第112話 麻の葉模様
メヒシバ、イヌビエ、カヤツリグサ。雑と分類され、手にとるなり近くにせねばどれもこれも同じに見える草むら。眼界を狭めるだけの蒼い群雲。うちに蛾やバッタやクモやゾウリ虫、ダンゴ虫等を抱え。それが寄りそうように生い茂っているのは、切りたおした樹を積み上げて作られし塀。ちいさなムラくらいの広大な敷地を囲み、かつ大人ふたりが肩車しても手がとどかないくらいまでに高く組んであり、いかばかりの樹をつかったものであろうか。火をかけられたのか、といってもすぐに消されたらしく、表面だけ黒くススケタ箇所があり、そのそばに唯一の出入り口となっているらしい、上げ下げする重量感のある木戸がある。そこまで厳重に外部からなかを護ろうとして重量感のある頑丈な作られた砦であったが、木戸が上げっぱなし、つまり開けっぱなしにされているちぐはぐさ。自由に往き来する、チョウやアリ、トンボ。日の照りつける白茶けた地面から、土ぼこりのあがり。もう侵入だとか襲撃にそなえる必要のなくなった、ということなのか。その心配がなくなったということ、つまり心配するような者がいなくなったということ、それは廃れて無人になったという意味を表すのであろうか。仮にそうだとして、みな何処へと移ったのか、それとも散ったのか。なりわいとしているものがなりわいだけに、といってもこの中では皮を加工したり刃物をあつかったりするなど技術を手にもつ者もあったわけだから、そういうものはもちろん別としても、そうそう市井にとけ込めるものはいないはずであったのだが。いずれにせよ健康体であれば、引きつづき芳しくない所業をするなり身過ぎ世過ぎは草の種として、年配者や床についている者はどうなったものか。引きとるなりして養ってくれている奇特な者があったものだろうか。あって欲しい、あるべきだと思うものの。ハナ、カゼ、ツキ、そしてトリ。いくら利発とはいえ、まだ幼さののこり女性のタマには、ひとりであっても荷が重いであろうに四人ではとてもとても無理であろうし。タマの気性を思えば、抱えようとしそうではあったが。
いや、杞憂か。解散させることに決めたとして、後はおのおの勝手にしろと無責任に放りだしたり、まさかすることはなかろう。この場所を束ねていたものに限って。リウはそう信じて疑わず。他のものはともかくとして、親しくしていたあのわらべたちは何処へと移ったのか。いかにしているのだろう。そして、セヒョは。
はたして、無人になったのだろうか。今のところ、なんの物音もなく、ひと影ひとつ見かけなかったものの。だれもいなくなったにしろ、それからまだそう日が経っていないためか、まだ人の気配が濃厚に漂い、誰かしらいるように感ぜられるが。と、なにか聞こえてくる。話し声、いや、節をつけた、唄声が。
うちのうゥらの梅の木に
雀が三羽とォまって
なかの雀のゆうことにゃ
ゆうべござった花嫁御
六枚屏風をたてつめて
すっぽりかっぽり 泣きしゃんす
なにが不足で泣きしゃんす
なんの不足もなけれども
わしのおととの・・・・
これはモリゾウがよく口ずさんでいたもの。さりながらこれを唱えているのは、はたしてモリゾウだろうか。かろうじて聞きとれるくらいのかそけきものであったため、判断をしかとつけるに困難を覚えていたが、どうやら別人らしい。感情も抑揚もない、あたかも人形に歌わせたら、かくなるか、というような無機質な響きで。それ以前に、モリゾウは既に鬼籍にはいっていたわけだし。縛めがとけ、自由になれたものだろうか。そうであれば良いのだが。思案していると、またぞろべつの唄声が流れきて。
・・・・ひろお、豆ひろお
鬼のこぬ間に豆ひろお
やしき田んぼに光るもの
なんじゃなんじゃろ
虫か、ホタルか、ホタルの虫か
虫でないのじゃ、・・・・じゃ
トリがいるのだろうか。明らかにわらべの声で、この唄を発する者、とリウの承知している人物はトリひとりしかいない。もしトリのものだと仮定すると、これは喉から出て鼓膜を震わせるものではないのかもしれず、ここにいるのではない可能性が表れてくる。思念を飛ばすことの出来る子であるからで、もっともわらべ唄をわざわざ飛ばしたりするものなのかといささか疑問が生じもするものの、トリにとってはつぶやいたりするのと感覚的にはかわらないのかもしれぬのだし。むろん仮定の話であり、トリでないかもしれず、この唄声が先ほどの者とは異なる人のものというだけはなんとか掴めたものの、これがトリのものだと確信をもてるまでには至っていない。こちらもまたか細く、特徴まではしるく認識できないものであったため。鼓膜を震わせるものか、うちに直接響いてくるものかも判然とし得ないようなあえかな。判然とできないのは、こちらの今の状態も影響していそうではあったが。
ひろお、ひろお、豆ひろお
鬼のこぬ間に豆ひろお
オニとはなんのことだろうか。だれを、何を指しているものか。そして豆とはなにか。そんな取るにたりないようなたわいないことが、払っても払っても纏わりついてくる羽虫のように気になってきて歩がゆるみ、立ち止まってしまう。羽虫の羽音のようなわらべ唄がつづいているなかで。これははたして外部から発せられたもので、それを受けとったものなのだろうか。幽かにめまいがしてくる。もしかしたら、自らのうちから湧きだし、何度も何度もぐるぐるくり返しているだけのものではないのか。他はなく、自だけがあり。唄、のみならず、事象すべてが。いま立っている土、いる場所、それは思いこみだとか気のせいでしかなく、ほんとうはーーほんとう、とはなんだろうか。そんなものが、どこかにあるのかーー何もなかったとしたら。あるのは吾ばかりで。いや、吾というものとて、実際にうつつに存在するものなのだろうか。かく思ったり堂々めぐりし、迷うはたらきがあるから、存在するもの、ともいえるのだろうか。見えたり、聞こえたり、触れられて、感じられるから存在するものといえるのだろうか。それはまことに、見えたり、聞こえたり、触れられて、感じられるているものなのだろうか。対象となるものがあって、自分というものがあるという確かな証しとなり得るものなのだろうか。何かしら在るのは確かだとして、それは何ゆえに他の人とはべつの人である自己だといえるのだろうか。いや、人に限らず、虫やケモノや草や木や、それのみならず雲や石や水や土と、どうしてべつのものだといえるのか。なぜ切りわけようとするのだろうか。ただ、本来のありようを思い出す、戻りゆくというだけのことで、自とか他とか拘泥することこそが異常なことではないのだろうか。自他のない、いや、自他の別れ目のないものであればなべて、おのが内に外におきていることであり、あらゆるものがなく、あらゆるものがあるとも言い得るだろう。閉ざされる視界。いや、閉ざされたのではなく、呑まれた、同化しただけのことだろう。森羅万象ことごとくひとつであるならば、見る対象も、聞く対象も、嗅ぐ対象も、触れる対象も、対象となる他などないわけだから。
「・・・・人は、ちとせの命のぶというなり」
なにかに耳朶をうたれたかと感じると目のひらき、火の消えたばかりらしく、うっすり煙のあがるロウソクが見えてきて。ミンミンゼミの鳴き声。葉のそよぎ。焚かれた薫香。何だろうこれは、ここは。いかなる状況下にあるのか、刹那に呑みこめずにぼんやりしていると、
「やはり、ええあんばいにゆかへんかったみたいやなぁ」
しわがれた声がして、浮かび上がるようにヒョウタン頭のコヅキの姿がとみに現れて。なにも透明に化していたわけでなく、リウが認知していなかっただけで、ずっとリウの目の前にあるロウソクのそばに坐していたことが、にじみ出すように次第に思いだされてくる。リウのもつ能力を、暴走させず、使うべきところで使えるように訓練することとなり、手はじめに焰を見つめることをさせられたところであったが。室のうちには他に人はいない。ところで、消したのはコヅキであろうか。風が吹きけしたものであるのか。リウは気になりながらも問うことができずにいると、
「そやなぁ。それなら、これなんかなぁ」
小柄な老爺がおもむろに柏手をならし。大人のおのこにしては小さな手で、厚みもそうないというのに屋敷中に鳴りわたるように大きく立った音に、リウは弾かれたように愕かされているなか、間をおかずに、へぇと返事をして来るキライ。反物であろうか、丸められたものを捧げもちて室にいると、それを床に広げ敷き。緋と浅葱とが半々に染められた布地。そこに坐るよう、コヅキから言われ、上等なキモノに仕立てられそうな見事な色あいに気が咎めつつ、踏みこみ。正六角形が組み合わされた模様が描きこまれてある。麻の葉模様というのか。足裏をあてたときから、なにかべつの空間に足を踏みいれたような、空気のいろというのか、密度というのか、変化があらわれたように感じる。
「楽にしとったらええ。好きなようにすわってもろてなぁ。で、かまえず好きなもん思いうかべてな。ひとつのもんがええな、うごかんもんで。基本それを思っていてもろて、それかというてなんやら他のもん出てきても、あかんあかんて思わんでええから。出てきたもんは出てきたもんでええし。ただ、思いうかべておくところは初めに決めた、うごかんとこにしとけばええだけのはなしや。目?、ああ、あけといても、閉じとっても、それも好きにしとったらええし。鍛錬だとかなんやらそういうこと考えんでもええしな」
なるたけひとつことに気をとめるようにするだけで、後は気負わずにいればよいとの指示で、そんなにゆるゆるで何か効果があるのだろうかと訝りつつ、焰を見つめていて醒めて、思いの他に消耗していたらしくくたびれてもいたため、渡りに舟でもあり、幾何学模様の布の上にしゃがみ込み、ぼんやりと庭を眺めて。日盛りのなか、トンボのゆき交う。乗った瞬間からであったが、なにか敷き布から外とは遮断されているような、そうくきやかな違いではないが、見えない紗でもかけられているようなかそけき違いを感じていて。さりとて微かな感覚であるため、馴れもあり、すぐに意識されなくなっていったものだったが。すぐにしんと胸のうちの静まり。そうおのずから出来た、というより、その敷物の作用であるのかもしれぬ。意識を止めることなく、止めさせられることなく、リウは目を瞑り、迷わずシラギ山を思いおこし。それはコヅキの描いた遠景を元として。水戸やにある掛け軸のなかに収められた絵。あれは現地で筆を走らせたものなのだろうか。あたかも朱雀の上にのり描いたような景観であったが。
「おもうこと、みなつきねとて麻の葉を、きりにきりてもはらえつるかな・・・・」
コヅキのつぶやく声が、さざ波のようにゆき過ぎて。うす雲のかかる上空から下ってゆき、スギの林立するもとへと降りたちて。カッコウの声のこだま。カワズの音のわき。セミの声はすくなく、ササキリのひっそりとした音がして。間違いのなく、はだ馴染みのある場。樹間をぬい、クマザサをかき分けてゆくと、徐々に水の気配、匂いの濃くなってゆき。はたしてこれで良いものだろうか。コヅキからは、ひとつことに思いを定め後は自由でかまわない。ひとつことは、動かないものが相応しいと言われ、動かざるものの代表のような山としたのだったが、さりとてその上をあちこち往き来するのが適切であるものかどうか。自由を、好き勝手とか放埒ととり違えているのではないか、とためらいのなくもなく、後ろめたさがなくもなかったものの、それをもかき分けかき分けして突き進んでゆく。そぞろに気を惹かれてならなくて。先に何があるか分からずにやみくもに歩んでいっている、わけではなく。明確にいま自分がどの辺りにいて、いずこに向かっているのか意識せず、掴めてもいなかったが、そこに待ち受けているものを感じとれてはいて。招かれているというのが近いのか。ミズナラやブナの立ちならぶ木蔭に鎮座せしもの。クマザサをぬけ少し開けた場所、人馬が往来する路から比較的ちかいところに、それはあり。久しぶりで、懐かしいものと再会したようなうれしさの湧く。しめ縄をかけられた磐座。泉があるわけでも、したたり落ちる水があるわけでもないのに、水気をおびた苔が繁茂していて。泣き虫イワとか、おサワの磐とよばれてあるもの。今にも、しずくのしたたり落ちてきそうな涼に充ちた空間。そういえば、初めてであったことに心づく。通りすがりに目にするだけで、ゆっくり眺めることも近寄ることもなくきていたことに。幾度となく、前もって危険を知らせてくれたというのに、ひと度とて感謝することなく今にいたることにも思いあたり、手をあわせ低頭し。詫び、礼を述べていると、同時に通りすがったおりのことが思いだされもして。セヒョとの慌ただしい道ゆき。シュガとタマとニジとの、穏やかでなごやかなとき。そう昔のことではないはずであるのに、はるか遠くの出来事であったようにも感ぜられ。実際にあったことであろうか、と疑わしくさえなるほどの、おぼろな円やかな光景。ああ、駄目だ、また気が散り、それている、と気を引きしめようとする。いまはこの磐にむかっているところで、しっかりと・・・・と、不意に顎のあたりに冷んやりしたものーー風だろうかーーがふれ、それはあたかも手でもってこうべを掬い上げられるようにとらえ、支えられて持ち上げられたように。顔をあげなさい、と言われてでもいるかの如く。それは細くしなやかな指の感触に似て。
一体、これは。おもてを上げて、目を見はる。樹蔭に磐座があるばかりなはずであったが。あまりに意想外な情景に、理解が追いつかず、ただただぼう然と突っ立っているしかあたわず。いつの間に現れたのか、数多のものがひしめいていて。ハチ、毒ガ、ワシ、タカ、ムカデ、ヘビ、ヤマイヌ、キツネ、アナグマ、タヌキ、ムジナ、シカ、イノシシ、クマ、等々。それらの一体であっても人ひとり軽々仕留められそうなーーましてやリウであってはひと溜まりもないであろうーー、明らかに毒牙や強靱さを備えていると判るケモノたちの群れ。そしてケモノの変わりない類のものであるようではあったが、兇器を手にした人のなりをしたものも幾たりかいて。濃厚な意志、意図が見てとれる。殺傷するために取捨選択され集められたもの共。それら各々によるものはなく、集めた存在の痕跡が、かき混ぜ濁りたつ沼を思わせる煙状に立ちこめてあるのが感ぜられる。そこにあるモノらは、外観としては獰猛であったり凶悪そうに見えたが、殺意等害意を加えようという気色はつゆさらなくて、閑かにたたずみ、とまりしてあって。ために急に目の前に大量にとりどり現れたことに驚きはしたものの、気圧されたり震えあがったり射すくめられることのなくいて。さりながら虚ろというのでもなく。恐れを抱かずにいられたのは、見た目とは裏腹に、またおよそ和していられるような関係性をたもてなさそうな面々でありながら、やわらかくあたたかな和気あいあいともいえるような雰囲気が醸しだされていたからでもあって。そしてまた、なぜか見覚えがあるような気もされていたから、ということもあって。いや、そんなことがあるだろうか。獲物にされたら、ひ弱な吾など運がよくても無傷ではいられぬに決まっているこれだけの数のものらと、何時、どこで。
ひたッと生まれ湧く水の音、音ともつかぬ気配のして。磐座にまた新たににじみ出て、被う青い苔に染みわたり、潤わせて。その生まれたてのゆるやかな流れ、傾斜につたってゆく動きに呼応するように、ありさまとしては兇暴そうなさまざまなモノらの姿が、陽炎のようにゆらめき次第に薄れゆき、消えてゆく。樹木の織りなす闇と、しめ縄をかけられた濡れる磐、遠くからヤマバト、虫のすだく音だけがのこり。時おりする、水のにじみ出す気配。息をすい、はくような、脈をうつような、そんなひっそりと、だが着実な運動を身のうちのことであるように感じられていて。どっと熱くこみ上げてくるもの。液体と化し、溢れでて。まったくの勘違いであるのかもしれない。さりながら、あのモノらが消え去るまえに、伝えてくれたことがあったような気のされて、それが胸にしみ、響きわたったからで。みな一様に同じことを、こと葉を介せずにつたえてきて。ありがとう、という謂を。ああ、と瞬間的に直感す。何のことだろうかと疑問をもつ間ももたずに。ヨネのところで出会った、切りきざまれ浮かばれずにさまよっていたモノども、そしてセヒョに結びつけ封じられていたモノども。ヨネのところのモノと、セヒョの内にあったものは、本来ひとつのモノであり、要するに怨みだとか憎しみだとか怒りだとか恐れだとか哀しみだとか強烈な念をもつ部分をセヒョに閉じこめ、残った部分がヨネのいたところへと集まった、ということなのだろう。真相は分からないものの、リウはそう感じとり。ぽたりぽたりと地面を濡らす。吾はなにもしていないというのに。そういう戸惑いはあったものの、膨大な感謝の思いや、欣喜雀躍のなだれの前では手もなく押しながされ。ただ、ひたすら、良かったとよろこんでやる気持に満たされ、光輝に包まれて頬をぬらし。耀よう金銀砂子の奔流に身をまかせつつ、裏を返せばそれだけの辛酸をあたえられていたからということでもあり、だれが、どういう存在が、何のためにあんなことをしていたのか。そう疑問をもった途端に、とりまく波の絶え。静まりかえる湖水に目を据え、見つめる。波紋もたたないみなもに、カスミが晴れるように表れでてくる映像。輪郭が捉えられそうなくらいにまで見えてきたときに、
ーーまだはやい。
そう呼びかけられて引き離されて。えり首など引っぱられたりしたわけではないが、躰のういてみなもの消滅し。その声は、コヅキのものであるようであり、またべつに、女人のものであるようでもあり。起こされ、起きなおったとき目にはいる、ムクゲの花々。うっすら紫がかった花びらの、微細なゆれ。
磐座のまえに、若い女人が現れていて。前、というのか、磐にかさなるようにして立っている。浅葱いろの薄衣をまとい、ほそおもてに微笑をただよわせ。おサワと称ばれている人なのだろうか。悲劇的な別れで泣きくらし磐と化したという。さりながら、どうも歎きぬいて肉体を失った人のように思われず、そも人であったこともないのではないか。人のなりをして現れてはいるものの、人ならざるもので。そう思ったとき、それが伝わったようで、女人はゆっくり肯き、うたかたが弾けるように四散し。
ーーもしも、守るものは守り、人として生きてゆくのであれば、身につけねばならぬものがあります。
それはコヅキからも言われた、制御する術ということだろうか。
ーーそうです。それはまた、自身を守る、他からものを撥ねつけるということでもあり、あなたにはむつかしいのかもしれませんね。
むつかしいというのか、それは自分勝手というか、自分さえ良ければということになってしまいそうだが。そう思ったとき、笑いの波動がつたわってきて、
ーーそれが人というものだろうに。人としてあろうとして、人として円滑にゆこうとするのであれば、そうする他にどうしようもないでしょう。
人は、他のなにかよりも特別に優れたり特別なわけでなく、そう見えるところがあったとしても根をはる樹のように長生きできるわけでなく、イヌのように速く駆けられるでなく、クマのような力強くひき裂く力も爪もあるでなく、他とおなじくツチに生かされるものであることに変わりがないわけで。それで人であるために、別種としての在り方を覚えなければならないというのは如何。
ーー人は、その優劣はべつに、優劣というのも人のつくったものですが、ツチに生かされながらそれを忘れさり、むしろわがもの顔になり、ときに厭い、はなれようはなれようとすらしているであろう。それの正否は問わず、そういうところを歩んでいるものと、ツチに生きるものが歩調を合わせられるものでしょうか。そのちがうところに生きる人として、おなじ人と生きるのであれば、その術を身につけなければならない、ということです。もっともツチにちかいところにいる、そなたにはむつかしい、つまり人としての特徴が欠けている、ということなのですから。
利己的になれ、と言われているようで一等避けてきたことであったが、たしかにそうなのかもしれぬ、と渋々ながら認め、受けいれようとし。まず人として保つことを覚えてから、他と融合(還る、だろうか)する方法を模索していってもよかろうし。
ーー閉じることを学びなさい。そなたの心は、ひろく深い。それを被いこみ、閉ざすこと。まずは、わたくしを感じられないようになさい。
なさい、と言われても具体的にどうすれば良いものだろうか。被う、とはなにによって。内側に内側に意識を集めてゆく。回転する白光の玉。羽衣のような紗がいくつもいくつもあらわれ、彩りゆたかなそれらが幾重にもまわりに掛かってゆく。玉を包みこむのではなく、玉のある空間を外部から御簾をおろすように隠してゆく。静謐、ともちがう無音に気がつく。耳鳴りがしてきそうなくらい、物音が絶えてなく。自らの鼓動や、呼吸音だけが聞こえ。何だろう、これは。この感覚は。脈も息も乱れ、早まってゆき。だれかに締め上げられたり押さえつけられているわけではないことは判ってはいたものの、そうされているかのように身動きできず、息が詰まってくる。必死で足搔きまわろうとしながらふと気がつくと、なにも見えなくなっていて。なにも聞こえず、なにも嗅げず、なんの感触もなく。そんななかにあって、息苦しさだけが存在し。躰もなくなったのか抵抗しようにも、うごかせるもののなくて。これは、いったい、なん、なのだろうか。どう、して、しまっ、た、のか。意識も、思うそばから砂山のように崩れゆき、思うこと自体、体をなさなくなってゆく。いままでも、無感覚といえる状態になったことはあるし、久遠の闇の泥のうちに一体化していた感覚をもったことはあり。さりとて、このような冷えてかたい無機質なところに転がされたところと異なるし、なかんずく一体化どころか完全に繋がりがなく、個体として棄て置かれていることはことに。
ああ、そうか、と閃く。何も圧迫されたり絞められているわけでなく、ゆき交うもの巡りゆくものを断たれたため、いや、自ら断ったためということか。そう気がついて、それでは隔てをすこし緩めればよいのではと思いつき。さりながらどうやったら、緩めることがかなうのか分からず。どうやって遮断したのかを思い出そうとしているなか、窒息するような痛みが激化してゆき、気がうすく透明になってゆく。そんななか、貫くように聞こえる声。呼びかけられている、らしい。
ーー・・・・にいさん。リウにいさん、聞こえてんかッ。
二重扉を開くような抵抗を押しのけるように、まぶたをかッと開けて。日の光とともに飛びこんでくる光景。シノノメ草のしぼんだ花々。トンボがすべるように飛び交い、ミンミンゼミの遠くから鳴く音。どれだけの時が刻まれたのか分からないが、ともかくさほどではないらしいことは、影の具合から察することのかない。倒れこまず、坐したままでいられたらしい。ため息をひとつ洩らす。
「えらい難儀したみたいやなぁ。ひと息にできるようならんでも、すこしづつできるようなればええんやからなぁ」
脇にいたコヅキが気づかうように言い、平気ですと言おうとして、焔のものでくたびれていた状態で、気軽に息ぬきとしてできるかと思いきや、比べものにならぬ過酷さで、まだ息苦しさや脈拍の早さのおさまらないさまであったため素直に肯き、とりあえず一旦終了ということを受けいれて。麻の葉模様の敷物を回収されるのだろうから降りようと、手をつき起ちあがり。先ほど身をうってきた声を思っていて、それもあってすんなり従った部分もあって。あれは、多分トリからのもの。何があったのだろうか。切迫した調子で、そもよほどのことがあったからこそ、思念を飛ばして寄こしたものであろうし。気もそぞろになりながらも、覚られないように、しんどかったんやないか、と言われ、苦笑しながら首をふってみせたりして、ともかく早くひとりになって意識を集中させてトリに問いあわせたくいて。砦で、なにがあったのだろうか。
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