第119話 ネの国
・・・・
如是我聞んー、ならぬ尿意ガマン
ガマンしすぎじゃもれるでな、そらもれるでな
有漏路より無漏路へ帰るひと休み
ふた休みも、み休みも
草まくらで手まくらだ
いたこ和尚がぁ唱えあげるで諸芸の一座のお定まり
芝居で三番叟か相撲なら 千鳥かさいもんなればぁ
でれんのれんの法螺貝しらべか、ホラ吹きか
コヅキの背後の板の間に活けられてあったトリカブトとキキョウ。掛け軸の矩形状の枠内には、空いろの背景にそびえ立つ巨木。やはりそれはコヅキが筆を染めしものであり、カミユイの樹であるのだそうな。リウは直にコヅキに問うたもので、答えをうけてから、願いを申しでて。よろし思うわぁ、と不随意運動に見まごう如く立ちどころに認容され、リウは茫然と見かえす。思いもかけずあまりに早い返しであったからで、しかも意想外の応えであったため。考えなしに突きあげてきた願いを口にしたわけであったから、思いつきでうごくことを否定されないまでも窘められるか、まず理由を問われるだろうと想定していたからであり。想定内の反応に対して、説得できうる言などなく詭弁を弄する器用さもなく(したくもなく)、横車を押すしかないと意を決し身がまえもしていたので拍子抜けし、
「ほんとうにいいんですか」
問い返してしまったほどであったが、
「ええも、あかんも、そうしたいんやろ。あかんいうても、どないなるもんでもなかろうしなぁ。・・・・どないしたん、ハトがマメ鉄砲くらったような顔してからに」
と破顔一笑され。またたく間にかく判断したということか。それはそれで、愕きを新たにするところではあるが。それとは別に、どないしたんもこないしたんも、相談するなり検討するなりぬきで、即答してよいものなのだろうか。しかもこんなかるい具合に。と、そこでリウは初めておトモやミズクミに目をむけると、ふたりとも憮然たる面もちで。もとより露わにはせず、おトモは目をおとし、ミズクミは叔父の禿頭に目をあてて。笛や太鼓、囃子が聞こえ、しるく聞こえ、そよ風の吹きぬけ。
いたこ和尚がぁ唱えあげるで諸芸の一座のお定まり
芝居で三番叟か相撲なら 千鳥かさいもんなればぁ
でれんのれんの法螺貝しらべか、ホラ吹きか
浪花節なら入れごと枕か 阿呆陀羅経というゥやつは、そら
はげた木魚を横ちょにかかえて朝から晩まで
親のかたきか遺恨のあるよにあちゃむきすかかこちゃむきすかか
気をとり直すように媼はうすい咳払いをすると目をあげ、
「ええんやろか。きのうのきょうで、しかも、すじ・・・・めたらやったらあるきまわるんは」
言いかけて濁らせたのは、素性であろうか。シュガのそれが信用できるものであるのか、信用にたる人物であるのか、ということであろう。彼のもとにゆきたいと願うリウ本人の前であり、あからさまに言うことを憚ったのだろう。仮にシュガ本人に害はなくとも、道々待ち伏せされている可能性がなきにしもあらず。火に飛びいる夏の虫、思うツボになるのが、最たる恐れであろう。シュガと血縁があり深い繋がりがあるのが、恐れの対象となる存在でまず間違いなさそうではあったことだし、問答無用で否むのが道理であろうとリウ自身思いもする。ゆえにまず自身の理性を組みふせたわけであり。
「相手があの間のぬけたガタガタの長さんらやったらじっくり考えるなり、逃がすなりもええかもしらんなぁ。ただし、あんひとらやろから、そうそう悠長なこというとられへん。ほんで、逃げだすやろ、ていうんも読みにはいっとるやろ。どうやら、業だけやなく、かなり切れるもんが控えておるらしいから、その裏かかなな。て、表がわからへんのやけどな。であれば、思いつきが、案外ええかもしらんからなぁ」
「そんな・・・・」
いい加減なことを、とミズクミは唖然としながら暗に言うと、
「まぁきもちも分からんでもないけどなぁ。わても他のもんにやったら、こないにすぐすぐええとは認めへんかった思う。単なる思いつき、みたいなものらしいからなぁ。ただなぁ」
と、コヅキは甥と妹をゆっくり見やり、
「ツチの神さんのお力をもっともいろ濃く授かったおひとの、となればはなしは別やないか。逃がすにしろ、それは本人が望まへんようにはわてらがすべきやない、わてはそう思う。なぁ、ミズクミ。マリヤの、そして・・・・二の舞にしたないやろ」
ミズクミが頬をうたれたかのようにはっとした表情をし、目を伏せる。そう頭を傾けはしなかったが、うなだれているように見え。マリヤことリウの母親は、祭司長の手や、のみならず天授の桎梏から逃れるべく北の地へと失踪したものであって。身重なからだで。自分のためではなく、子のために。だからこそ、それだけおもいきった無謀なこともできたのだろうが。ミズクミの妻、リウにとっては祖母にあたる女人は娘の身を案じ、悔やみもして、娘がいなくなるとすぐに床に伏すようになりひと月ほどで為すすべなく身罷った、という話をリウはキライから聞いていて。娘にもっとも強くあたったのが、父親であるミズクミだったのだとも。
すかすかばかばかばかげたお経にゃ間違いちゃうが
そらアホちゃいまんねんパーでんねん
あァー、チャカポコ、シャチホコ、おシャカさまでもクサツの湯でも
アホはしななきゃ治らない
あーあ、あーあ、ナムサンダー
はァーガンブツだ
はァーネンブツだ
はァーオダブツだ
コヅキのもの言いは厳しかったり冷え冷えと刺してくるような辛辣さがあるわけでなく、逆におだやかで飄々たるものではあったが、確たる芯といったようなものを感じさせて。水を打ったように、動揺という舞いあがる砂塵をしずめ、室内のくうきがしんと静けさに澄んで。風鈴の音が流れ。
「責めてるわけやないしなぁ。気に障ったなら。障ったやろなぁ、堪忍え」
「いえ、そんなことあらしまへん。いわれるとおりやと思います」
ミズクミは目を上げぬまま、何ごとかを抑えつけるようにして、明らかに平静を装いこたえ。リウはそこまで見はしなかったものの、おろし膝に置いた手をきつく結びあわせているように思われる。
「・・・・そやなぁ。ここにいれば比較的安心は安心やけど、相手が相手やからジリ貧やろうし。もちろんただ手をこまねいているつもりない、やり方を講じてゆくわけやけど、リウさんはリウさんでおもうようやってもろたら・・・・もろたほうが、ええんかもしらんねぇ。で、どこにいるか、見当ついてるんやろかぁ」
おトモに笑みをむけられた曽孫は突然のことにうろたえながら、正直に首を左右にふり。そう言われて、初めてまったくの閃きで、居場所を知らずあてもなく、かつ見つけだす方策をどうするのか等なんの考えなしであったことにようよう思いあたり。祖父が望むであろうように慎重に行動すべきなのだろうか。曾祖叔父は表面的には吾の言を肯定してはいるものの、婉曲には考えなおすよう、もしくはよくよく考慮するよう求めているのだろうか。
「それで、どないして見つけだそうおもうん」
こと葉に窮し、やはり無謀でしかなく(実際文字通り無謀であり)引き下がるべきだろうかと迷いが生じ。さりながら、やはりどうしても行きたい(会いたい)という思いのつよくあり。すぐにでも。そんな自分の心のありようを、落ち葉に埋もれたなかに、実を見つけだしたような自覚もできて。つやつやと肌の光るちいさな実。光、実、なのだろうか。火ではないのか。うずもれ潜んでいたおき火。とり出されてくうきに触れ、木っ端やこよりを得られて燃えあがる。静かに、静かに。
「あてはありませんけれど、サンキュウさんが知っているかもしれませんし、知らなかったとしてもリョウヤにも協力してもらって・・・・」
先ほどそうすることに対する難色を示された矢先であるものの、みずから出て探しまわるつもりでいて。さすがにはっきり口にするだけの太さは持てなかったのだったが。
「ええんちゃいますか。叔父貴がいわはった通り、ここに隠れてるんが最良なんかどうか。隠れるもなにも、焼かれた跡みていないわかったら、ここにいるやろてすぐに分かるやろから、隠れるに、はいらへんやろし。きのうのきょうでまさか表をうろうろしとるとはおもわへんやろし、むしろ安心かもしれまへんえ。なにより」
ミズクミが面をあげて母にむけ言うと、細めた目で孫を見やりながらうっすりほほ笑み、
「なにより、叔父貴がいわはったんは、信じよういうことやないですか。わてらの仕えるツチの神さんを。そのご加護を、お導きを、おはからいを。北のヘンドにいてたこん子が、そらひとすじになだらかにやないにしろ、損なうところなく、こうして一族のもとにこられたわけやないですか。それは人ふぜいがはかろうとしてなかなかやれるもんやない。わてらかて十何年探していたわけやし。そしてそこには、マリヤの思いだとかもあるおもうし、こん子の生命力、こん子にはこん子の意思というもんがある。信じてあげたらええんちゃいますやろか。わても、叔父貴とともに、信じようおもいますわ」
浪花節なら入れごと枕か 阿呆陀羅経というゥやつは、そら
はげた木魚を横ちょにかかえて朝から晩まで
親のかたきか遺恨のあるよにあちゃむきすかかこちゃむきすかか
すかすかばかばかばかげたお経にゃ間違いちゃうが
おトモは短くまとめた白髪をゆらし。縦にふったものか横にふったものか、傾げたのか、ゆらしただけなのか、風にそよいだだけであるのか、かすかなものではあったが。ほんのり苦笑に近いものを頬にうかべ、それは向きあう息子にではなく、おのれに対するものなのかもしれず、
「そやなぁ。負うた子に教えられ。老いては子に従えいうしなぁ」
「そやでぇ。まだわらべみたにおもっとるかもしらへんけども、ミズクミも老いたといえる齢やし。わこうどに好きにやらせたらええしなぁ」
コヅキがこと葉を添えると、ひくく笑い声をもらし。妹と甥もつづき。室の内のくうきが綻び、和やかになり朗らかに開きゆく。戸外からする音声と馴染むほどに。
すかすかばかばかばかげたお経にゃ間違いちゃうが
そらアホちゃいまんねんパーでんねん
あァー、チャカポコ、シャチホコ、おシャカさまでもクサツの湯でも
アホはしななきゃ治らない
あーあ、あーあ、ナムサンダー
はァーガンブツだ
はァーネンブツだ
はァーオダブツだ
サンキュウに訊かせに走らせた者から、サンキュウは居場所は分からぬもののだいたいは見当はつくかもしれんと応えたことからかるく話が交わされて、サンキュウとともにセヒョがついて探しにゆくことに決まり。リョウヤはやはり単身での行動で、伝達する役割を担い。
スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ
仏説阿呆陀羅経ぉー、そら阿呆陀羅経
如是我聞んー、ならぬ尿意ガマン
ガマンしすぎじゃもれるでな、そらもれるでな
有漏路より無漏路へ帰るひと休み
ふた休みも、み休みも
草まくらで手まくらだ
いたこ和尚がぁ唱えあげるで諸芸の一座のお定まり
芝居で三番叟か相撲なら 千鳥かさいもんなればぁ
でれんのれんの法螺貝しらべか、ホラ吹きか
浪花節なら入れごと枕か 阿呆陀羅経というゥやつは、そら
はげた木魚を横ちょにかかえて朝から晩まで
親のかたきか遺恨のあるよにあちゃむきすかかこちゃむきすかか
すかすかばかばかばかげたお経にゃ間違いちゃうが
そらアホちゃいまんねんパーでんねん
あァー、チャカポコ、シャチホコ、おシャカさまでもクサツの湯でも
アホはしななきゃ治らない
あーあ、あーあ、ナムサンダー
はァーガンブツだ
はァーネンブツだ
はァーオダブツだ
みすぼらしい僧形の、唄い踊っていたごま塩のいがぐり頭はこういうなり行きとなることを見こしていたものか、リウらの申し出を拒むでなく厭うでなく、むしろよく聞かぬうちにふたつ返事で承諾するとたちまち足を進めだし、むしろリウらを慌てさせるほどに。さりながら急ぐでなく、集まり興じるものらと共に練りあるき。その数、十数人といったところか。比較的身なりのよい若もの、肥えた中年女性、酔っぱらっているのか赤らんだ顔の足どりのおぼつかない初老男性、じいさん、ばあさん、わらべもちらほら。それらがサンキュウに和して唄い、踊り、囃子をいれるものあり、太鼓たたくもの、笛ふくもの、手拍子いれるものあり。その輪のうちでおとなしくいては目立つため、リウとセヒョも見よう見まねで手をふり足をあげしながら。溶けこむためになのか、興にのってか、セヒョはしんがりになり、煽り、呼びこみもはじめていて。われと来て遊べや親のないスズメ。リウはさまで乗り気になれずに、あたりに目を配りながら移動していて。恥ずかしさはあまり感じはしなかったものの、はたしてこれで探していることになるのだろうか。訪ねあるくべきでは。そう気が揉めてならず。ひとり抜けだし、訊いて回ろうかと思わなくもなく。人らがさらに増してゆき、熱気も土ぼこりももうもうと立ちのぼり。艶やかなキモノ姿で踊るカジュの野郎どもがいたが、あきらかに存在が霞んでしまっていて。気もそぞろでいるリウのそばに、つとサンキュウが寄ってきて、
「どうやら、見つかったらしいで。ほら、こっちを見ないで手をうごかす。すぐ案内がくるから待ってな」
耳の穴に口早に吹きこむと、さっと離れ、このことしか眼中にないとばかりに声を張りあげ、杖につけたサレコウベを撞木でうち鳴らす。
スカラカ、チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ
噪音の渦中の一瞬といってよい出来事で、サンキュウの姿の人なみに埋もれて見えなくなり、うつつにあったことだろうかぼんやりしてしまう。願望が見せた(聞かせた)マボロシだろうか、そこにあるように見えて近づくと消える逃げ水のように、とすら思われてきながら流れにあわせ両腕をあげて手をひらひら閃かせていると、腰に打つかってきた者のあり、とりあえず謝ると突いてきて、それはわらべでなにか言っていて。まわりの喧噪で聞きとれず、かといって急に立ち止まると流れを妨げてしまうので人ごみから連れだして腰をおとし、目線をあわせると、
「なぁ兄ちゃん、足いたいねん。負ぶってんか」
髪が短く、黒っぽい単衣であったが、どうやら女の子であるらしい。見たところ怪我をした箇所は見あたらないものの、見えぬ傷ということもあり得るし、くたびれてしまったのかもしれぬ。こうもしてられないのだが、とゆき過ぎる人びとを眺めつつ、先ほどのサンキュウが告げにきたことが夢マボロシでなければ案内がくるはずであるしと逡巡し。だからといって、見棄てるわけにもゆかぬだろうと気持をかため、
「わかった。どこまでゆけばいい。て、言われてもよく知らないから、教えてくれる」
と応えて、背をむけ乗ってくる者をもち上げる。なにも焦ることはないのだし、とおのれに言い聞かせ。そうでなくとも暑いなか、女わらべの体温がたかく、じっとり汗が染みてくる。リウ自身汗をかいていたためお互いさまではあるが。あっちやで、と指さす方へ歩いてゆく。サンキュウひきいる集団とは逆方向で、塀や川べりのヤナギの木が見えて。もしかすると目的地はそう近くではないのかもしれぬ。乗りかかった舟、覚悟を決めようと迷いを振りきろうとしたとき、
「あんなぁ、そのまま前むいて聞いててほしいんやけど。あのジイさまから聞いたやろ、うちが案内するもんやねんで」
ぼそぼそ声を潜めて言うのに対し、咄嗟に立ちどまり問い返してしまいそうになるもかろうじて堪え、返事も控えてそのまま歩みをつづけ。ああ、やはりあれはうつつで、サンキュウはうつけているようで(装っているのか)、押さえるべきところは押さえて行える方なのかと見直し、半信半疑でいたので赤面しそうになり申しわけなくも感じ、またぞろ忸怩たる思いに拘泥しそうになりながらも留まり、セヒョにも知らせなければと足を止めたとき、
「兄ちゃん、ここやないてば、もう少しさきやで。あつさでぼんやりしたはるんかなぁ」
と背後からまわりに聞かせるためであろうかん高いのあがり、つづけて低声で、
「心配あらへん。あのごついボウズあたまの兄ちゃんのことやろ。兄ちゃん(リウ)のまえに声かけといたから、もうついてきてるはずや。て、ふり向かずにな」
承知した、と首を上下に振って見せ、抱えなおしたとき、
「もう少しやから、そうぶつぶついわはんなや。ほら、きりきりきばってあるきなはれぇ」
わらべは声を張りあげ、肩を揺すってくる。通りしなにくすくす笑ってゆく者のあり。先刻はにわかのことで、慣れぬことでもありたじろぎはしたが、傍から見られて怪しまれないようわざとやっている言行だとリウには呑みこめていて。そんな殺生な、などと剽げて返したりの演技まではあたわなかったものの、うんざりした顔をつくり、大きくため息をついて見せたりする。首から腰まで湿り気のある熱に圧されて、わらべであるからさまで重くはないとはいえ荷としてはかるいものではなく、まだ息切れしたりくたびれるまでではなかったものの、あふれる汗が髪を、キモノをしとどに濡らしてゆき。さりとて、そう不快でもなく。ヤナギの葉をそよがせ、カワラナデシコをゆらし、そっと吹きぬけてゆく風、心なしか涼味をおびているように感ぜられてこころよく。なでしこが花見るごとに娘子らが笑まいのにおい思おゆるかも。とても可愛らしいとは言いかねる身なりと振るまいではあったが、それは装いにしかすぎないのだろうとも思う。いとけない子が、いとけない子らしくただひたすら可愛らしくいられるのが人なかの理想ではあろうけれど、実態はその理想からかけ離れている。ふとそれが思われ、いかな境遇のわらべなのだろうか、と背負っている者の身が気になってきて。それは気の毒になってきて、ということでもあり。この子はこの子で懸命に生き、いまも導いてくれているわけで、哀れんだりしたら怒りを買うなど不愉快にさせてしまいそうではあったが。
「ほら、あそこにでっかい木ぃあるやんか。そこや。もうひとふんばんや、きばってなぁ。よいやーさ、よーいやさ、よいやっさッ」
女わらべは戯けた語勢でかけ声を出していて。あたかも神輿の担ぎ手に対するが如く。対外的に演じたものと了解しつつも、その滑稽な調子だとか、その設定というのか見立てる発想に、思わずリウは噴きだしてしまい。ということは、この子は神輿ということになるのだろうか、と。七歳までは神のうちと聞いたことのあり、いかなる意味であるのか具体的には知らず、ただ、神の手のうち(領域)にある存在だということではないかとおぼろげには思っていて、このうつし世に根づくだけの生命力が足りないでいるという状態を表現しているのではないか。つまり神のうちとは、とこ世もしくはかくり世であり、未だ熟していない肉体は壊れやすくそこに帰りやすい状態だということなのではないか。だとすると、本来はとこ世もしくはかくり世に住しているということになるわけで、それもまたしても分明としないことでなんとも判断のつきかねるところではあるものの。未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。さもありなん。さりながら、その道学者先生から叱責されるであろう方面へと自然、思いのむかってゆき。とこ世かくり世のことの、母の話しが思いだされてきたもので。母いわく、それは「ネの国」。ネの張りめぐらされた世界なのだという。ネとは根のことかと問うと、たしかにそれもあるが何も草木のそれというだけのもののみならず、草木をふくむ森羅万象の根ということであり、それは音であり、峰であり、寝であり。うつし世では及びのつかないものが睡るところ。うつし世など、そこで見る夢のひとかけらに過ぎないのかもしれない、とも。想像しきれないだけの茫洋たる気色にめまいがして気が遠くなるような思いがしたものだったが、同時にその感覚がネの国というところの気配の片りんに、ほんのり近いところにあるような気もされて。そぞろに、すんなりと受けいれられる世界観であり、何ゆえにか、そこを知っているという思いすらしたものであり。それは不可思議でもなんでもなく、あらゆるものがかつてはそこにいて、根となるものがあるのであれば、記憶はなくとも細胞、もしくはタマシイは知っているわけであるから。聞いたのはそれこそ、神のうちと言われる七つよりくだる齢のころであったのだし。
「なにぼんやりしたはるん。ゆき過ぎやでぇ」
クスノキの巨木の根方までもどりーーといって、一、ニ歩程度ではあったがーー、木蔭にはいるとしゃがみ込み、女わらべの身を下ろし。ゴツゴツ粗い凹凸の木肌。シノブのからみ生え。厚く繁る葉で、影が濃い。じっとり熱い荷がおりた分、かろやかに感じる躰を、そよ風がやさしく労るように撫ぜてゆき。この辺りにシュガのいる家があるのだろうか。アセビだとかセンニチコウだろう、花をつけているそれらが成す藪がよく目につく、路も均されていない、見るからに裏通りというような場所のそこには、粗末な小屋が点在していて。
「おおきに。助かったわ。帰るまえに、手あわせていったらどないやろ」
手を合わせる。てのひらとてのひらの皺を合わせて、幸せ。リウはきょとんとして、やくたいもないことを思い描きながら細い女わらべの顔を見つめていると、そこ、と言わんばかりに指をさされて。そこには、クスノキの隣、藪の側に隠れるようにして安置してあった石の祠。小首を傾げるも、拒む理由もなく、まだシュガの居場所についていないわけであるから行動をともにするしかないこともあって、先に屈みこんでゆくわらべの横にならんでしゃがみ込み、両手をかさねて目をとじて。ふたえみどり、つぎはなだ、なかはなだ。眸子の裏にゆらめく。胸中に映じた青系の光彩が、ゆらゆらと変化してゆらめき。ちいさな祠ではあったがそこから感ぜられるものは遙々とひろやかで、リウは海というものを見聞したことのなく聞いたことのあるばかりであったが、こういうものなのだろうか、と思ったほどの。そのゆらめきに揺蕩っていると、
「そのまま聞いててな。うちらはここまでで、別れる。まうしろをまっすぐゆくと、すぐにふたり手をつないだのんがきざまれた石があるから、そこから茶わんもつ方へゆけばそこにおる」
「わかった、ありがとう」
リウも同じく小声で、相手の方をむかずに返し。わらべがそのまま立ち去ろとした気配に、とっさにこのまま行かせてはならぬと思い、待ってと呼びとめ。むろん姿勢を変えずに低声であったため、聞きとれずにいってしまうかもしれなかったのだが。そして、あえてさらに押しとどめるまでするつもりもなかったのだったが、跫音のとまり。待っていてくれているようだ。
「名前きいてなかったから」
「ああ。うちは、こっこ、や。ニワトリでもないけどな。ヒヨコはヒヨコかもな。きいろいくちばしして。ほんじゃな」
と言う声がしたかと思うと、地を駆けてゆく音が遠のく。リウは意識的にゆっくりと立ちあがり、走り去ったであろう方向を見る。それらしい痕跡としては、土ぼこりが舞うのがカゲロウのようにあるばかり。表通りに賑わいがうそであるかのように、人通りの少なく、ツクツクボウシの独唱、ヒメコオロギやヒゲシロスズの輪唱のひっそりと湧いていて。言われたとおりに進んでゆき、アセビの繁みに覆われた道祖神の碑をみとめ、左のほうへ足をむける。何気なくふり返ると、セヒョの坊主アタマがかいま見え、ほっとし。蔦のからんだあばら屋が見えてくる。あれだろうか、と胸の高鳴りを覚え、気づかぬうちに足早になっていて。と、急に戸の開き、出てきたのは女人。すらりと手足の長くのびた早乙女、と見てとったとき、
「リウやんか」
目を見ひらき声をあげた早乙女は、タマだと気のつき、どちらともなく馳せ寄り。
「無事でよかった。トリ、ハナ、カゼ、ツキも無事で、一緒なんでしょう」
「そやで。おたがいなんともなくて、なによりやわ。心配しとったからなぁ。で、ようここわかったなぁ」
「いろいろあって。詳しいことはなかで、ね」
リウはそう口にしてから、今さらながらに不用心に行動してしまったと、冷やりとし反省す。周りにある人の気配としては、当て処なく歩きまわる素振りであちこちに足をむけながら歩み来るセヒョひとりのものしかないようではあったが。
「ところで、ここに、おカシラさん、いや、元になったんだよね、元おカシラさんがいるんでしょう」
声を潜めて問うと、タマの表情がくもって強ばり、
「おるはおったんやけどなぁ。せんないことやけど、もう少しはよう会いにきてもろたら、よかったかもしれんなぁ」
歯切れわるく言われながら、気づかわしげに双眸をのぞかれ。心臓のあたりがぎゅッと締めつけられる。一体、なにを言わんとしているのだろうか。いや、何があったのだろうか。賊を解散させた、とサンキュウから聞いていて、紛糾したらしいことも予想できていて。さりながら順風とはゆかぬまでも、それなりに治めシュガは息災でいるものとかるく簡単に思い決め、疑いもしないでいたものだったけれども、それのなんと能天気にすぎた希望的観測であったことだろうか。もしかして、もしかしたら。最悪の結果が。押さえこもう、押さえこもうとしても、突き上げてくる濁ったくもりで胸の芯に痛みをおこし。もしや、もう、このうつし世には。・・・・
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます