手だとかドロだとか、そう見なせるものを発していただけで、あれは思いの、気のまとまり、形づくられたもの。欲望のねばねばしたカタマリ。白いもののちらつく中、タライにはった薄氷を割って洗濯したことをリウは思いだす。切り刺すような痛みはやがて鈍くなり、そして指がうごかなくなってゆき。その折りよりも酷い寒冷を、心胆に覚え。震えが起きてまわりを見まわすこともあたわず。
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