第117話 イルカ

「おまえ、何もんや」

「なにもんも、てなもんやも、いうてるように、イルカいいます。メメさまのとこにいてます」

・・・・

「おまえ、何もんや」

「なにもんも、てなもんやも、いうてるように、イルカいいます。メメさまのとこにいてます」

・・・・

「おまえ、何もんや」

「なにもんも、てなもんやも、いうてるように、イルカいいます。メメさまのとこにいてます」

・・・・

「おまえ、何もんや」

「なにもんも、てなもんやも、いうてるように、イルカいいます。メメさまのとこにいてます」

 飴色に熟れた日にあぶられてカゲロウの立つ路を、コヅキの待つ屋敷へとむかうなか、セヒョが問い、イルカが答え。細かな言いまわしはたがえど、おなじ内容の質問ーーというより詰問かーーと、回答が幾度となくくり返されていて。メメとは官吏の一人であり、その屋敷に下働きとして勤めているとのこと。既にアブラゼミの音は聞くことのとんとなくなってはいたものの、その盛りのときの土砂降りのように鳴き交わすさまを思わせる、執拗なまでのやり取り、というのかセヒョの疑心ぶりであり。当然リウはそんなセヒョを怪訝な目で見、イルカを庇おうともしたものだったが、押しやられるようにしてくり返されていて。その間、セヒョは口ぶえでリョウヤを呼び、ひたいや首すじを汗で光らせながら駆けてきた男わらべを知らせに走らせていて。あなた方はどういった人であるのか、自分を連れてゆくのはなんの目的があってなのか、そして連れてゆく先はいずこであるのか。それらをイルカから訊かれ、疑問をもったり警戒したりするのは自然なことであり、すこしでも不安や緊張をといてやれたらとリウは応えようとしていたのだったが名を教える程度しかかなわず、遮るようにしてセヒョが問いただしていたもので。もしかすると、遮るように、ではなく、遮るためでもある行為であるのだろうか、と頭を掠め。知られて困るようなことにはならなそうであるため不思議ではあり、セヒョとつき合いが長いわけではなかったが、わけもなくかくなる無体な真似をする人ではなかろうと思いはする。さりとて、そのわけに皆目見当のつかず、ために困惑するしかなかったのだが。相手がふてぶてしい態度の成人であったのならともかくも、そばで見ていて、まだ女わらべで通る齢であるらしいことが見えてきて、そのあどけない仕草や口ぶりの可憐で小柄な容子で、人並み以上に丈たかくシシムラの隆とした若人が質しているさまはどうしても、弱いものを虐げているようにしか見えず。そしてその勢いに圧されて萎縮し、いとけなさの残るものに助け船ひとつ出せず手をこまねいているだけの吾でしかないのではないか、という気がリウにはしきりにされて、気が咎められてならず。さりとて何ゆえに難詰するのか問うことは、セヒョを疑う、しかも人間性を、ということにならぬかと躊躇われもしたわけで。それだけ信頼していたとも言い得るし、また、意識するまでに濃くはなかったものの、彼がそうすることにそぞろに同感している部分があったからでもあって。さりながら庇いたい、いたわりたい気持はかわらず、

「時間とらせてしまって、平気?𠮟られたりしないかな。なんだったら、マメ、だったか、カメだったか、メスだったか・・・・そうそう、メメという方のところに断りの知らせをいれるなり、つぎの機会にしても」

 と気づかうと、

「おおきに。おつかいに出たところで、急いでもどらなくともかましまへんから」

 口もとに笑みをつくり応えられ。案じていたものの、口撃に近いものを受けながらもさまで動揺もなさそうで、少なくとも表面には見られず、ほっとしつつも、逆にまたそれが不憫を誘いもして。それだけの強かさというのだろうか、耐えて表に出さないようできるだけの能力を養ってきた、見方をかえればそれだけ厚い皮になってきたということであり、それは望んでのことでなくやむを得ずのことであろうから。やわらかく滑らかで華奢な手が、水仕事、野良仕事で次第にうすい皮膚が厚くごわごわ固く、ツヤがきえ頑丈になってゆくが如く。雑務をすることなくいて、いくらか柔らかくなった自らの手にリウは目をおとす。ちいさい傷痕が数箇所あり、指さきはうす紫に染まっていて。ふと気がついてイルカの手を見ると、すんなりと指ののびたなめらかな手で。精神的にはともかく、そう多く炊事はさせられていないようすにすこし安堵する。たしかにこの状態の人に、積極的に火や刃物を扱わせることはなかろうし。ささいな会話からそれとなく置かれた状況を訊ねたりしたかったのだが、もの心ついたときにはいまの官吏の屋敷にいて仕事を仕込まれたということくらいを知れたくらいで、それでリウさんはどないな風にしてきたはったんですかなど問い返されると、

「おい、おまえなにもんや。正直いわんかい」

「なんも正直に、そのまんまいうてます。イルカ、いうて、メメさまのとこにおかせてもろてて」

 またぞろセヒョが切りこみ、イルカが幾度となく言われ、馴れもしたのか動揺を見せるでなく返し。イルカがこちら側のことをよく知らないだろうように、こちら側もイルカの詳細が何時までたっても知れない状態で。コヅキを交えた席ではゆるりと話せるだろうからそれはかまわないとして。それにしても、生理的に合う合わないがあるにしろ、セヒョは弱きものだとか小さきものに対し、優しい純な面をむけることはあっても、厳しかったり辛らつに当たることはまずなかったはずだが。なんとなればセヒョ自身に幼子のような清純なところがあり、おなじ地方出身者が町中で出会ってそのことを知り会話が自然故郷の方言になってしまうが如く、ケガれのない、もしくは少ない者に対しては清らな赤心をもって接していたものであったが。疲れが溜まっていたりして、余裕がなくなっているのだろうか。いくら頑丈そうで実際頑強であろうとも生身の人間であるから、あり得ぬことではなく。こうして共にいるというのも、そもそもは棲みどころとし、なりわいとしてもいた、言うなれば心身の拠りどころを奪われ、奪ったものの正体を見極め、能うのであればあだ討ちするというのが願いであろうし、そう心安まるときなどなさそうではあり。

 眼前を塞ぐ塀も人の波もまばらになってゆき、緑が多くなってきて、ふく風に草花の香をふくむ涼味が混じりはじめ。伸びはじめたばかりの新鮮なススキの穂が、白味をおびた黄金いろに光ってなびき。トンボがよぎり、シジミチョウが瞬き。リンドウの花々の、藍に近い青が目に染みるようにけざやかに、さりとて可憐に笑んで。気のせいなのか、花びらから花粉ではなさそうな金銀砂子の如きかすかなものがこぼれ落ちているように見え。精妙な音色を奏でながら風にのり、ひろがり、日のなかにとけいり。もしかすると、それはリンドウからのみ流れでるものでなく、ススキからも、スギやナラからも、ツユクサやオミナエシからも、草木に限らず、イヌだとかセキレイだとかカマキリだとか、人だとか、ツチやクモからもあふれ出て、流れゆくものなのかもしれない。それぞれの色の、それぞれの音をもち、それぞれの表れかたで。重なりあい、交じりあい、ときにぶつかり、ときに往きすぎ、そうして織りなされる彩りと楽の音。組み合わせによっては醜くも、麗しくもなり、そも醜いも麗しいも人の知覚のとらえしものにすぎず、また、それは常に変転するものであり、ゆく川の流れのように留めようのない、判別しようのないもので。その彩りであり楽の音である織りなされ結ばれたものが、樹でありツチでありテンであり虫でありケモノであり人であり。流れだすというよりも、流れが生みだした万象が、万象も流れの一過程でしかないわけだから流れの途上ということでしかなく。なべて往き、来たるもの。めぐりゆく環。環の微小な一部である吾というもの。空の空なるかな、すべて空なり。・・・・

 つま先のあたりに違和感を覚え、小石を蹴ってしまったものらしく、その感触にリウははっとして顔をあげる。ツクツクボウシの音のなかに、ヒヨドリの鳴く声のして。セヒョもイルカも無言でいる。コヅキの屋敷近くまできていて。さもあれ無事に到着しそうだとリウは胸をなで下ろし、秘かにため息をついていると、

「みなさんおそろいで。へぇ、そちらが・・・・」

 キライが突如煙の湧くように現れ。というのは何も中空を切り裂き抜けでてきたなどという怪異現象ではなく、暗緑色のキモノで木下闇にいて気配を消してあったからであるらしく。イルカをかるく見やり会釈し、イルカも返しこうべをさげ。あまりの自然な仕草にながしてしまいそうになりながら、リウの目は女わらべのちんまりしたツムリに目のとまり。とまった目が丸くなる。されたことを察したものか、それとも誰であるかはともかく向かう先の人が出むいてきたこと知って礼儀としてさげたものがちょうどよいおりの返事となっただけのことであるのか。いや、仮にされたことを察して返したのだとしても、そう驚くことでもないのかもしれない。ハナやツキやカゼ、ことにトリに至っては特殊であるのかもしれぬが、なにかを失った分他が発達してその機能を補うということはあろうし。ましてや人の下につき、働かされてきているわけだから否応なしに発達する、いや、それは強いられたものにしろ能動的に発達させてやかねばならなかったろうし。

「もうそろそろ来ると見こしてお迎えにきてくださったんですか」

 リウはふっと気が緩み、笑みながらキライに歩みより。セヒョとイルカのふたりが醸す殺伐としたくうきーーセヒョの一方的なものではあったがーーを、この壮年男性によって緩和してもらえるのではという期待で心ゆるびして声をかけたものだったが、冷やりと足の固まり。平生見せる微笑ではあったが、薄皮一枚の下に緊張のみなぎりが感ぜられて。警戒というのか、何時でも打撃に対して対応できるだけの構えの気配、ともいえようか。つまり打ってかかってくることを想定しているということになり。まさか、冗談ではないか。剽げたりからかったりしているわけでないことが緊迫感から知れ。勘違いではないだろうか、ひと目見ただけの段階ではあるし、と思い、逆にぎくりと思考の止まり。ひと目見て、ではなく、もしかしてイルカをあらかじめこういったものと対策が立てられてあったのだろうか、と。先ほど思いうかべていたーー思い出、だろうかーー、だれかの、多分、母のものらしい語りが閃き、よみがえり繰りひろげられてゆく。バケモノに拐かされし赤子の兄と妹。兄は病弱なため棄てられることとなり、妹はともにおなじ道をゆかんと絶食したりして自らの身を弱らせ棄てられるよう仕向け願いどおりそうなり、同時にほうり出されるも、妹は兄の所在も生死もつかめぬままヤマンバに拾われ生きのび、ヤマンバを殺め、バケモノ共に復讐しようと誓う。もう間違いなく亡きものとなったであろう兄のあだ討ちのために。ずず黒いオロチを使い。そのヌラヌラした黒い巨体が這ってゆくような感触を覚え、背後に置いてきた女わらべをふり返り。杖を押さえ、あどけない面つきで立っていて、なんの異常も見受けられぬ。さりながらセヒョだけであるのならともかくも、キライの反応にも通じるものがあるというのに、吾はつゆさら危険性を感じていないというのは、けだし鋭いものらにとっては感じとることのかなう鋭利なトゲを、そうでない吾のようなものにはまったく見てとれないように巧みに隠しもっているということになるのだろうか。もし、そうだとしたら。そうだとしたら、ではなく、それが事実、なのではないか。悪寒が背骨を這いあがり。

「へぇ。こちらの方へご案内するよう、ことづかっておりますもんで、どうぞ」

 キライが手をふり示した方向は屋敷ではなく。リウはちょっと訝りつつも、そちらに離れのようなものがあるのかもしれぬと軽くとらえ疑問に思わず、渡りに舟とばかりにキライにむかい歩みを再開しつつ、イルカの傍にはもどらずに声だけをかけて。イルカの隣にはセヒョがいたこともあって気が咎めずにすみ。キライに指示されるに従って、先頭に立って進む先には、それらしい建物のなく。それどころか人家の見当たらず、幹の太い松がまばらに立つ、開けた野原のあるばかり。コヅキが中央付近にたたずんでいて、リウの姿をみとめ目があうと、目じりに皺をつくり浅く肯いてみせ。温和でやわらかな表情をしていたが、何ゆえであるのか、むしろそれがリウは不安を掻き立てられて。厳冬のなかにある古池。表面は凍りついて板のようになっている。おもしろがって乗ってあるく小人。それを見かけて息を呑む大人。池にはった氷は厚い板のようで、実のところくたびれ磨耗した布きれの如く薄くもろい、小人があゆむ程度には耐えうるものではあったが、跳びはねたり蹴たてでもしようものなら割れ裂けて、冷酷な奈落にのみ込まれることになるからであり。事実、それによって毎年のように死児が出ていたからで。もとより大人の重みにもち堪えられるものでないため踏みこんで抱えあげて助けることなどかなわぬ業で、小人を興奮させたりして過剰な反応をおこさせずに地表までおびき寄せなければならぬ。冬ざれ池の水が凍りついても乗ってはならぬと母や父から言いふくめられたことを思い出し。その、おびき寄せる口調が、コヅキの様子と重なって感ぜられ。いま吾は、薄氷の上をわたっているのだろうか、崩れ去ることなき堅固な大地ではあるが、踏みいる地面のことではなく、いまある状況のことをキライは危惧していたのだろうか。

 ここは、コヅキ、もしくは水戸やの所有せるものであるのかもしれぬ。例えば、このままでちょっとした小屋を設けられそうなほどの敷地面積があり。なにかを建てられる、というのか、何かしらの大がかりな振る舞いがかなうところ、とも見做せよう。その内にはいり、こころなしかヒョウタン頭の小柄な老爺の顔つきに明るみが出たように見え。もしかするとそれは、リウ自身の胸中の写しだしであるのかもしれず、張りつめていたところから抜けだし得たような心地がしていて。その内にはいった途端に。然り、境界線だのなにか印となるものがあったわけではなかったが、膜がはってあるかの如き明らかに内と外という感じを覚えさせられるくうきの違いがあって。コヅキに歩みよりながら、辺りを見まわしてきて、どうやら自然と開けた場となっているわけではないらしい、と見てとる。ぱっと見ではマツしか目にはいらなかったが、他にナギ、エンジュ、サカキ、スギが周りをとり囲むように立っていて、そう巨きくもない磐が四方に据えおかれてあり。それらが内と外との差異を生みだしているようではあったが、不断にかくなるありさまではなかろうとも察せられる。かくなる配置を案配して、コヅキがいて、はじめて発動する空間なのであろう。

「出しぬけにこんなんとこ来させてもうて愕かせてもうたやろ、堪忍え。ここの方がええやろなぁおもってなぁ」

「まったくかまいませんが、それより・・・・」

 なぜこのような場所へわざわざ、と口にする前にみずからでかき消し。大げさ、もしくはとり越し苦労なのではないかと暗に言っていることとなり失礼にあたる。それももとよりあり、なかんずく険しい表情をしていないものの、コヅキから放たれる気迫に圧されたこともあり、迎えたキライのようす、セヒョの態度、ここまでの路すがら自身の感じていることを全て思いあわせたとき、どうしても疑うようなもの言いをできなくなっていたからであって。とらえどころのない得体の知れないものが、腐敗したもののまじった果実、外見では区別のつかないあまたの果実を水につけたとき、中身の醜くく腐ったもののみが浮かびあがってくるような、そんな不気味な輪郭が見えてくるような気のされて。リウ自身薄々それを感知していた、ということもあるようではあったが。

「まぁとりこし苦労ですむやったら、それはそれでええことやしなぁ」

 平生に見せる余裕ある態度で肩から力のぬけ、穏やかな口ぶりではあったが、ツヤのある頭頂から指さき、つま先までの隅々まで意識を行きとどかせているのを感じさせられる。ひと言でいえば、隙がない状態、ということだろう。仮に背後から不意になにかあったとしても、よどみなく対応できることだろう。コヅキが血統のなかで最も優れた資質を備え、能力も業もずば抜けているため天授の頭目を嘱望されるも固辞した、という話を、リウはキライから聞かされていて。屋敷に厳重に張り巡らされた結界の存在も知っていたものの、今ひとつピンとこないでいたものが、かッと目が開いたような具合でーーということはそれまで瞑っていた、ということだろうかーー、その凄さが見えた、ような気がされて、思わずあんぐりと口のあき。意識(気、と言い得るのか)のあり方が、四肢のみならずこの空間に行きわたっていて、もちろんそれのみであってもなみなみならぬ力量であり容量であったのだが、何よりもそのありように衝撃にちかいものを受けていて。その構えともつかぬ自然体の構えと等しく、硬さや鋭い猛々しさは皆無であり、水の如くひろがっている。変幻自在に流れ、もぐり、染みいり。留めようも防ぎようもない融通無碍な奔流。

「遠慮せんと、はいってきはったらどないやろ。マガツヒやったりよこしまなもんはいない、はいれへんから安心してなぁ」

 コヅキが常になく声を高め、間近にいたこともあって、突然突きとばされたかでもしたようにリウは魂消て跳びあがりそうになり。荒げてもないし、大音声というほどの音量でもなく、リウが小心翼翼としていたからであって。コヅキが声をかけたのはイルカに対してで、見ると敷地手前で立ちどまっている。隣にはキライがいて、後ろには腕を組み、眉間に皺をよせ、口を引きしめてあるセヒョがいて、見守っているというより監視しているといった風情。障害物などなさそうではあったが、はじめて来た場所であるため戸惑っているのだろうか。見知らぬ人ばかりのなか、しかもおのこばかりのなか、若い身空で入ってゆくことに恐れを抱くのも当然であるようにも思われ。何ごとかキライに話をしている。小声なためリウのところまでは聞こえぬものの、どうやらしり込みをしていて戻りたがっている気色。

「なんも案じるもんはあらしまへんて。なんであれば、わてに掴まってもろていってもかましまへんしなぁ」

 キライが和やかにうけ合い、誘い。リウにとっては皆信頼のおける、すくなくも他者に害なすものはいないと知ってはいたが、知らないイルカにとっては不安しかないだろう。見方を転ずれば、虐げているように見えなくもなく、戻りたいというのであれば帰してやるべきでは、と思いきってリウが口を開こうとしたとき、意を決したようにイルカが杖の先で地面をさぐりつつ足を踏みいれて。ほぅ、とコヅキが感心したように声をもらす。そして女わらべが内の地面を踏んだ刹那、くうきが震えジメリと湿った冷えが走りぬける。イルカの着いた地から波紋のようにつたわり来たるものらしい。

「あんさんも気づかはったみたいやなぁ。これがあんひとの本性で、化けの皮をはがしてゆくつもりや」

 目を細めてイルカを観察したままのコヅキから、ささやかれ。化けの皮とは。リウは歩みくるイルカから目を離すことのあたわず。湿り気を帯び粘りのある冷たさが増してゆき。コヅキの言はもう疑う余地がなくて、この細腕のか弱そうな女人は何ものであるのだろうかと眺めいる。あと数歩でぶつかる、といった距離でイルカの足がとまり。

「えらい難儀させてもうて。こないなところまで来てもろて。イルカさん、いわはったか。帰りは遅ならへんよう送らせてもらいますわ。メメさんいわはる官吏の家にいたはるそうやから、そこまでなぁ」

「へぇ、そう気ぃつこてもらわんでも。・・・・そんなんされたら𠮟られてしまいますし」

 イルカが恐縮した素振りでうなだれて。

「ゆくたては話させるから心配あらへんしなぁ。ところで、メメさんていう官吏の家はどのへんにあるんやろ。メメさんいわはる官吏がいたはること自体、初耳やし」

「へぇ、玄武大路のほうです」

「玄武やったらなかなか遠くやおへんか。失礼ながら、お目が不自由である身に、あまりに遠出させすぎやなぁ。むごいことしはる」

「いえ、そんなことおまへん。うちが他のことようできひんから、かろうじてできるお使いさせてもろてて。こうして自由にできる間もゆるしてもらえてて、うち、あるくの好きやし」

 イルカが顔をあげて、杖をもたない左手を振ってみせて。

「ふんふん、そうなんやなぁ、それやったら主に恵まれたいうことでええんやけどなぁ。それが事実やったらなぁ」

 コヅキは口を閉じ、イルカを見据える。見据えられた女人は、はて何のことかと言わんばかりにかすかに小首を傾げ。えッ、リウはそのとき心づいたことのあり、辺りに目をむけようとして。さりながらイルカから目を離せない。離してはならぬ、とさえ感じていて。風の絶えたのかそよぎひとつなく、鳥の声も虫の声も聞こえない。辺り一帯が息を潜めている気配に心づいたもので。みずからの呼吸音、鼓動が耳にしるく聞こえ。コヅキが口をひらき、

「それにしてもけったいなことあるもんやなぁ。玄武大路に官吏の家ないんやけどなぁ。どないなっとるんやろなぁ」

 話しかけるというより、つぶやくように言い。先端の鋭角は鈍いが強固な氷の鉾先がコヅキの心の臓を狙いむけられる。そんな映像がリウの脳裡をよぎり。イルカが何かをしようとしているのだろうか。かすかに小首を傾げた姿勢のままで、面にはなんの変化も見うけられないでいたが。

「・・・・うち、かんちがいして、覚えていたんかもしれまへん」

 ようようたどたどしく、幼げにすら見える口調でイルカが言うと、

「そやなぁ。かんちがい、おもいちがい、うっかりいうことは、人やからようあることや。わてもこの歳になり、ようもの忘れするようになってなぁ」

 ほがらかに笑いながら、

「よう思い出して、ほんまのこというてなぁ。イルカいうんは、かんちがいやろ。そんで、主もメメいうんもかんちがい。そうやろ」

「なんのことやろ、うちにはよう」

「さっきからわてを仕留めようしてはるみたいやけど、無理やで。じぶんの力もかんちがいしたはるわ」

 コヅキが鼻で笑うと、イルカは杖に両手をあて握りしめていたが、明らかに青ざめて、口走る。

「ククノチ、と、チガエシか」

「ふん、よう気づいたな。わかるやろ、もう逃げられへんで。吐いたらどないや。わるいようにはせえへん。好きこのんでやってることやないやろしなぁ」

「・・・・そう、なにも危ないことなんてすることないから。親しくしている人たちに、助けあってやっている人たちがいてね。きっと合うとおもうから・・・・」

 今いるところから逃れ、トリ、ハナ、カゼ、ツキらと仲良く生活を営んでゆけるのではないかと思っていた(思いついたときにはメメという官吏に使われている、という彼女の言を信じていたわけだったが)ことをリウが提案すると、話している最中にイルカが高笑いして遮り、

「なに言うてけつかる。あんたらに何がわかんねん。リウさんなぁ、そうやって甘いこというて他人の心配するふりしてないでじぶんの心配したらどないや」

 喚いて杖を振りあげ。

「なんぞしようとしても無駄なあがきや。無駄いうか、ぜんぶじぶんに返るで」

 周りの樹木や磐から光線みたいなものが発せられて、イルカに集中していて。ねばねばした冷たい湿り気があたりから退いてゆきイルカに戻ってゆく。イルカは力なく杖をおろし。光線は次第に濃くなってゆきイルカを締めあげてゆく。さりながらそれは生体の自由を奪ったり血や息を止めたりするものではなく、心的な部分にはたらいているものらしい。女わらべのなかに巣くうものが拘束されてゆく。ずいぶんとずず黒く、ちいさい彼女の身体によく収まるものだと愕くほかないうごめく巨大な図体。かま首をもたげ、小さな目をぬらりと憎悪で光らせて。リウは固唾をのんでそのさまを見まもる。イルカは地につけた杖を握りしめ、息もきれぎれ苦しげに揺れていたが、それは巣くうものの痛苦であるらしい。

「うちは、ここで、ここで終わるわけにはいかんのじゃッ」

 自分に言い聞かせるように独りごつと、ひと声、雄たけびをあげ、

「メメ、サクマリ、ユン、ユタボン、シカイを投げてよこせッ」

 金切り声で吼えたてて。途端に樹木の陰に四人の影が現れ、連中がなにかをバラバラと投げいれてゆく。投げいれられたものは小さな塊で、何であるのか見分けがつかなかったが、落ちた瞬間にどッと濁った煙とともに悪臭の噴きあげて、リウはとっさに鼻から口にかけ手で被い隠す。が、吸ってしまった後であったのだろう、がんがんと鼻腔内や目から奥へつき刺されるような痛みに襲われ。意識が朦朧としてくるほどの刺激であったが、そんななかでも、どうやらこれは物理的に肉体を蝕むだけのしろものではないらしいと感覚でとらえていて。光線のようなものが揺らぎ、ほつれ切れているのも感じていたため。キライやセヒョの頻りに咳こんでいるさまが聞こえ。そんななか踏み荒らしてゆく数人の鉛いろの残像。

「しなどの風のアメの八重雲を吹きはなつことのごとく、あしたのみぎり、ゆうべのみぎりをあさ風、ゆう風の吹きはらうことのごとく・・・・風の神のアラミタマ、ハヤチの風の神、とりつぎ給たまえ」

 コヅキが腕をひと振りしてから、えづくのを堪えながら唱え。ドブ川に清流がおこるように、風が吹きはじめ、徐々に毒煙が吹き散らされて薄まりゆく。気がついたときには、掻き消えていたイルカという女人の影。

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